六章 日陰がこよる縁と禍(2)
「何卒、何卒! お姿をお見せくださいませ!」
「……白々しいことを」
ぼそりと呟く声はどこか刺々しい。
クゥエルは自分の隠形が確かに破られている事を確認していた。隠蔽系の魔術は全て一度でも看破されてしまうと術式としての効力を失ってしまう。逆に言えば、見破られた事は術者には必ず分かるのだ。
この状況で呼び声を無視して立ち去る事自体は容易い。
だが、身を隠した魔術士の存在を気取られたまま放っておく事は、何よりヘリテの身の危険を呼び兼ねない。
クゥエルの脳裏に冷酷な選択肢が浮かび上がり、次いで首を振ってその選択肢を振り払った。
そもそも狼の襲撃に先に気付いたのがヘリテである以上、馬車の更なる異変をヘリテが察知しないはずがない。何より、これ以上主に後ろめたい秘密を抱えるのは破滅への道を急ぐ行為だ。
例え最期には逃れられぬ破滅が待っていようとも、時間は稼がなければならなかった。
誰にも聞こえないように諦めの溜息を吐きながら、クゥエルはまず身を隠したまま言葉を返した。
「……魔術師呼びは止めてください。私はただの魔術士であり、しがない従者です。加えて私が貴方がたを支援したのは、あくまで我が主の意向に他なりません。私への礼は不要です」
「まずはお言葉に感謝を! また市井の魔術士とは思えぬ鮮やかなお手前への勘違いをお許しくだされ! であれば御身の主殿にも感謝をお伝えし、祝福を祈らせて戴きたい!」
「承りました。お心遣い、我が主にも確とお伝え致します」
「ありがたい! ですが主殿に直接お目通りを願う事は出来ませぬか! 私も家人も直接御礼申し上げとうございます! このまま行き過ぎては、身内に薄情と誹られても抗弁できませぬ!」
男の声が、大仰な言葉を大声で訴える。日常的に人前で声を張る事が多いのだろう、よく通るが耳障りにならない、見事な発声だった。
ますます厄介な事を言う男に、クゥエルはほんの少しの苛立ちも丹念に噛み潰して冷静さを保った。執事たるもの、主を背に負っての交渉事に感情的になるなど不心得も甚だしい。
とはいえ、ヘリテを人前に晒す事も言語道断である。
さてどう答えたものかと思案に入ったクゥエルに、男も何かを感じたのだろうか。
さらなる声量を張り上げて、先手を打ってきた。
「ええい、いっそ正直に申し上げよう! 魔術士殿と主殿に、この先是非ともご同道していただきたい!」
つまり、大分本音をぶっちゃけてきたのである。
「この山に狼が出るなどという話は無いし、普通は二頭立ての馬車に襲いかかってくるようなものでもない! おまけに奇妙な霧まで出てきて、このまま我々だけで進むのは生きた心地がせぬのです! 御礼は出来る限りの事を致します故、主殿とこちらの馬車に乗り合ってはいただけませぬか!」
もはや交渉ではなく嘆願、いや懇願の類いである。だが流石に強引で都合のいい話でもあった。これで少しは断り易くなるかと考えていたクゥエルは、少し遅れて別の異変に気がつく事になる。
「私の他は年寄りが二人に妻と幼い子供が一人、万が一狼共が取って返せばとても守る手が回りませぬ! 真に勝手なのは承知の上、どうかお慈悲を賜りたい! どうか、どうかお願い致しまする!」
「……これは、完全にしてやられましたか」
クゥエルは自らの不覚に歯噛みした。
離れた場所に残ったヘリテの方で、なにやら落ち着かない、動揺するような気配が感じられるのだ。
男が声を張っていたのは、見えない所にいるクゥエルの主――ヘリテに直接訴える事を狙っての事だった。普通なら細かい言葉を聞き取るには難儀する距離だが、強化された吸血鬼の五感なら集中すればさほど難しくも無いだろう。
男がヘリテの事情を知るはずもないが、主の意向とクゥエルが口にしたのが大きな間違いであった。さほどヘリテの居場所が離れていない可能性に賭けさせてしまった。
吸血鬼になってもまるで心根の変わらぬヘリテの事である。当然この必死な訴えを無下に断るのは気が引けるに決まっている。下手をしたら自分は離れて着いていくから、クゥエルは馬車を守ってくれなどと言い出しかねない。
冗談では無い。クゥエルからすれば真にとんでもない話である。
見ず知らずの他人に要らぬ慈悲の心をかけて主に心労を強いるなど、本来ならこの場で自らの首を掻き切りたいぐらいだが、ここで自らの務めを放棄する事も出来ない。
