七章 其の鳴き声、人の嗤うに似て(9)
理解が追いつかない状況、というものにも限度がある。
「……………………は?」
あまりにも突然の事にクゥエルの口から呆けたような声が出た。
彼の知る限り嗤い犬は屍食鬼から変じる際に人としての知性を完全に失う。人の言葉を喋れるはずがなかった。
だが目の前の『嗤い犬』は目の前で巨体をごろごろと転がして腹を見せつけながら、平然と喋り続けている。
「参った参った、ほれこの通り」
「……なんのつもりでしょうか。こちらを愚弄しながらいたぶろうとでも?」
「ちげぇよ、こちとらそんなに暇じゃねぇ。そもそも、オレは別にお前らを喰いに来たんじゃないの。勝手に襲いかかってきたのはそこな従者、お前の方だかんな」
辛うじて返したクゥエルの疑念に答える声は、年嵩の男性のものに似た低くしわがれたもの。ただ口調は、老齢と言うにはやけに軽薄である。
確かに、先に魔術による攻撃を仕掛けたのはクゥエルの方ではあった。
だが、隠形を見破った上で喋れるにも関わらず無言で接近してきたのは嗤い犬の方である。加えて普通の――普通の魔獣とはと言う概念の問題は置いておいて――嗤い犬を知っていれば尚更、会話の余地があるとは思いつかない。
クゥエルの方からすれば、相当に勝手な言いがかりだ。ただ、状況に思考と感情が追いつかなくなって、反論の言葉が出てこない。なまじ懸命の覚悟を決めたばかりに、目の前の状況に対処するだけの柔軟性が失われていた。
「ところで、何時までその格好なんだ? それとも見せつけてんの?」
そう言われて、ようやく二人は固く抱き合ったままだった事に思い至る。
再び戦闘が始まるにせよ、この体勢は確かにいただけない。クゥエルは慎重に腰を折り、ヘリテはゆっくりとクゥエルの首に巻き付けていた腕を解いて、地面に足を付けた。
嗤い犬はその仕草を眺めた後、こてんと小首を傾げて言った。
「……思ったより冷静だな。そこはもっと恥じらうとこじゃねえの?」
「……」
「? 何か、恥じ入るような事がありましたか?」
「お、おぅ……イイエ、ナンデモナイデス」
平然とかつ不思議そうに問い返すヘリテに、何故か嗤い犬の方が鼻白んだように言葉を濁らせた。なおクゥエルは無言で冷たい視線を向けるのみである。
ヘリテからすればクゥエルにはこれまで抱えられたり背負われたりと、散々運んでもらった身である。この程度の事、何の疚しい事も無い。
「……けっ、これだから定命者は。見せつけてくれやがって、ったく」
ぶつくさ言う嗤い犬の口調は不機嫌そうなのに、わっさわっさと振られる巨大な尻尾は楽しげで、何を考えているのか分からない。
なので一切を無視して、ヘリテはクゥエルに代わって直球で反論を投じる事にした。
「そもそも人語が喋れるのなら、もっと早く話しかけてくだされば良かったのでは?」
「いやまぁそこは悪かった……思ったより活きがいいから悪ノリしたのは認めるわ」
ぺたん、と嗤い犬の両耳が伏せた。ヘリテの言葉に素直にあっさりしょげ返る姿には、多少の罪悪感があるように見えなくもない。明らかに力関係は逆なのにまるで鼻にかける様子のない、何処か憎めない態度であった。
正直に言えば、少し可愛くすらある。
そもそも、先にヘリテが睨んだ時も視線を逸らした事といい、嗤い犬はどうもヘリテには強く出られないようだった。
ヘリテにしても、嗤い犬が人語しゃべり出した時から、何故か恐怖や畏怖のようなものを感じられなくなっていた。不思議なくらい警戒心が働かない。見上げるような――今は腹這いになってるので目線は正面で済むにしろ――巨大な獣、それも強力な魔術を操る魔獣相手に、まるで屋敷に通っていた美術商と話す程度の気安さしか感じない。
これが魔術による攪乱だとすれば恐ろしい事だが、そもそも圧倒的に優勢だった側がそんな回りくどい事をする理由が分からない。
