七章 其の鳴き声、人の嗤うに似て(2)
二人はその時森を出て、ヘリテの膝の高さまで緑に埋まる草原を渡っていた。
山を下りた後、森はしばらくの間切れている。点々と置き忘れられたような場所に立ち尽くす何本かの広葉樹の他は、隠れられるような物陰はない。ヘリテの弱みを思えば夜の、それも早い内に渡りきってしまいたい地形だった。
後方にはまだ宿場町の灯りが見える。本当はクゥエルだけでも補給のために訪れる予定だったが、今は早くハギル達から離れる事をヘリテが求めた。少しでも彼等を自分たちの災禍に巻き込んでしまう可能性を減らしたかったのだ。
クゥエルもヘリテの意見に賛同した。ただ、ヘリテの漫然とした不安に対し、クゥエルには一つ具体的な懸念があった。ハギルの父親が言っていた、宿場町を真っ直ぐに抜けた先にあるという、かって山賊が住んだという山の事だ。
ハギルとも少し話したが、霧がやってきた方向と噂の山のある方向は一致していた。もしも山賊の住処に現れたという気配の正体が屍食鬼の群れだとしたら、残党が現れる可能性は皆無ではない。
ただ、かと言って街中にまで現れるかと言えば、その可能性は低い。
カーナガル、特にゼオラ以外の国家においては、地方の宿場町でも開拓村であっても人の集まる場所は必ず『魔』に対する防備が整えられている。
無論必要あっての事だ。『魔』という理不尽の存在は、常に人類の繁栄に影を落としていた。無論人類もまた手の届く範囲で『魔』を利用はしたが、それはあくまで対抗手段、それも被害の軽減を目指すに留まっていた。
集落には神殿も必ず一つ、多くは複数が建てられており、神官も必ず一人以上が務めている。神官がいるという事は、即ち即死しなければ大抵の手傷では手遅れになるという事が無いという事だ。治癒法術というバックアップを得た自警団や常駐する神殿騎士の精強さと勇敢さは、長々と語るべくもない。
故に、屍食鬼が街中に侵入するのは臨戦態勢の砦に堂々と乗り込むようなもの。たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった後、有志の総出で袋叩きの目に合うのが落ちである。異賊とはいえわずかばかりでも理性が残っていれば避けるはずだ。何しろ絶対数があまりに違う。一人を殴り飛ばす間に十人に槍で打ち据えられ、四方八方から力ある印を刻まれた石を投げつけられるような状況では、いかな無尽蔵の生命力も苦痛を長引かせるだけでしかない。
おまけに先だって先触れがクゥエルの手にかかって全滅したばかりだ。残党がいたとして、強引な手段を選べる状況ではないはずだった。
なお、インフェルム伯領の湖岸都市は例外である。どれだけ栄えた街でも、為政者が抜け穴を用意しているような場所ではいくらでも『魔』の跳梁跋扈を許してしまう。加えるならば、むしろ田舎よりも都市の方が隠れ住む影には事欠かないという現実もあるにはある。
ハギルと分かれる前に、クゥエルは遠話で今後の道行きについても確認していた。ちょうどこの宿場町で街道は三叉路の様相を呈しており、ハギル達とヘリテ達は共に最短を直進する山道を迂回し、それぞれ逆方向から山間部を回り込む事に決めた。
勿論迂回した側に他の旅人達がいないはずもないが、流石に予測の建てようがない。一刻も早くガンガルゴナを目指す事しか、ヘリテ達に出来る事は無かった。幸い夜間に少人数で歩き回るのは普通であれば自殺行為だ。そこを逆手に取って少しでも距離を稼ぐつもりだった。
だがそんな思惑も、まるで通り雨のような唐突さで見渡す限りの草原を飲み込んでしまった霧の海に対しては、まるで無力だった。
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