二章 暗天の執事
二章 暗天の執事
「……お嬢様」
廊下の奥はまだ火の海に飲まれている。
凍てついているのはヘリテの両手が届く範囲のおよそ倍ほど。その僅かな空白地帯に、炎を背にして踏み入る人影があった。
「クゥエル……」
そこには見知った執事の見慣れない荒れ果てた姿があった。
綿のシャツに黒のベストとスラックスを基調とした侍従服のあちこちは破れ、あるいは焦げて褐色の地肌を晒している。破れていない部分には黒々とした染みが点々とつき、頬や首筋にも飛び散って端正な容貌を凄惨な姿に変えていた。
ヘリテの喉の奥が勝手に動いて浅ましい音を立てる。クゥエルの服を汚しているものが血だと気付いたのはその後だった。
何より、右手に握ったままの短剣が握られている事が一番異様だった。背は高い方だがどちらかと言えば細身の体格に度を過ぎそうな程の礼儀正しさ。荒事とは無縁のイメージをもたれていたクゥエルが、帯びているにはその手にした血塗れの短剣は細く、鋭く、剣呑だった。
「……っ!」
ヘリテの喉が再び強く鳴った。
頬や首筋にこびり付く血の跡に目が吸い寄せられる。
本当なら傷の心配をするべきなのに、耐えがたい疼きと空腹が頭を支配していく。
(美味しそう)
頭の中で、その呟きはまるで熟れた林檎が木から落ちるように自然と湧き上がった。
呟きが思考から鼻の奥を流れ落ちて舌の端に乗った瞬間、ヘリテは反射的に悲鳴を上げた。
「イヤ、来ないで!」
耐えられないと思った。
血の誘惑に耐える事も、自分が何になったのかを察して、クゥエルが浮かべるであろう嫌悪の表情も。
ついさっきまで孤独と死の恐怖に泣き叫んでいたというのに、この変わり様はなんだろうか。自分の浅ましさ、くだらなさにまた涙が湧き上がるのを感じ、ヘリテはその場にしゃがみ込んで、首を引っ込めた亀のように伏せて丸くなった。
「来ないで……お願いだから、あっちへ行って……」
顔を伏せたヘリテに向かってくる気配。血への渇望、親しい人間を死なせてしまうかもしれない絶望、あるいはあの短剣で自分を終わらせてくれるのではという希望がない交ぜになったままヘリテが面を上げる。炎と凍気の狭間を跨いで目の前でクゥエルが無言のまま跪いていた。頬や髪の毛には霜が下りている。つまり、凍り付きかけていた。それでも動かない。動かないまま、ヘリテを待っていた。
「なんで……、どうして……」
「ご報告致します」
何時ものクゥエルの声だった。先ほどヘリテを呼んだ時の方がまだ声に動揺があったように思える。
クゥエルの次の一言は、ヘリテの思考を戸惑いごと消し飛ばした。
「先ほど、ご当主と奥様が亡くなられました」
「え……」
両親の死。予想はしていた。生きていて、今自分の傍に居てくれない事の方が信じられない。
それでも、他人から突きつけられる事実は心をひび割れさせるには十分な衝撃だった。
だがヘリテの茫然自失を無視して、憎らしいまでの平然さを取り戻したクゥエルが言葉を続ける。
「つきましては、私の主はお嬢様ただお一人となりました。どうぞ何なりとお申し付けください」
「な、何を言っているのですか、あなたは……私が、こんな私に、あなたは……!」
こんな有様の自分に仕えるなどという言葉が真実のはずがない。こんな時に冗談とは人が悪いなどというレベルでは無い。苛立ちと不満を言葉に仕切れないまま顔を歪めたヘリテは、しかしこちらを見るクゥエルと眼を合わせて言葉を失った。
クゥエルは真っ直ぐにヘリテを見ていた。
何時もの、冗談というもののまるで通じない、木で鼻を括ったような唐変木。逆に言えば、何事にも馬鹿がつくほど真面目な見慣れた青年執事の顔。
「お嬢様……いえ、ヘリテ様」
クゥエルが言葉を続ける。
「私は何処までも貴女にお供致します。それが私の願い……貴女の苦難の時に間に合わなかった、私の贖罪でございます」
ヘリテは自分の顔がさらに歪むのを自覚した。
クゥエルは、少なくともヘリテの現状を、ヘリテの身に何が起きたのかを極めて正確に理解していた。理解した上で、選択しているのだ。
「クゥエル……」
「私は、貴女を最期の主といたします」
そう言って青年執事は口を噤んだ。霜が降りる程の寒さにも震え一つ見せず、ヘリテの言葉を待っている。
「私は、……わた、しは……」
しゃくり上げるせいで言葉が途切れる。ヘリテは今もまだ子供ではあるが、これほど人前でみっともなく泣きじゃくるのはここ数年は無かったはずだ。
恥ずかしさに顔を覆いながら、それでも必死に言葉を探して、押し出して言った。
「わたしは、まだ、しにたく、ない、です……ひとりは、ひとり、は、いや、です……」
「承りました。我が主」
閉ざした視界の向こうで、クゥエルが立ち上がったのが分かった。そのまま何とヘリテを抱き上げると、赤ん坊がそうするように彼女の頭を首に埋めさせた。
もう何も考えられないまま、ヘリテはその首筋に口づけて張りのある肌に牙を埋めた。そして迸る熱い液体を口にした直後に、気を失った。緊張の糸が切れたせいか、初めての吸血行為に人としての精神が耐えきれなかったのかは分からない。
以降、しばらくはヘリテの意識は眠りと曖昧の境を行き交っていた。
何処からか調達した毛布で包まれてクゥエルに運ばれ、森の中の小さな洞窟に横たえられた所まではぼんやり憶えている。
今後の準備のため、しばしここで待っていて欲しいと言われた時はまだ心細さで涙が零れたが、洞窟の壁を伝う滴が瞬く間に凍り付いたのを見て、どうにか小さく頷いた。自分をここまで運ぶまでに、クゥエルに酷い負荷をかけてしまっただろう事を想像して。
やや苦しげに一礼した後素早く洞窟を離れるクゥエルを見送った後、ヘリテは長く寝台に伏せていた頃の経験に密かに感謝してから、そっと眼を閉じた。
もう、二度と目覚めなくても構わない。そう思いながら、深い深い悪夢へと落ちていった。