だが、そもそも嗤い犬の方から黙っていた理由を説明してくれた。
クゥエルからすれば、大分ろくでもない理由だったが。
「従者の方、相当腕に自信があるようだから、話を円滑に進めるにゃあ少しだけ付き合って疲れさせた方が話が早いと思ったんだが……まさかここまで仕上がった奴だと思ってなかったからなぁ。普通に降参するかと思ったら、ノータイムで特攻仕掛けられてびっくらこいたぜ」
打って変わってヒィヒィとおかしそうに笑う嗤い犬に、ヘリテが眉を吊り上げた。
「びっくりした、で済む話ではないと思うのですが」
ヘリテの言葉に宿る強い剣幕に、嗤い犬だけでなくクゥエルまでもがぎょっとした。
正直に言えば戦闘で勝てる見込みが薄い以上、脱出の方策を練っているところだっただけに、あまり相手を刺激したくなかった。むしろ出来るだけ油断してくれた方が、離脱の可能性は上がる。
それでも、力量差を考えると成功の見込みは一割もない。だが先ほどの実質同士討ち狙いより大分ましである。
少しでも追加で成功率を上げるための時間稼ぎとして、クゥエルはヘリテを宥めにかかる。
「お嬢様、私は大丈夫です。どうぞお気遣い無く……」
「クゥエルは大丈夫でも、私が大丈夫ではありません」
しかしヘリテの勢いは止まらない。あるいは先ほどずっと溜め込んでいた心情の一部を吐き出してしまったせいだろうか。
忘れかけていたインフェルム伯家の令嬢としての自負と責任感に、一時の火が着いてしまっていた。
「私の従者は、私のために命を賭けました。それを嘲弄されて黙っているなら、私はクゥエルの主失格です」
今となってはヘリテにも、目の前の魔獣に害意のない事は間違いないと感じていた。
そう感じたからこそ、ヘリテは筋を通すべきだと考えた。
理屈ではなく貴族の本能としてである。
責めたい訳では無い。だが、自分の在り方……スタンスとでもいうべきものを、示しておく必要がある。そう自然と腹が据わったのだ。
上位者である相手が自分を対等に扱ってくれているからこそ、自分もまた相手にへりくだるのではなく、対等かつ正直に接する事こそが礼節なのだ。
でなくては、立場の違う者同士でどうやって対等の会話が出来るだろうか。
「貴方が魔獣か幻獣か不死者か、あるいはもっと凄い存在なのかは知りません……ですが、ただ嘲笑うために高みから見下ろす存在に、ガゼットリア貴族の子女として下げる頭はありません」
「お嬢様!」
流石に言い過ぎだと顔を青ざめさせたクゥエルの前で、嗤い犬は低く唸った後、持ち上げていた頭と尻尾を地面にぺたりと着けて、神妙な声で言った。
「……はい。すいませんでした。オレが調子乗りました、ごめんなさい」
「……なん、だと?」
ハギル相手のような対人と違い、クゥエルは基本方針として人外との会話を諦めている。屍食鬼相手にも、会話というよりは言いたい事を言っただけだ。
それだけに、話し合いの末に魔獣が力に劣る少女に素直に謝るという光景に、軽いカルチャーショックを受けてしまった。驚愕の声が漏れてしまった理由である。
ヘリテはそっと息を吐いて肩の力を抜き、自分からも歩み寄った。
「……失礼しました。私も初対面の方に言い過ぎました、ごめんなさい。……その上で改めて伺いますが、貴方の本当の目的は何なのですか?」
「あー、それはなー……」
どこか決まり悪げに口を開きかけた嗤い犬が、突如俊敏に身体を起こした。とっさにクゥエルが前に出てヘリテをかばうが、嗤い犬の視線は反対方向――宿場町の方に向いている。
「うわやっべ、もう抜かれた。後は虎の子しか残ってねぇぞ……あーもう、自業自得とはいえ、連中このままじゃあ無駄死にだぜ」
クゥエル君受難の巻。そして話の通じる相手に開き直るとお嬢様の本領発揮でございます。
さーてそろそろいい加減交差するのかしないのか……。