一章 其の咆吼は光芒へと消えて
一章 其の咆吼は光芒へと消えて
吸血鬼。
カーナガルにおいて最も有名な異賊――邪神の眷属の一種。人から墜ちた者が至る成れの果ての一つ。
一般的には不死者として語れる事が多いが、正確には亜不死者と呼ばれる区分に分類される怪物である。
両者の違いは幾つかあるが、最も分かりやすい違いは転化する前の状態だろう。死んでから転化するのが不死者、生きたまま転化するのが亜不死者だ。
この差はもう一つ、重大な両者の違いに繋がっている。
不死者は死なない。停止する事や肉体が残っていた場合にこれを消失する事はあっても、死にはしない。これは既に死んでいるからであり、故に何度でも再び不死者として動き出す事は可能だ。活動に必要な熱量を補充する事さえ出来れば、だが。
対して、亜不死者は死ぬ。生きたまま転化する亜不死者は必ず肉体を持つ。この肉体は寿命――カーナガルではよく天命と呼ぶ――という限界を持たない。老いず、病まず、転化前なら死んでいるような傷を負っても歯牙にもかけないし、大抵瞬く間に跡形も無く自然に治ってしまう。治療用の術式すら必要無いのだ。
ただそれでも、適切な死に方又は殺し方をすれば、亜不死者は生物として死亡する。生きている以上は、何者も例外なく死に得るのだ。
そして亜不死者の中でも、吸血鬼は最も多彩な弱点……つまり死に方を有していた。
「……はぁ」
溜息が零れる。胸の中に詰まった感情がこみ上げて漏れ出ている。なのにヘリテはその感情を説明する言葉を持っていない。
黄昏時の真っ赤に染まった世界が目を焼く際のちりちりとした痛みに、ヘリテは何度も瞬きを繰り返した。
原型を止めていなかった寝間着は既に着替えている。侍女達がよく着ていた黒のエプロンドレスは幾つものサイズが屋敷に常に備蓄されており、クゥエルが目敏くそれを回収してくれていた。無論それだけだと旅装としては不自然なので、フード付きのハーフコートを重ねている。フードを下ろしている時にはベージュのショールを羽織っているようにも見えなくは無い。
ヘリテ自身にとって活動的なこの服装は一種の憧れでもあったのだが、今は喜ぶどころか何の感慨も湧かなかった。
日が完全に落ちるのを待つ間、ヘリテは目を瞬かせながら、それでも飽きること無く暮れゆく森を眺めていた。光が見えるという事は反射した光の一部が目まで届いているという事だ。直接当たるのにはほど遠いが、影響はある。
太陽の光は最も有名な吸血鬼の弱点の一つだ。ヘリテも物語の中では散々見慣れている説明ではある。
だが読むと実際に体験するのでは大違いだ。転化以前の弱い身体にも強い日差しは過酷だったが、吸血鬼の身体にとってはもはや熱線だ。距離を取ってこれである、もしも真昼の晴天に飛び出たらあっという間に骨までこんがりとローストされてしまうだろう。
なのに、ヘリテは夕陽に染まった風景から目を逸らす事が出来なかった。
「お嬢様。あまり日向を見つめ続けますと、お体に障ります。少しお休みください」
「分かっています。でも、もう少しだけ……」
クゥエルの忠告にも、ぼんやりとした生返事しか返せない。
不思議なのは本能的な恐怖を感じるにも関わらず、日光を疎ましいと思わない事だ。むしろ遠い憧れと寂しさを感じる。もはや永久に手の届かない、幸せな過去のように。
ヘリテがクゥエルに助けられて屋敷を脱出してから、既に四日が経とうとしていた。
あの夜インフェルム伯家に何が起こったのかを、ヘリテはまだ詳しく知らない。
深夜、焦げ臭い空気に起こされてヘリテが目を醒ました時には、既に寝室にも火と煙の手が届いていた。扉の向こうから流れ込む黒い煙と、隙間から差し込む光にヘリテの脳が一瞬で覚醒し、同時に恐怖に凍り付いた。
