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小さな聖女は血に誓う  作者: 功刀 烏近
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七章 其の鳴き声、人の嗤うに似て(3)


 馬車と行く山道ではまだ段階を踏んでいたとすら思える。あまりにも早すぎて、どこからか流れてきたと言うよりも地面から不意に湧き上がったように思えたほどである。

 あまりに唐突で、本当に火事の際に室内を満たす煙のようだった。ヘリテもあの日の燃え盛る屋敷の中を思い出さざるを得ないでいる。

 クゥエルの声にも、また違った緊張感が漂っていた。


「お嬢様、この霧は……先ほどまでの物とは違います。よく似ていますが、この霧はそれ自体が明確に魔力を帯びています。効果はおそらく……より強力な遮断かと」


 ヘリテもクゥエルの言う意味は分かった。強化された五感が、まるで人の頃に戻ったかのように働かなくなっているのだ。

 元々屍食鬼達の招いた霧は、極めて濃く低温を保ちはしたが、その目的は主に太陽を苦手とする亜不死者の活動を補助するためだ。ハギルの魔眼まがんが阻害されたのはそもそも彼の眼の力がそれほど強く無かった事と、屍食鬼達が吸血神キヤルゴの加護で身を守っていた事が大きい。だが、それでも一定距離まで接近すれば察知できる程度のものであった。

 今のヘリテの五感は視覚に限ってもハギルと同等以上、おそらく知覚できる距離だけなら既にハギルを凌駕している。にも関わらず、今周囲を取り囲む霧は手の届く以上遠くをまるで知覚できない。

 目に見えるものだけではない。音も、匂いも、霧の奥をまるで知覚できずにいた。

 クゥエルもまた同じである。五感だけでなく、索敵や危険察知の術式もまるで機能しない。迷いの森(メイズウッズ)で有名な禁足きんそく結界が比較的近いが、迷いの森ですら歩き回るための情報をここまで強く制限はしない。

 これでは禁足ではなく、封禁ふうきんである。即ち対象を飲み込んで動けなくする、抵抗不能の範囲型拘束術式――。

 そこまで思い至って、クゥエルは一瞬最悪の状況を想像し、軽く頭を振ってその考えを追い払った。最も代表的な封禁術式の使い手は、邪神と邪神に従属する神格級の悪魔達だからだ。

 そんなものが出てきたとすれば、手持ちの装備で抗う事は不可能だ。

 だからこそ、状況を見極める必要があるとクゥエルは判断した。このまま闇雲に動く事は時間と体力だけを無駄に消耗する行為だ。万が一夜明けまで引きずり回された挙げ句に朝日の下に放り出されれば、ヘリテの存在が危うい。


「お嬢様、こちらへ」


 身体を低くし地を這うようにして、少しでも目標を見つけやすい姿勢でクゥエルはヘリテを先導する。ヘリテは霧の底をゆっくりと泳ぐように進むクゥエルの後ろ姿を、親猫の尾を追いかける子猫のように注視して進んだ。

 やがて目標――地面に飛び出した太い木の根に行き当たったクゥエルは、根を伝って一本の木の下に辿り着いた。ヘリテを木の幹を背にして座らせると、クゥエルは自分の影から蔦を三つ編みにした短い紐を四つ取り出し、木を中心とした四方に突き立てる。

 その上でヘリテにこれから試みる内容を説明した。


「影神の助けを借りて対魔用の隠形結界を張ります。この霧に魔術的な探知能力があったとしても、結界の中に居る限りは見つかる事はありません。ただしこの術式は防音性に劣ります。例え何者かの接近を感知しても、どうかお声を立てませぬようお願い致します」

「が……頑張ります」


 真顔で頷くヘリテに向かって僅かに顔をほころばせた後、クゥエルはヘリテを背にかばうようにして地べたに足を組んで座り込み、印を組んで詠唱を開始した。


「六大三天に願い奉る、御手みての届かんことを、御息みいきの通らんことを、御言葉の降らんことを、天の摂理が地の律法たらんことを、人の生くるを言祝ことほがれ、かてまことによって導かれんことを」


 簡略化された秩序の神々全てを対象とする祈り。願うのは人の生存、つまり人魔全てからの障害の回避。護身のための加護を求める祈祷だ。

 続いては自らの主神にして、影を操り影を介して世界に干渉する権能を有する影神ヴェインに対し、専用の加護を願う祈りを捧げる。


「秩序の諸神、事分けては影神ヴェインに願い奉る。何人にも我が影を踏ませたもうな、一切の邪視じゃし邪眼じゃがん呪言じゅごん呪詛じゅそより我が身を守り給え、悪鬼悪神の追足ついそくくじき、其の追儺ついなの兜を貸し与えたまえ……」


 クゥエルは神官オラクルではない。神官とは神の意志を声として受け取れた者にしかなれず、神の声を聞くとはその肉体や精神の形が神格と一定以上の近似性を持つという事だ。神格との近似こそが、祈祷を元に神の御技を模倣する魔術マジック――法術アクトを成立させるための資格となる。クゥエルの近似性は、法術を行使するには不足している。

