七章 其の鳴き声、人の嗤うに似て(4)
これはヘリテとクゥエルがハギル達の馬車を見つける少し前の事。
山小屋を出て獣道を歩きながら、ふとヘリテがかねてからの疑問を口にした。
それは、純粋な好奇心から出た質問だった。
「そういえば、クゥエルは私を影に入れて運ぶ事は出来ないのですか? ……いえ、出来ないからやらないのだとは思っていますけど」
そうヘリテが聞いたとき、クゥエルは無言のまま眉をひそめ、眉間に皺を溜めた。これはかなり真剣に困っている時の表情である事を、ヘリテは知っている。
困らせてしまった事をヘリテが詫びると、クゥエルは首を振った。ヘリテのそれは当然の疑問であり、自分の説明不足であったと認めながら。
「……私が普段物品を格納しているのは、私の影を虚数平面――出入り口の門に設定した虚数空間の内部です。空間の広さはほぼ無限、物品は虚数空間では圧縮され、限りなく零に近い薄さに折りたたまれた状態で格納されます。また厚みが殆ど無いという事を魔術的に利用し、重さについても殆ど無視する事が出来ます。……ただしこれは、物品、つまり無生物だからこそ可能な事でもあります」
虚数空間に生物を格納する実験は、多くは格納される側の本能的な抵抗によって失敗し、成功した場合にはより惨憺たる結果を残していた。
クゥエルは慎重に言葉を選びながら、ヘリテへの説明を続けた。
「生物を虚数空間に格納する事は理論上可能です。ですが、虚数空間では時間も空間も三次元……我々がこうして存在する世界とは異なります。この違いが生物の精神に致命的な影響を与える事が分かっています」
虚数空間の中は、秩序世界よりも混沌世界に近い、というのが通説だが、今のところ混沌に到達して帰還した魔術士がいない以上、完全な立証は出来ない――との説明は、正直ヘリテにはちんぷんかんぷんではあった。
ただ、ヘリテが中に入れればほぼ間違いなく精神に異常をきたし、最悪の場合吸血鬼の生命力を持ってしても死亡する、という結論はヘリテにも理解できた。
そしてクゥエルは最期に、自身の限界についても口にした。
「私を含めて虚数魔術を習得した魔術士ならば、実際のところ短時間なら虚数平面下に隠れる事も可能ですが……それでも長引けば、精神が崩壊し廃人と化す事から免れはしないでしょう」
ヘリテがこの会話を思い出したのは、危機に対するとっさの生存本能だったのか。
目の前で嗤う魔獣の存在は確かに、ヘリテも凍り付くほどの恐怖と、何故か畏怖を伴うものだった。
「――お嬢様、お下がりください! 隠形が破られました!」
自身もぞっとするような恐怖に背骨を撫でられながら、反射的にクゥエルはヘリテに警告を放つ。ただ主の存在を護らねばという義務感だけが、クゥエルに恐怖に相対する力を与えてくれた。
(状況からして先の深淵教徒と無関係とは考えづらい……が、何故嗤い犬が単独で……?)