屋敷が燃えていた。生まれて初めて、最悪の形で出会した火事であった。
咄嗟にヘリテは新鮮な空気を求め、窓を開くためにカーテンを払いのける。だが曇った窓の向こうにも火が踊っていた。小鳥の良い遊び場になっていた梢も木の根元から燃えていたのだ。相当に強い火が屋敷の一階を既に覆っていた。
一瞬呆然とした後、ヘリテはとにかくこの場を出ようと寝間着の上からショールを羽織り、唯一の出入り口たる扉へと向かった。そのまま扉の取っ手を掴もうとして、思わぬ痛みに悲鳴を上げる。
「熱っ!」
部屋の外からの火に炙られたであろう金属製の取っ手は、既に素手で掴める温度ではなかった。ヘリテは一瞬だけ迷った後、咄嗟にショールの裾を右手に分厚く巻き付けて即席のミトンを作った。それでも先ほどの熱さを思い出すと触れるのも躊躇してしまうが、このまま一人で部屋に閉じ込められてしまう事への恐怖が勝る。勢いをつけて取っ手を押し下げて扉を引き開けた。
だが、扉の向こうに広がっていたのはさらなる絶望だった。
「そんな……」
美しい木製の廊下は、立ち上る炎の衝立にすっかり塞がれていた。
ヘリテの部屋は一番最後に火が回ってきたようで、廊下の奥に行くほど床を舐める炎の面積が広い。一階に下りる階段まで辿り着く道も見当たらない。
その奥にある父と母の寝室も、恐らくは既に火に飲まれているはずだ。
時間は深夜の只中だ。流石に帰りが遅い二人も床についている可能性が高かった。
「父様……! 母様……!」
血の気が引く想像に、たまらず叫ぶヘリテ。だが答える者は誰もいない。そもそも、異常なまでに屋敷には人気が無かった。これだけの火事なのに、使用人達の声どころか走り回る気配すら感じない。
いや増す不安に、ヘリテは声を張り上げ続けた。
「クゥエル……誰か、誰かいないのっ!?」
答えたのは巻き上がる炎の歓声と、その熱に耐えられなくなった建材の悲鳴だった。
固い繊維が連鎖的に引きちぎれていく不吉な音に、咄嗟にヘリテが前によろめくようにその場から逃げ出した。その直後に、ヘリテが立っていた床に大穴が空き、次いで廊下自体が激しく揺れながら左に傾いだ。
「きゃあっ!?」
揺れ動く足場にバランスを崩して転倒したヘリテは、思い切り吸い込んでしまった煙と熱い空気に激しく咳き込む。喉から気道をヤスリで擦られるような異物感に涙が溢れた。
ヘリテには知りようもないが、火が一階を舐め尽くしたせいで、屋敷の大柱の一本が折れたのだ。そのせいで二階全体があおりを喰らって傾いてしまった。無論完全に崩れ落ちるにはまだ時間がかかるが、脱出する難易度は跳ね上がっている。
否、この時点でヘリテが自力で脱出できる可能性はほぼ皆無となっていた。
「う、く……ぁ、はっ……痛っ!?」
傾いた衝撃で床に激しく叩き付けられたヘリテがそれでも身を起こそうとした瞬間、鋭い痛みが走る。左の足首がトラバサミに挟まれたように動かせなくなっていた。振り向けば、足先はひしゃげた板壁と落ち込んだ床の建材が肉にがっちりと食い込んでいる。
落下してきた梁の一部が一緒に挟まれていなければ、間違いなく完全に切断されていただろう。だが、ヘリテの力では引き抜く事も持ち上げる事も適わない。
床を伝う火は廊下の奥の方から大分手前まで迫っていた。このままではヘリテに燃え移るのも時間の問題だ。それよりも熱気と煙によって窒息死する方が先だろうが。
黒く焼け焦げた自分の無残な最期を想像して、ヘリテはついに理性の箍を外して泣き叫んだ。