 だがしかし、地上から天界へと遠ざかりながらもなお秩序と人類を加護する神が実在、あるいは偏在し、権能を有する世界において、人がその加護を願う事自体は魔術において意味を持つ。

 神々の権能と関係の深い魔術なら、詠唱に祈祷を組み込むことで効果の増幅ブーストを図れるのだ。


「『一、三、五、七から十九、順転せよ。一象を以て万象と為せ。見えざる影のとばりを下ろし、森林にあっては一葉を探す術は無しと顕示せよ』」


 この時クゥエルが用いた術式は虚数魔術をベースとした気配遮断結界ステルスフィールド。実体は移動させず、ただ気配――存在に伴って発散される情報を虚数平面によって遮り隠蔽する魔術である。この結界に入ったものは見えなくなる訳ではないが、視界に入ってもその存在を認識されない。また術式そのものを特定できていなければ、いかなる魔術による探索すらも透過してしまう高位の隠形結界だ。

 詠唱が終わると共に四方の紐から伸びていた影が消える。これは術式の発動を示す兆しである。

 ヘリテはクゥエルの背越しに、息を殺して霧を見つめた。術式を維持、強化するために無言で集中を維持するクゥエルに代わり、霧の動向を見張るために。

 数分は、何事も無く経った。あるいは数十分だったのかもしれない。煙のような濃霧の中にあっては、時間の感覚も怪しくなっていく。

 だが不意に、ヘリテの視界の中で霧が薄れた。青みがかった暗闇が勢いを取り戻し、ヘリテは危機が立ち去った事を期待した。

 そう、それはあくまで期待だった。


 薄くなった霧の向こうで、一対の青白い光が灯る。

 クゥエルならばハギルの魔眼に灯った光を連想したかもしれない。だがその場にいなかったヘリテには知るよしもない。

 魔を見破る魔眼、あるいは呪いを打ち払う浄眼じょうがんによる視線が、はっきりとヘリテ達に向いていた。

 朧に明滅する光はやがて強さを増し、数を増した。最初の二つほどの強さは無いが、二つ三つと増えゆく光源は揺れ動き空中を彷徨い始める。まるで火の回りを飛び回る蛾のように。

 朧気に飛び交う光源が更に増える。二つ三つが三つ四つに、三つ四つが五つ六つに。

 光が青い火の玉の姿を晒すと同時に、最初の一対の光が黒い輪郭の中で明確な両眼として浮かび上がった。霧の中から、巨大なものが姿を現す。ハギルの馬車を引いていた逞しい馬達よりも更に二回りは大きな、四つ足の獣の姿。

 それは犬に似て犬と否なるもの。狼ともまた違う。その顔の造作は間違いなく獣でありながら、ヘリテには別のものもまた思い出させる。

 浅ましき亜不死者達の顔に似て、その獣のおもてにはどこか人の気配があったのだ。


「……!」


 悲鳴を上げる事を必死に堪えたヘリテが、クゥエルの背中を思わず強く掴んでしまう。クゥエルもまた遮断された外部になにかしらの気配は感じていたのだろう。ゆっくりと閉じていた目を開き、見張った。

 鬼火を引き連れる歪な人面の黒犬。クゥエルはその魔獣に関する知識を有している。だが同時に、理性の何処かが否定する。


嗤い犬(スコーンドッグ)……か……? 本当に、これが……?)


 嗤い犬(スコーンドッグ)。それは醜悪にして憐れな獣。亜不死者の成れ果ての一つと言われる魔獣。

 屍食鬼が長く人肉にありつけなかった果てに、人としての理性を失って変貌すると言われる存在は、ただその顔の一部と鳴き声に憐れな人の狂笑を名残として残すという。

 だがその大きさは元の屍食鬼としてよりも幾らか縮んだ、大型犬と同程度というのが通説だった。また知能も犬とそう変わらぬレベルまで低下し、常に屍食鬼によって引き連れられ、その指示に従いおこぼれに預かる事だけを求めるものだと。高齢の個体は本能的に魔術を使い、先だっての群れのように霧を呼ぶとも言われているが、それでも単独行動を行う事は無いと言われていた。

 だが目の前にいる黒犬は伝え聞いている内容とはあまりに違う。体躯の巨大さもさることながら、クゥエルは正面の嗤い犬に人以上、あるいは人とは全く異質な、強い知性と意志を感じ取っていた。


 Hye――hye――hye――hye――


 一応、伝承された知識は正しかった。

 目の前で嗤い犬は人の引き攣った笑い声のような鳴き声で鳴いて。


 術式で遮られているはずのクゥエルと、明らかに意図的に視線を合わせて。


 長く伸びた口の端を吊り上げ。


 何処か楽しげに。




 嗤った。


ありがとうございました。次回更新予定は8/13(日)22:00です。

……まっずい、一日二話更新にしないと八月中に終わらん気がしてきた。。

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