六章 日陰がこよる縁と禍(4)
馬車の外で簡易のかまどが組まれ、かけられた鍋が盛大に湯気を吐き出している。
霧の中にあっても湯気ははっきりと立ち上り、その先で透明に溶ける。霧の外からは一体どう見えるのだろうか。区別はつかないのだろうか。
一人幌の中から煮炊きの様を眺めるヘリテは、ぼんやりとそんな事を思っていた。
昼食と夕食の間に軽食を一回挟むのは、割と世界共通の習慣になっている。
特に肉体労働者にはこの休憩と栄養補給の意味は大きい。逆にヘリテの生まれたインフェルム家などは紅茶と幾つかのお菓子で済ませる事が多かった。それでも貴重な家族の団らんの時間ではあったが。
今日のオヤツは塩漬け野菜と干し肉の即席スープ、あとは陶器かと見まごうほどに固く干された乾パンだった。壺に入れられて保存される内に発酵した塩漬けから酸味と旨味が溶けだして、中々味わい深いものになっている。
乾パンは固すぎるので女性陣と少年はスープに浸してふやかしてから食べている。ハギルと父親は削り取るようにそのまま齧っていた。
クゥエルはそのままの乾パンを一噛みした後、諦めて素直にスープに投入していた。
ヘリテは一度噛んでみた結果、思いの他あっさり嚙み砕けた事に驚く。口の中に広がった素朴な甘みを楽しんだ後、少し迷った後残りをやはりスープの中に浸した。
視界にあったのは、笑い合うハギルの母と妻の姿だった。
「やっぱ寒いよなぁ」
湯気どころか吐き出す息まで白く濁るのを見て、ハギルは首を傾げていぶかしんだ。
父親も同意して頷く。
「なんだろうかな、こりゃ。ハギル、お前の目にも見えんか」
「あんまり眼を凝らして変なもん見つけるのも嫌なんだが……つってもこうも先行きが見えんのも落ち着かんな……」
ハギルは嫌々ながら、遮光器を外して目を細めた。黒褐色の瞳に細く青い輝きが生まれ、一瞬の後に消えた。
疲れたように息を吐いた後、ハギルは眉間を揉みながら遮光器をかけ直した。
「……駄目だこりゃ。奥に行くほど靄が濃い。俺が見えんって事は、魔術的なものじゃないのか、もっととんでもない力のどっちかだなぁ」
「なんだい、お前様の眼はホント肝心なとこで役に立たないねぇ」
「便利に扱おうってのが間違いなんだよ、こんなもん!」
妻の半分笑いながらの揶揄に、ハギルが分かり易くムキになって言い返す。忌まわしい異能すらも、この夫婦にとってはもう笑い飛ばす対象になっていた。
頭を掻きながら、ハギルはキレの無い言葉で所感を述べる。
「……ただこう、霧そのものには呪いみたいなもんは無い、気がする。術式だとしても攻撃的なもんじゃねえんじゃねぇの。……多分」
「うーん、精霊か幻獣の悪戯の類いか……例の噂絡み、じゃないといいんだが……」
「いや、二つ先の山だろう? 流石にここまで影響が出る話なら、もっと大騒ぎになってなきゃおかしいだろ」
「二つ先の山、というのは何の話でしょうか」
父子の会話にクゥエルが反応し、老いた父親の方が答える。
「昔々に山賊が出たんですよ、そっちは。相当えげつない連中で、最期はエステル様の神殿が号令をかけて、ガゼットリアの国軍と神殿騎士団の合同作戦で討伐されたそうなんですが……」
昔から山賊や水賊になるのはまつろわぬ民――居場所を持たない魔族や異賊が多かった。一度秩序に背を向けた彼等は、人族にとって魔獣かそれ以上に危険な存在になる。
だがさらに危険なのは、人のまま邪神を奉じるようになった者達……深淵教徒の巣窟になった場合だ。放っておけば付近の開拓村を取り込んで拡大する恐れすらある。
だからこそ、この手の賊の存在は長く許されない。
「最近、連中が住み着いてたってぇ廃墟に、人の気配があるそうなんで。何かは分かりませんが、曰く付きの場所にたむろするのは、大抵やっぱり曰く付きな連中だろうって相場は決まってますんで」
「だから俺らはこの山を早めに越えて、残りの山道は迂回しようと思ったんですが……すっかり目論みが外れちまいましたよ」
「さすがに全部大回りしたら、路銀が嵩み過ぎるもの、仕方ないわよ」
だが今通っている山道にはそんな噂は無いと、ハギルは首を傾げた。目端が利くのが唯一の利点なのに、霧のせいか上手く利いてくれないと苦笑混じりにぼやくのを聞きながら、クゥエルは自らの中に漠然とわだかまる懸念を具体化すべく、眉間に皺を寄せて目を細めた。
霧を伴って現れる強力な怪物も、カーナガルには何種類か存在する。『霧魔の群れ』、『青褪めた騎士』、『嗤い犬』の高齢体等々……。
ただし出現頻度はどれも極めて低く、また伴う霧も大抵は強力な呪いの一種だ。少なくとも、邪視者がこの距離で気付けないという事は無いだろう。
ただ一つ引っかかるのは、霧を招く怪物の多くが太陽を苦手としている事だ。
ヘリテに取って都合が良すぎるこの霧が、偶然では無いとすれば。
何らかの兆しである可能性は十分に考えられた。
この濃霧のおかげで誤魔化しは利くものの、ヘリテは念のため馬車の中に残っていた。陶器のカップに注いでもらったスープの味は以前のようには味わえなかったが、それでも暖かさはヘリテの身に染みた。随分と遠くなっていた団らんの気配が、ほんの少しだけ甦るようであった。
だがその懐かしさが、唐突にあの脂ぎった血臭をヘリテの脳裏に甦らせた。
背筋を冷たいものが走る。酷く不吉な、しかし何処かで感じた事のある気配を感じて、ヘリテは空になったコップを荷台の床に置いて顔を上げた。気配は徐々に近づいてくる。遠くから雷鳴を轟かせて近づく黒雲のように、ゆっくりと、しかし逃れようのない圧力が迫ってくる。
焦燥感に突き動かされて、荷台の外を見ようと幌の外へと這い寄るヘリテ。
だが気配に気を取られていたせいで、こちらにやってくる人影が目と鼻の先に近づくまで気付く事ができなかった。
遠い気配を、その人影が放つ鮮やかな色彩と芳香が押しのけて、蹴散らしていく。
ヘリテは少し遅れて、忘れようが無い絶望的な感覚と共に後悔した。
ありがとうございました。次回更新予定は8/2(火)22:00です