「やだ、嫌……嫌よ……こんなところで……誰か、誰かぁ!」
半ば呼吸困難に陥りながら、ヘリテは理性をかなぐり捨てて祈り願った。死にたくない。生きたい。誰でも良い、助けてくれと。こんな絶体絶命の状況で、どれだけ醜態を晒しても誰にも届かない。そう冷静に呟く理性を渾身の力で意識の外へと踏みにじりながら。
「死にたくない……まだ、死にたくない……!」
やりたい事があった。見たいものがあった。もっと誰かの傍に居たかった。
大きく豪奢な寝台にいた時間の長さを呪った。年を重ね、少しずつ体力がついて活動できる時間が延びて、きっと未来はもっと素晴らしい出来事に満ちている。そう無邪気に信じていた。
だからこそ、耐えられなかった。目の前の絶望を受け入れられなかった。
血を吐くような叫びに、遠くから吹く風の音だけが答えるように歌っている。
――Ah――ha―――hu―――――Uhha――ha――――――――ha――――――
最初は確かに風の音だと思ったのだ。だが何故そう思ったのか、今となってはヘリテ自身にも分からない。
あんな冒涜的に吹きすさぶ笑い声が、風などであるはずがないのに。
「誰でもいい、誰でもいいから…………助けてよぉ!」
Uh――Aa――ha――――hahahahahahaha――――hahahahahahahahahaha!!
「嫌ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
何時のまにか隠す気も失せた悍ましき哄笑に対し、無我夢中のままにヘリテは強く叫び返していた。人の言葉ではもはや無い。獣の遠吠えに遠吠えを返すだけの、原始の意思表示。渾身の力で放たれた言葉にならぬ死の拒絶。だがそれで十分だった。
人が本来祈るのは秩序の神々。かの神々が司り言祝ぐは人の理性なれば。
人の獣性が祈る果てなど、邪神の他にはいないのだ。
変貌はまるで水にインクを落としたように劇的だった。
蜂蜜色の髪は亜麻色に、肌も白を越えて青白く色褪せる。瑠璃色の瞳は、一瞬竜種を思わせる縦長の瞳孔を現して赤葡萄酒色の光を放った。最期に上顎の犬歯二本が一瞬でその長さを倍に伸ばす。
足首の苦痛が一瞬で消える。少し力を入れて身体を起こすだけで無垢の木から削り出された厚板が砕け散った。あっさりと自由を取り戻した左足を引き寄せ、ヘリテは傾いだままの床に獣のように四つん這いに這った。
同時に周囲で徐々に火の勢いが衰えていく。それどころか急激に下がる気温は周囲の木材――燃えさしの建材を急速に凍結し、音を立てて割り砕ける。凍気はついに火を消すに留まらず、火以上の破壊を極めて限定的な範囲にもたらした。
人ならざる再生能力、怪力、そしてただ存在するだけで周囲から熱量を吸収する、不死者と亜不死者特有の常在型収奪術式<熱量枯渇>。
生きたい、何を犠牲にしても生きたいという生命の本能に応えたのは【肉の快楽の求道者】、【共食いの祭祀長】、カーナガル五大邪神が一角、吸血神キヤルゴ。
キヤルゴはヘリテの祈りに答え、故にヘリテはその場で吸血鬼に転化したのだった。
斜めの足場に力強く立ち上がり、ヘリテは屋根の破れ目から覗く夜空に牙を剥き、目を剥いて叫ぶ。
「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!」
幼き亜不死者の産声が格子月の無い夜空に向かって放たれ、消える。屋敷の燃える音と砕ける音に吸い込まれなければ、あるいは奈落を塞ぐ月神の耳にも届いたかもしれない。
だがそれを畏れる心を取り戻すには、そこにいるはずのない、聞こえるはずのない一声が必要だった。
「……お嬢様」