七章 其の鳴き声、人の嗤うに似て(5)
Hye―――ahh―――!
突如、嗤い犬がはしゃいだ歓声のような鳴き声で鳴くと、その場でくるりと旋回した。
犬がその場で跳ね回る動作そのままに打ち振るわれた前足と尻尾が、クゥエルの影鏡従士の何体かを一息に薙ぎ払う。それぞれが丸太か枝葉付きの生木かという程の質量による殴打は、無防備に受ければクゥエル本体でも一溜まりもない。
遙かにあやふやで儚い存在でしかない影鏡従士は、殴打を受けて即座に消滅こそしないものの、激しく輪郭を明滅させる。
「ちぃ……っ、『零。解法よ在れ』!」
とっさに術式を解除するクゥエル。だが僅かばかり間に合わなかった。
次の瞬間、クゥエルの身体は目に見えない拳に打ち据えられたように数歩分を吹き飛び、同時に執事服のあちこちが引き裂け、鮮血が飛沫を上げる。
影鏡従士は、誤解を恐れず簡略に言えば『極めて低い確率で本人である可能性がある、鏡に映った術者の姿』だ。この僅かな可能性を術者にとって都合の良い数字に瞬間的に改変するのが虚数魔術だが、その結果として当然、影に加えられた攻撃は『極めて低い確率で本人に加えられた、影への攻撃』となる。
そして虚数魔術によって操作された確率は、外部からの干渉にも適用される。割り振られた実存率で幾ばくか軽減された後、術者に反動として反射、反映されるのだ。
今のクゥエルを例に取るなら、影鏡従士五体がなぎ払われた結果、影それぞれが受けたものよりいくらか弱まった打撃を、五発全てその身に叩き込まれた形になる。
複数の影鏡従士に攻撃が加えられた場合、反動は影の数だけ乗算されてしまう。強力な術式には相応の危険性がつきまとう好例である。
とっさの術式解除でさらに反動の幾らかを切り捨てる事には成功したが、それでも痛撃と呼ぶに余りあるダメージを受けて、クゥエルの膝が初めて震えた。
「か……ふ……っ」
よろめいたクゥエルに向かって、高々と振り上げられた前足の叩き付けが迫る。
とっさの回避は今度は間に合った、かに見えた。が、同時に突然全身が鋼鉄の鎖に巻き取られたように固く重く動かなくなって、クゥエルは驚愕に目を見張る。
見れば嗤い犬の前足は、しっかりと獲物を捕らえていた。
クゥエルの影法師が、その曲刀のような爪によって縫い留められていたのだ。
「不味い……『光在れ、打ち消せ』!」
反射的に放った対抗魔術入りの光源が、叩き付けられたクゥエルの影を半分だけ消し飛ばす。
だがもう半分……腰から下に該当する部分が、地面に黒く塗りつぶされたように光の中で存在を主張していた。同時にクゥエル自身の下半身も、いつの間にかまるで影法師と入れ替えられたように平坦な黒色に塗り潰されていた。
否。まるで、ではない。
実際にクゥエルの身体の半分は虚数平面に写った鏡像、『物質存在の影』と入れ替えられていた。影の正体は本来存在しないはずの、異なる次元に複製されたクゥエルの肉体そのものだ。だが屍食鬼も人間も三次元上の生物であり、異なる次元に同時には存在できない。
だから自分の身体として押しつけられた影の下半身は、クゥエルの自由にはなってくれない。
虚数平面への分割投射。それはまさにクゥエルが屍食鬼を鏖殺するのに使った拘束術式だった。
だがクゥエルのような小規模の投射を重ねたものではない。クゥエルの下半身はまるごと一つの塊として、虚数平面に映った自分の影と入れ替えられていた。もしこのまま術式を強制的に解除された場合、クゥエルは胴を輪切りにされた状態でこと切れる事になる。
同じ術式を使いながら、クゥエルには同じ事が出来ない。一度の投射で入れ替える範囲は大きければ大きいほど行使も解呪も難易度が高い。人一人の半分を一瞬で入れ替えるなど、人間業ではない。相当の時間をかけて薄板のような幅を幾重にも差し替えるのがせいぜいのクゥエルとは、桁が違った。
ヒィーヒィーヒィー、ヒィーヒィーヒィー……
嗤い犬の鳴き声が変わった。
その名の由来となった、より人の笑い声に近い音に。
クゥエルは悟った。
目の前の嗤い犬が、外見上の特徴が一致するだけの全く別の種、別の存在である事。
今や明確に、クゥエルの技量の未熟を嗤っている事。
故にこの相手に対抗するためには、自分の生存を望むなど論外だという事を。
クゥエルは拘束の解除を試みる事を止め、再び短剣を周囲に投げ打った。
四本の短剣はクゥエルごと嗤い犬を包囲する形で、方形を形作って突き刺さる。
まるで軽業師の次の出し物を待つように目を輝かせる嗤い犬を無視して、クゥエルは別の切り札を開陳すべく、結印と詠唱を開始した。
「『二、四、八、七、各個逆転、樹状展開。逆しまに生じ、逆しまに聳えよ。至高の王国より、礎を天に刺し、七つの美徳を下りて奈落に輝く王冠を目指せ』!」
四方の短剣を基点にして、漆黒が流れ、溢れ出て広がっていく。
四角く区切られた草原は、瞬く間に沼地を思わせる黒い足場へと変じていた。
それは沼地は沼地でも、光すら捉えて逃さぬ漆黒にして無限の底無し沼。
事実、生い茂る草葉とクゥエルの足、そして嗤い犬の四肢は徐々にではあるが黒い水面に徐々に沈み始めている。
嗤い犬の顔から愉悦が消えた。不快げな低い唸りと共に前足を引き抜こうと身体を捻るが、その巨躯を持ってしても沈んだ部分は持ち上がらない。
その様子に不敵な笑みを浮かべるクゥエルは、しかし既に膝までが漆黒に沈んでいる。
「虚数平面越しに私に触れていたのが仇なしたな。おかげで、私からも貴様を掴めた。……もう遅い、基点は既に沈めてある。このまま秩序世界の底の底まで付き合ってもらう。そこが根の国か奈落かは、私の感知するところではないが」
嗤い犬を睨め付けながら低い声で言い放つ言葉からは、屍食鬼相手にも保っていた丁寧さの一切が剥がれ落ちていた。
クゥエルは最期に視線だけで木陰……ヘリテの居る場所に視線だけを向け、幾ばくかの罪悪感と共に、願うように指示を叫んだ。
「お嬢様、私は時間を稼ぎます! どうか今のうちに、お逃げください!」
という訳で本日の投稿はここまで!
多分明日も更新するとは思うのですが、時間帯や回数は未定でございます。
……スケジュール的に詰め詰めにせずを得ず。勝手ながらご了承ください。
なおしばらくは作者の厨二が連鎖爆発を起こすかと思われますので、引き続き生温くご鑑賞ください!
よろしくお願いします。