六章 日陰がこよる縁と禍(7)
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
無我夢中でヘリテが駆ける。山の奥深く、もっと深く、誰にも出会わないであろう場所に向かって走り続けた。
「なんで、どうして……私は……」
割れて乱反射するガラスのように乱れた思考で、ヘリテは自問自答する。
何故、馬車に乗り込んでしまったのか。
血に飢える自分の悍ましさ、浅ましさは十分に分かっていたはずなのに。
何故、ハギルの誘いを受け入れたのか。
あれほど、人に出会う事を恐れていたはずなのに。
少年は死んでしまっただろうか。
私は、人を殺してしまったのだろうか。
恐ろしい。考えたくない。
でも、片時も頭を離れない。離れてくれない。
いや、離したくない。離してはならない。
「あぁ……あぁっ!」
矛盾した思考が胸を圧迫して、ヘリテは呼吸を求めてあえいだ。
余りにも押した時の手応えは軽かった。
だからこそ、少年の体が宙に浮いたのを見ても、何が起きたのかすぐには理解出来ないほどだった。
今でも、実感は無い。実感は無いが、倒れ伏した少年の姿が脳裏を離れない。
何故、私はあの子を突き飛ばしてしまったのか。
殺してしまうのではないかと恐れたからだ。
なのに。
結局、殺してしまったのかもしれない。
「うあっ……!」
一瞬視界が陰ったと思った瞬間、強い衝撃を全身に受けてヘリテは派手に転倒した。
顔を押さえて起き上がった時、ヘリテの目の前には大の大人でも両手が回らない程の太く立派な木がそびえていた。動揺のあまり、前も見えなくなっていた。
その見事な大樹の幹に、傷が付いていた。大きな金鎚を思い切り叩き付けたような抉れた傷痕。十台前半としても小柄なヘリテが思い切りぶつかっただけで、である。
そんな力を持った体で、ヘリテは子供を押したのだ。
「ごめん、ごめんね……」
思考が頭の中という許容限界を越えて、無意識に口からこぼれ落ちる。
溢れ滴り落ちながらも、更に思考はぐるぐると回る。回りながら、増殖する。
自分が馬車に乗り込んでさえいなければ。
否、そもそも。
自分があの燃える屋敷で、大人しく一人死んでいたならば。
そう考えるだけで吐きそうになる。思い出しただけで背筋が凍る。
ただ一人孤独に死を待つ事の絶望感を、黙って受け入れる事が果たして自分に出来たとは到底思えない。
「私は、私は死にたくなかった。でも……」
それでも、自分が生にしがみついたせいで、罪のない誰かを死なせるのなら。
自分にとって、どれほど悲しく辛い、耐えがたい選択だったとしても。
「本当はあの時、やはり死ぬべきでなかったの……?」
自分の中から湧き上がる疑念に、言い返せない。
「私は本当に、生きている事を許されるの……?」
むしろ今この時、ヘリテには自分で自分が許せないでいた。
あくまで生きる事にしがみつこうとした自分の浅ましさ、罪深さに頭がおかしくなりそうになる。
自責の苦しみに泣きじゃくるヘリテの背後からは、その涙と悲哀を嗅ぎつけたように、あの不気味な気配が迫っていた。
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