ヘリテが木の後の回り込んだ事を確認しながら、クゥエルは牽制の意味も込めて袖口から短剣を引き抜き、屍食鬼の首を切り刻んだ影の刃を伸展させる。
「『十四へと至りて舞踏せよ、迂回する偃月刀よ』!」
〈透過暗刃〉。盾や金属鎧の存在をすり抜けて傷を与える虚構の刃が、鞭のようにしなりながら伸びて魔獣を襲う。だが嗤い犬はまるで伸長する限界を知っていたかのように、紙一重の距離まで滑るように下がって刃の一閃を回避した。
嗤い犬の動きがまるで余裕を隠していない事を見て取って、クゥエルは早くも切り札の一つを切る事を決めた。こちらを侮っている間に痛撃を与え、怯ませる事で逃走の隙が生じる方に賭けたのだ。
短剣を嗤い犬の足元を狙って投擲すると、複雑な印を素早く結びながら秘語の中でも特に秘匿された特殊な言葉を詠唱する。
創世紀に用いられたこれらの言葉が真に何を意味しているのか、未だに魔導師達の中でも明確な答えが無い。ただ、無謀な術士達が自らの命を費やした人体実験の果てに、幾らかの実用例が見つかっただけだ。
「『摩阿路、鋭』」
次の瞬間、クゥエルの姿は嗤い犬の後斜め――投擲して避けられた短剣が突き刺さった草叢の一点に在った。
〈暗黒間跳躍〉。短距離内に指定設置した複数の影――虚数平面上を瞬間移動する、虚数魔術の真骨頂。
流石に嗤い犬も目では追えず、しかし殆ど隙らしい隙も晒さずにクゥエルに向かって鼻面を向ける。
だがクゥエルは、その毛筋ほどの遅延で次の算段を繋いでいた。
「『瞑』」
再びクゥエルの手が閃き、針のような刃の短剣を投擲する。
ただし今度は複数を一遍に、それもばらまくように投げ打った。
投じられた刃はしかし嗤い犬そのものを捉えず、その周辺を囲むように着弾する。
「『通鋭』」
地面に突き刺さった短剣一本一本の影から、薄く透けて背後が見えるような影法師が空中に立ち上がる。その全てがクゥエルと全く同じ姿勢、同じ動作を取る影絵である。
虚数平面に投影された虚像と術者自身の実像の間を高速かつランダムに行き来する鏡像――影鏡従士の複数同時展開。
存在そのものを分割し、同時に存在するように見せかける。そして『そう見える』を『そう見做す』に、『そう見做す』を『そのように在る』へと置換する。虚数魔術における摂理への詐称、その究極の一つがここに開示された。
本体の動きに合わせて、全ての影がその手に影の短剣を握る。
「『泥阿』!」
最期の一言により放たれるのは、複数方向からの透過暗刃による同時攻撃。
何と術式の使い手自身にすらどの一撃が実体化するか分からないという、完全な乱数によって見切る事自体を不可能とし必中を期する、実戦的過ぎる程に実戦的な幻惑攻撃。
正面きっての攻撃としてはクゥエルのもてる中でも最高の初見殺しが、吸い込まれるように嗤い犬を襲い――そして、すり抜けた。
Hye――hye――hye――
全ての刃の直撃を受けながら、まるで平然としたまま嗤い犬はその場に佇んでいた。その姿には一切の痛痒を受けた様子が無い。
クゥエルに激しい困惑と、一抹の絶望の気配が襲いかかる。
並の魔獣なら必殺を期する一撃が、何の手応えも返してこなかった。
それどころか。
(馬鹿な……全ての刃が、実体化しなかった、だと……?)
本来、全ての影鏡従士と本体に等分に割り振った実存率――実体である可能性――は、最終的には総和が一に収束しなくてはならない。つまりどれか一つの斬撃だけはかならず実体化する、はずだった。
にも関わらず、全ての一撃が嗤い犬に触れもしなかった事が、文字通り空を切った手応えとしてクゥエルに伝わってくる。
術式の行使そのものの不成立なら、破綻が目に見える形で現れる。だが影鏡従士にも透過暗刃にも、乱れらしい乱れは現れなかった。
術式そのものは完全に発動した。完全に発動した上で不成立に終わったのだ。
(特殊な対抗魔術で術式の内部に介入されたか……いや、まさか)
クゥエルの首筋を、細く冷たい汗が流れる。
(分割した実存率そのものを、零に固定された……?)
外部からの因果律干渉による術式の無効化。その行為を可能とするのは、神格保持者と言われる明確なる高次存在か、さもなくばクゥエル以上の虚数魔術士のみ。
そのどちらであろうとも、この状況でクゥエルが勝利できる可能性は零に限りなく近かった。
最悪の予感が当たりつつある事に、クゥエルはヘリテに聞こえぬように歯噛みする。
ちょっと本日から不定期更新。なお分量が多かったので本来の一塊を前後編的にかち割ってます。
なのでもうちょっと続くんじゃ。