六章 日陰がこよる縁と禍(3)
邪視者。
魔族の一種に数えられる、全くの偶然に力ある眼を持って生まれてしまった人間を指す言葉。
彼等は才能ある魔術士が何年もかけて習得する魔術と遜色ない現象を、ただ『視る』だけで発現させる。引き起こす内容によっては生命力を消耗するが、多くは魔術士が生命力を魔力――術式が世界の摂理を改変するために消費する力――に変換するよりも遙かに効率のいい結果をもたらす。加えて、魔術によっては再現できないような現象すら引き起こし得る、ある種の生まれつきの術士殺し。
しかしその代償は大きい。邪視者や呪言者にとって、視る、喋るという行為はそのまま他人への呪いとなってしまう。そして行為と効果を制御して分離選択するためには、魔術士の修行など生易しいというレベルの才能と修養が必要になる。
それはつまり、多くの人間にとって不可能という事を意味した。
結果的に多くの魔族と同様に、邪視者は普通の人間と社会生活を送る事が極めて難しかった。人前に出るのは強力な防御術式で対策した魔術士と会う時か、厳重な封印を自分の視線にかけ、その事を事前に明示して受け入れられた時だけだ。
邪眼を持っている事を黙っているという事は、発覚した時には悪事を企んでいたも同然、いやそれ以上の報復を覚悟する事を意味する。
故に、ハギルの存在は極めて希有で幸運なケースに分類される。その上で、彼の人生が決して楽なものではなかったであろう事も間違いは無い。
「邪視と言っても俺は『見える』だけでさ。普通の人間には見えないほどの遠くや、物や人に籠もった魔力。後は意図的に隠されたものと……時間が少し」
御者台で手綱を取りながら、ハギルは自分の異能について自分から語り出した。
「時間……未来視と過去視、両方ですか」
「へぇ。つっても自分で見たいものが見えるわけじゃねぇんです。それにそんなに離れたものが見えるわけじゃない。なんつうんですかね、人よりも少し現在が広くぼんやり見える、その程度でさぁね」
「それでも希少な力ではあるでしょう」
「力、って実感はないですなぁ……祝いというよりは呪いって感じですから。見えるだけつっても、見えるだけで変わっちまうものもありますんで……この世には見えない方がいいものってのは、間違いなくありまさぁ。それも山盛り仰山ですな」
顔にこそ出さないが、隣で快活に喋る男に対し、クゥエルはある種の敬意を抱かずにはいられない。
ガンガルゴナで育った人間として、ハギルの存在は若干眩しすぎると言ってもよいものだった。
――山を降るまでという期限付きで、馬車に移って同道してほしい。
クゥエルに伝えられたハギルの提案を、ヘリテは不安げにではあるが許諾した。ハギルの言っていた通り、ヘリテ達と分かれた後に狼にまた襲われる可能性があったからだ。
ヘリテは始終馬車の中で座り込んで、出来る限りじっとしている事にした。馬車に乗る直前に血の補給を済ませたとはいえ、消耗が嵩めば〈熱量枯渇〉は自動的かつ強制的に発動してしまう。
その点では日中、馬車の中とはいえ日光を心配していた二人に、深い霧は好都合だった。荷台の後ろから垣間見える風景は、さして早くない荷馬車の速度でもあっという間に白く塗りつぶされてしまう。お陰様で、ヘリテも日中の時間帯にも関わらず、若干の気分の悪さと火照りで済ませる事が出来た。
馬車の中にはヘリテの他に四人。ハギルの父母と妻、そして孫にして息子たる少年が一人。外ではハギルとクゥエルが御者台にいる。
坂は緩やかで積み荷はわずか、加えて二頭の馬たちが極めて強靭なおかげで全員が車上に乗っていられた。
荷台が空いているのは商品を卸した後のためである。ハギルはガゼットリア第一都市ファルコーゼにバルボアで仕入れた商品を納品して辺境の故郷へと帰る途中だった。
行きはより大きな旅団と同道したが、旅団の基幹商家達は商談を続けるために当分の間ファルコーゼに残るという。彼等の帰りの日程に合わせようとすると、都市での滞在費がハギル達に取っては嵩み過ぎる。そのため、先に引き返した。帰る先はガゼットリアとバルボアの国境付近にある集落である。
ヘリテは馬車に乗り込んだ後、緊張を保ち切れずに夜明けを待たずに眠りについてしまった。
