六章 日陰がこよる縁と禍(1)
すいません、一週間の間が空いてしまいました。ただ、おかげさまで少し書き溜める事ができましたので、またしばらく更新していきたいと思います。
また今回からしばらく時限投稿を試してみようと思います。
投稿するのも結構時間を使うので、ある程度手続きを効率化して書く時間を稼ぐ目論見です。
ツィッターでの宣伝がどうなるか分かりませんが、その辺は適宜。
次回以降の更新予定は後書きに記載させていただきます。
それでは引き続き、よろしくお願い致します。
森深い山肌は深い霧に満たされていた。真夜中には及ぶべくも無いが、日の光はやや暗い乳白色の靄にすっかり飲み込まれて、まるで日の出前のような薄暗さだ。
そんな濃霧の中をかき分けて、一台の馬車が山道を行く。胴も四肢も太い農耕馬の二頭立て、荷台は帆布の幌に覆われている。
気持ちばかりの日除けがついた御者台には、二人の男が並んで腰掛けている。小綺麗な執事服を隙無く着込んだ青年と、ゆったりとした綿の上下にターバンを巻いて、短く刈り込んだ顎髭を生やした男。だがターバンと髭以上に特徴的なのは、目許をすっかり覆う細いスリットの刻まれた木製の遮光器だ。
男はハギルと名乗った。ガゼットリアとバルボアを行き来する行商人であると。
カーナガルに眼鏡は存在するが、基本的に高級品である。遮光器は特に辺境では日除けの他に軽度の視力矯正にも使われるため、そう珍しい物では無い。
ただ、これほど深い霧の中では普通着けない。ただでさえ悪い視界を更に狭めるだけだからだ。
「しっかし、おかしな事が続きまさぁ。雨季でも無いのにこんなに濃い霧が出るなんて、聞いた事もねぇ」
ハギルの声は外見から想像するよりも高く柔らかい。やや老けた印象があるが、実際はクゥエルよりいくらか上程度の年齢であった。言葉はいぶかしげだが、声の調子はさほど不安げではない。
相鎚を打つクゥエルの方が、いつもの飄々(ひょうひょう)とした真面目顔のせいで深刻なように見えるくらいだ。
「見たところ立派な山林です。霧が出る事自体は不思議ではない気もしますが」
「この辺は割と気温が高い場所なんですよ。もうちょっと寒いところなら珍しくもねぇですが」
「……確かに、体感気温は少し肌寒い程度には低いですね。霧で日が差さないためかと思っていましたが」
「それもありますがね、それにしたって寒過ぎまさぁ。北の御山の竜が引っ越したなんて話も聞かねぇし、それっぽい兆しも見当たらなかったんですが。見通しが甘かったたぁ、この事ですわ」
そこまで言って、男の口元がにやりと笑った。
「ま、おかげで珍しいご縁があった事には、ナクト様にお礼を申し上げなきゃなりませんが」
「……そうですね。私もヴェイン様のお言葉を借りるなら、影の重なる所に機縁有り、となります」
「ディアルマ様とディスクティトラ様の信徒が揃えば、主立った闇神一門が勢揃いですな!」
豪快に笑うハギル。揃えば、と言ってもこの場にいるのはまだ半分であるが、ハギルにとってそこは大した問題ではないらしい。実際、名前の挙がった神の中ではナクト以外の信徒はかなり少数ではあるのだが。
対して、クゥエルの無表情はほんの僅かに引き攣っていた。幸い引き攣った瞬間はハギルに気付かれずに済んだようで、クゥエルはなるべく自然に口元を手で覆って誤魔化す事を試みる。
(……前者はともかく、後者はご勘弁いただきたいものですが)
内心の声は流石に口に出すのをはばかられた。不敬というよりも相手が相手である。噂をすれば影、というのは洒落にならない。まだ引き攣っていた唇を覆った手の下で結び直しながら、前方の白い闇を見据えるに留めた。
白い闇、あるいは明るい闇とでも言うべきか。馬車を引く馬たちから三歩も奥は、まるで見通す事が出来ない。進む度に砂利を敷き詰めた道が現れるのは、幻じみた光景でもあった。
全くの自然によって発生した霧ではないのは、ハギルの言い分からも明らかだった。だが何らかの意図が働いているのか、その点がはっきりしない。である以上、闇雲に動くのは愚策だ、そうクゥエルは自分自身に言い聞かせる。
そこでようやくクゥエルは自分の神経が少し弛んできた事に気付いた。ヘリテが起きている状況では、ここのところずっと客観的な思考が出来ていなかったのだ。
