六章 日陰がこよる縁と禍(6)
「お嬢様!」
「んぁ」
クゥエルの静止する大声に、応えるように馬車の中で驚いたような声が上がる。
見れば母親の腕の中で、少年がぱっちりと目を開けていた。
「……とんだ。びっくりした」
少年は、突然の事にただ目を回していただけだった。そもそも体重が軽かった事、幌にぶつかった時に衝撃が吸収された事も良い方向に作用した結果、かすり傷一つなく済んでいた。
母親の安堵の溜息を聞きながら、少年は辺りを見回す。
「ねえちゃは?」
少なくとも最悪の状況を免れた事に密かに胸を撫で下ろしていたクゥエルは、その一言で我に返る。
すぐさまヘリテの後を追おうとするクゥエルの出鼻を、ヘリテの感覚に遅れて気配に気付いたハギルの切迫した声が阻んだ。
「旦那ァ、気ぃつけろ! 前から何か来る!」
遮光器を外したハギルの黒褐色の瞳孔で、菱形の紋様が仄青く輝いていた。前からやって来る者が持つ尋常ではない気配に反応しているのだ。
言葉通り、間もなく霧の中から何者かとしか呼びようのないものが現れた。
耳障りな甲高い笑い声を響かせながら、もはや煙にしか見えない濃度の霧の塊が、長く尾を曳きながら幾つも飛び出したのだ。
「なんだぁ、こりゃあ!?」
「分からねぇ……けど、絶対いいもんじゃねぇ!」
身構えるクゥエルやハギル達を嘲笑するように、煙霧の奔流は数回馬車の回りを跳ね回る。
ここでようやく、クゥエルは霧の正体に気がついた。
〈熱量枯渇〉。
ヘリテを悩ます不死者特有の常駐術式、その応用だ。発生させる冷気と風を操作する魔術の応用で、霧を術者の回りで生み出し続けているのだ。
問題はハギルの目でもこの距離まで気付けなかった事実。ハギルの言を信じるなら、可能性は通常の魔術とは異なる超常の力――例えば、邪神からの直接の加護。
霧の群れはやがて唐突に興味を無くしたように一方向へ飛び去っていった。濃霧の残滓と哄笑だけをたなびかせて。
「なんだぁ……いっちまった、のか……?」
「ハギル殿!」
ハギルと家族が唖然とする中、クゥエルは一人必死の形相――おそらくヘリテも見た事のないほど余裕の無い――で、ハギルを振り返って叫んだ。
若き魔族の行商人も飛ばされた大音声で曖昧から意識を取り戻した。そして何の躊躇いも見せずに間髪入れず叫び返す。
「旦那ァ行きなせぇ、こっちは大丈夫だ! それよりお嬢さんを一人にしちゃなんねぇ! あいつらぁ何かも何でかも知らんが、ありゃ最初っからお嬢さん目当てだ! そこだけは間違いねぇ!」
クゥエルは一つ頷き帰した後、その場で結印と短い詠唱を行うと霧の飛翔速度にも負けない俊足で走り出した。魔術による走力強化の賜物だ。
ハギルの言葉でヘリテがいなくなってしまった事を思い出した少年が、寂しげに呟く。
「ねえちゃ、いっちゃった? ……わし、ごめんばぁ、したぁ?」
自分がヘリテの機嫌を損ねたのかとしょげる息子の頭を撫でて、ハギルは優しく言い聞かせた。
「大丈夫、大丈夫だ。お嬢さんは、多分わしらのために出ていかれたんよ。何時かどこかできっと、また会えるだろ。そしたらその時にお礼を言えばええだろうよ」
息子を宥めながら、しかしハギルは恐らくヘリテと、クゥエルもまた馬車に戻ってはこないだろう事を悟っていた。
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