目が覚めたのは昼前になってからようやくである。日光対策についてはクゥエルから渡された日除けの魔術を封じたショールを被ってはいたが、霧は朝方よりも深まっている。当分は心配は無さそうだった。
ヘリテが起きてから馬車の中は名状しがたい沈黙に包まれていた。ヘリテも為す術も無く今は亡き父に思いを馳せながら馬車に揺られていると、ハギルの幼い息子が近寄って飴をくれたのだ。
少年は満面の笑みを浮かべた後、けげんそうな顔で飴を握っていた手の平を見つめた。
「……」
「? どうか、した?」
「……冷たい」
「え、あっ……ごめん、なさ」
〈熱量枯渇〉に気付かれたかと戦くヘリテに、少年は馬車の隅から何かを抱えて戻ってくる。腕一杯に抱えていたのは暖かそうな毛皮だった。
「んっ」
少年は毛皮を広げると、毛布代わりにヘリテの体を包み込む。
「暖かくしなきゃ、めーだよ」
「うん……」
言葉遣いは幼い。だけど、示される意志は明確で、暖かかった。
素朴な好意に思いがけない喜びを感じて、ヘリテは膝にかけた毛布を鼻の上まで引き上げた。寂しさとの温度差で、気を抜くと嗚咽が零れそうになってしまう。
「……お嬢さん。可愛いお着物だねぇ」
少年のおかげで馬車の中の空気が弛んだおかげだろう。
最初に声を掛けてきたのは少年の祖父だった。
祖父に続いて祖母も会話に参加してくる。
「見たところ、ガゼットリアの都市のものかねぇ。仕立ても良さそうだ」
「……はい、ありがとうございます。皆様も、素敵なお召し物ですね」
「息子と私らぁガゼットリアとバルボアの国境の生まれでねぇ。どちらかと言えばバルボア寄りなもんで、向こうの服に馴染んでるんだよ」
「うちの嫁はガゼットリアの生まれだが、うちに合わせてくれてるのさ」
「でも私、こっちの服の方が好きよ、お義父さん。着心地がいいし、何より楽だもの」
祖父の言葉に応じるように、少年の母――ハギルの妻も明るい声を上げる。肌つやの良い、目鼻立ちのくっきりとした活発な美しさのある女性だが、笑顔には気取ったところがない。
ヘリテも自然と緊張を緩め、つられて控えめに笑った。
「……それ、私も少し分かります。ガゼットリアの服は、ややこしいですもの」
「本当よ、ねぇ!」
笑い合う二人を微笑ましく眺めた後、思い出したように祖父がヘリテに疑問をなげかけた。
「しかし、ガゼットリアの都市生まれならなんでまた、こんなところまで……おっと、すまんね」
「お父さんったら、もう」
「あ、いえ、大丈夫です……その、クゥエル、さんは、私の居た屋敷の執事さんで……」
不躾な質問だったと気付いて恥じ入る祖父に頭を振って見せてから、ヘリテは自分の事情を明かせる限り明かす事にした。例えば屋敷の令嬢であった事はぼかしたが、クゥエルに関しては本当の事だ。
隠す方が返って辛いし、出来るなら吐き出したい気持ちもあった。
「私は、両親が亡くなって……遠縁の親戚のところまで、送ってもらってるんです」
さすがに、吸血鬼なので保護を求めて向かっているとは言えない。
「ほぉ、何処までお行きなさるんだ?」
「その、ゼオラの、ガンガルゴナという街まで……」
「あぁ!」「まぁ!」
ガンガルゴナの名前に、老夫婦が明らかな驚きと理解を顔に浮かべた。ついで深い同情の籠もった声をヘリテにかけてくる。
「そういう事かい……難儀だねぇ、そりゃあ」
「魔族が生きるには、中央はねぇ……バルボアはまだ気楽な方だけど、それでもまぁ、何も無い訳じゃあないし。辺境は人手がいつも足りないのが、私らにとっては幾分か救いなんよ」
二人は深い実感を込めて頷き合う。どうやらヘリテの事をガンガルゴナに魔族の親戚を持つ娘と勘違いされたようだ。よもやヘリテ自身が魔族どころか異賊、それも吸血鬼だとは思いもしていないようだった。
予想していなかった同情を引き出してしまい、ヘリテは言葉につまってしまう。
どう答えたものかうろたえていると、不意に御者台からかけ声がかかり、馬車が動きを止めた。
何事かと身構えたヘリテを他所に、後から回り込んだハギルが幌の中に顔だけを突き出し、平然と呼ばわった。
「おーい、そろそろオヤツにすんべぇ」
肩が落ちる脱力感と共に、会話から一度離れられる事へ密かな感謝を覚えるヘリテであった。
ありがとうございました。次回更新予定は8/1(火)22:00です