良い意味で、となりに座るハギルのせいだった。少し粗野で、無防備に見えるほど開けっぴろげで、しかし下品でない。遠回しにその事に触れると、商売柄だという答えが返ってきた。後は、家族がいるからだろう、と。
ハギルは先だってガゼットリア第一都市のファルコーゼで商いを終えて、バルボアとの国境にある故郷まで帰る途中なのだという。だが、クゥエルがハギルに感じる空気は、猥雑で混沌として、それでいて活気に満ちた故郷――ガンガルゴナのものに近い。そう感じる理由は、ハギルの珍しい生まれにもあった。
今現在、ヘリテとクゥエルの身は行商人ハギルが所有する馬車の車上に在る。
何故こうなったかの経緯は、山道のど真ん中でこの馬車が狼の群れに囲まれていた事に端を発する。
バルボアに向かう国境まで後三日ほどに迫った日の、夜明けまで後一時間を切った頃。いやに靄の濃い夜更けだった。
最初に襲撃に気付いたのはヘリテの方だった。吸血鬼となって強化された聴覚が複数の狼が威嚇の吠え声を上げているのを聞いたのだ。
声は聞こえたが、立ち並ぶ木々に阻まれて視界には狼達は見当たらない。
そもそも二人は常のように街道そのものを歩かず、街道からも見えない程度に距離を取っていた。クゥエルはともかく、ヘリテは出来る限り人と出会う事を避けた方が良いからだ。
「クゥエル、お願い。様子を見てきてはくれないかしら?」
だが狼の咆吼に切迫した怒鳴り声が混じっているのを耳にして、ヘリテはそう訴えた。
「……承りました。ですが、どうかお嬢様はここで動かずお待ちください」
クゥエルとしては主の傍を離れる事は避けられる限り避けたいところであったが、同時に一度他人を気遣い始めたヘリテの頑固さを誰よりも知っているという自負もある。
ヘリテに厳重に言い含めると、クゥエルは手早く済ませるために簡易な隠形の魔術を纏い、騒音の出所へ音も無く向かった。
喧騒の中心にある程度近づいた後、すぐには出て行かずに、木々の影からクゥエルは様子を伺った。
十頭弱の狼に囲まれて立ち往生した馬車の前後で、老人と若い女性が懸命に革の鞭を振るっている。老人の横では若い男が手綱を掴んで引いていた。馬達が恐慌に陥るのを必死に防ぐためである。
周囲を取り巻く黒い毛並みの狼たちは、しかしまるで怯んだ様子もなく馬車から着かず離れずの位置を保っていた。
クゥエルは少し思案した後で、物陰にいるまま指を幾つかの複雑な形に組み替え、数語の呪文を小声で呟いた。すると突如狼の足元の影が厚みを得て立ち上がり、影の主の前に立ち塞がる。
本体の背丈の倍にも達する影絵の狼達は、決して単純な幻影ではない。対象の恐怖心を喚起し投影する、〈獣除けの影鏡〉と呼ばれる術式で生み出された呪的な鏡像である。十分な知性や理性があれば、影絵が歪んだ鏡に映った自分自身と気付く事で術の効果を破る事も出来る。だが、だからこその獣除けなのだ。
自らの原始的な恐怖に支配された狼達は、クゥエルの目論み通り情けない悲鳴を上げながら、てんでばらばら一目散に逃げ出していった。
馬車の危険が去った事を確認して、クゥエルは急ぎヘリテの元に戻ろうと踵を返す。だが踏み出した足はたった一歩で止まる事になる。
「お待ちを、偉大なる魔術師の御方! 我が神ナクトの名において、何卒卑小の身を救っていただいた御礼を述べる事をお許しくだされ!」
カーナガル全土で用いられる、商用共通語。それもかなり格式張った言葉遣いが山のしじまに響き渡る。
呪的隠蔽を身に纏っている状態で背中から呼び止められる事は、クゥエルにとって全くの予想の埒外だった。
ありがとうございました。次回更新は7/30(日)22:00予定です。
……はい、実はしばらくの間毎日更新です。理由は、一回の更新量を減らした方が読みやすそうなのが一つ。
もう一つは……隔日更新だと八月中に完結が怪しくなってきたからです(汗)
想定では十万字ちょっとで終わらせる予定だったのですが、現在全体の半分程度まで書いて八万字を超える有様でして(滝汗)
間に合いさえするんなら一日に二話更新すら必要かもしれない……!
色々体当たりチャレンジですが、どうかご都合の許す範囲で最後までお付き合いいただけたら幸いです。