六章 日陰がこよる縁と禍(8)
灰色の不定形が、風の速さで山肌を駆け上がる。
甲高い笑い声を谺させて、無秩序にそこら中を跳ね回りながら。
空を飛ぶ鳥の速さで山道を滑るように走ってきた霧の塊が、大樹ごとヘリテの周りを取り囲むようにして動きを止める。
霧の塊は徐々にほどけて、中から人の形を吐き出した。
襤褸切れのような布を幾重にも全身にまとったそれは、鼻面の長い、毛深い顔をしていた。口に収まりきらずにこぼれ落ちる牙が、薄汚れた黄色に染まっている。
半人半獣の異形達は、口々に何処か幼さすら感じさせる口調で喚きだした。
まるで人の言葉を長い時間発していなかったかのように。
「ひひひひひひ、ひめ、姫様、姫様ァ……ご拝謁をぉ、賜りたくぅ」
「キヤルゴ様の嬰児、いと高き恩寵の担い手、幼き吸血の姫君……」
「お、お迎えに、お迎えに上がりました……貴方に相応しき座に、我ら使徒がご、ご案内いたします……」
文字通り涎を垂らしながらにじり寄る悍ましき群れを、ヘリテは何処かで知っていた。
何処かとは、父の書斎だった。おどろおどろしい物語の幾つかに現れる、狡猾で頑強で、何処か憐れさを漂われる怪物達として。
肉の欲望から逃れられなかった亜不死者、呪わしい飢えに負けて墓場で亡骸を貪る異賊。
怖気はある。不快感もある。だが、ヘリテにとって今の自分よりおぞましいものなど存在しなかった。
だから、反応はひどく素っ気ないものになった。
「貴方達は……屍食鬼……?」
「左様で、生まれて間もなき吸血鬼の御方」
ヘリテの問いに、群れの中でも一際体格の良いものが答えた。その一体が手を振ると、群れの残りは意外なほど統制の取れた動きで小さく後に飛び跳ねて、ヘリテからの距離を保った。
ただその表情はやはり、目の前のご馳走をお預けにされながら懸命の忠誠を演じる、獣の舌なめずりだったが。
「我らは名も無き群れ。暗き地の底より帰還し、キヤルゴの恩寵に永久の感謝を捧げる者ども」
違和感は残るが、他の声よりも遙かに流暢な人語の発音。
「我ら苦境にある御身をお救い致したく、こうして馳せ参じた次第です」
「苦境……」
「左様で。お気づきでしょう。狼は羊の群れの中では生きられませぬ」
「……!」
ヘリテの胸を刺す、聞き覚えのある言葉。夢の中でしか聞いていないはずなのに、ヘリテは何度も繰り返し言い聞かせられたように憶えている。
そして丁度、今さっきに自問自答していた問いへの、一つの回答。
「御身の忍耐を、決して彼奴らは理解できませぬ。そのような苦労は一切の無駄。どうぞ我らとお越しください。夜の渡り方を、御身に教えてしんぜましょう」
「おいでませ、姫様……」「どうぞ、より深き夜へ……」「共に永久の快楽に耽りましょうぞ……」
酷く優しい、いわゆる猫撫で声で口々に差し招く屍食鬼達に、ヘリテは震えながらも喉につかえた疑念を吐き出した。
「何故、私なのですか……?」
「御身が、未だ穢れ無き吸血鬼で在らせられるからです」
先ほど口上を述べたのと同じ屍食鬼がうやうやしく答える。
「穢れ無き……?」
「はい。屍食鬼に比べ、吸血鬼は希少で、強大で、故に多くが傲慢です。その在り方は同じように永遠を歩く者達すら見下し、蔑む者ばかり」
屍食鬼の言葉にはどこか悔しさが滲む。人の生を捨ててなお人の延長線上にあるというだけでヒエラルキーの支配を受ける事に、忸怩たる思いがあるようであった。
「結局のところ、キヤルゴに祈った者は死という非情な終わりを拒んだ者です。その一点において、我らは同じ者であるはずなのに、力に頼んで彼奴らは我らを従属させ、体よく利用する事しか考えない」
首を振り、嘆く様は何処か大仰で、見る者によっては喜劇役者の作られた滑稽さを思い浮かべるかもしれない。
だが、時として過ぎた真剣も滑稽を生むのである。
「だが不死者同士で相争う事のなんと不毛な事か……不死を望んだのは、穏やかに満ち足りた生を長らえるためだ。永遠の闘争を続ける修羅の道など報復神の領分。我らの望むところではありません」
屍食鬼の演説を、半ば呆然としたままヘリテは聞いていた。まるで夢の中のような気分であった。喜劇風にデフォルメされた悪夢とでも言うべきか。
「我らが侵されぬためには、御旗としての王が必要なのです。我らに共感してくださる、優しく賢明なる王が。あなたにはその資質がある」
そこで屍食鬼は一度言葉を切って、ヘリテの顔を覗き込みながら小さく首を傾げた。
可愛らしい小鳥のような仕草は、歪な肉食獣の特徴と相まってますます悪夢めいて見える。
「何卒、我らをお導きください。無論今すぐにとは申しませぬ。何時か自ら王として立たれるその日まで、我らが御身をお守りします。他の吸血鬼からも、秩序を盲信する狂犬の如き教会からも、貴方を害する一切の恐怖と力から……」
屍食鬼の言葉に、普段のヘリテなら嫌悪しか抱かなかっただろう。
論理的なものではなく、つい先日まで人として生きていたからこそ残る、基本的な良識から生ずる嫌悪ではあるが。
だが、今のヘリテはこの言葉に少なからず揺れていた。
自分が人の中で生きようとする事自体が罪悪なら、この悪鬼の群れに混じる事の方がまだ良心的なのではないか。
少なくとも、この旅路を続けて人と出会う事は避けられる――そこまで考えた時点で、一つの疑問がヘリテの胸に棘を刺した。
ありがとうございました。次回更新予定は8/6(日)22:00です。