「……結構。それ以上の言葉は不要です」
クゥエルは心を鬼にして、物陰から歩み出た。馬車がすぐさま立ち去るならば不都合な口が利けないような『縛り』をかける程度で済ませるが、下手な食い下がり方をするようなら――ここで血を流してヘリテの不興を買う事も厭わない心づもりだった。
姿を現したクゥエルの静かな怒気を察したのか。ターバンを巻いた若い男が馬車の傍からクゥエルに向かって走り寄ってくる。
突っ込んでくるかと見えた次の瞬間、男が跳んだ。相当に思い切りのいい跳躍から、クゥエルの三歩離れた位置で五体投地して着地、地べたに頭を擦り付けるような姿でひれ伏した。
どちらかと言えば、土下座と表現するべきか。それはそれは、見事な跳び土下座であった。
顔を地面に押しつけたまま、男がまだ声量を保った声でしゃべる。
「魔術士殿、お怒りごもっとも。ですが、何卒、何卒お慈悲を! 如何なる対価も誓約も私めが全うします故に、どうか家族だけはお助けください――!」
「――そこまでする覚悟があって、何故声など掛けたのですか」
クゥエルは男の頭上から、出来る限りの冷たい声で詰問した。
声こそ必死に冷淡さを維持している。が、正直に言えば男のあまりの思い切りの良さに、かなり毒気を抜かれてしまっていた。
馬車の方では夫婦と思しき老人二人と、まだ若いショールを被った女性、そしてヘリテよりも大分幼い子供が心配そうにクゥエル達の様子を伺っている。
ますますやりにくい状況であった。
「先に申し上げた通り、先行きがどうにも不安なのでございます。あとはあえて申し添えますなら……これでも商いで身を立てる者にございますれば。逃してはならぬ商機に形振りかまってはいられませぬ」
「一体何の商機か知りませんが、何を根拠とする判断ですか、それは」
「こればっかりは商人の目利き鼻利きとしか申し上げようがありませんが……私は、特に目には少々自負がございます」
男の言い方に含みを感じたクゥエルは、背中越しに声をかけられた時から抱いていた疑問をぶつけた。
「……一つ教えてください。私は術式で身を隠していました。貴方が随分と評価する私の術を見破れる使い手が、何故狼如きに手こずっておられましたか?」
クゥエルの問いに対して、男は直接は答えなかった。
「……今から懐より身の証を取り出します。夜神の情け深き帷にかけて、おかしな真似は致しません。お許しくださいますか?」
「どうぞお好きに。後は顔を上げてください。会話がしづらいので」
「情け深きお言葉に感謝を。ですが、どうか先に証を検めていただきたく」
男が取り出して見せたのは木製の使い込まれた遮光器と、金属製のメダリオンが二つ。
一つは縦に二分される上弦の半円型――夜神ナクトの聖印。男が言う通り夜神の信徒である身を証すもの。
もう一つは閉じた片目を象った真鍮のペンダント。手に取らずとも、微力ながら魔力を宿した装飾品である事がクゥエルには分かる。
だが魔道具である以前に、そのペンダントの効果と意味をクゥエルは知っていた。
クゥエルの故郷ではそう珍しいものではなかった。閉じた目の彫刻が意味するのは視線の無効化だ。
つまり、邪眼封じのお守りである。邪眼除けではない。それであればまた別に、見られた時に視線を祟る専用のものがある。
邪眼封じは、自らの視線が他人に仇為す事を防ぐための護符なのだ。
クゥエルはようやく合点がいった。どうして自分の隠形が破れたのかも、何故ハギルが今も顔を伏せているのかも。
そして、これは朧気ながら、クゥエルと――むしろヘリテの方をこそ馬車に招こうとする理由も。
「貴方は、魔族……邪視者だったのですか」
「左様でございます。元々あまり強い力はありませんで、この護符と目隠しでどうにか世間を渡っております。……ですが、それでも塞いだ隙間から、時たま見えてしまうものはあるもんでして」
顔を伏せたまま喋るハギルが、ようやくクゥエルにだけ聞こえる程度に声を落とした。
「余計な事は一切聞きませんし、家族にも言わせません。この霧が晴れるか、この山を降るまでで結構でございます。どうか、重ねてご同道願えませんでしょうか?」
やがてクゥエルは何度目かの諦めの溜息と共に、男――ハギルの言を容れた。
ありがとうございました。次回更新予定は7/31(月)22:00です。