間章 遠い追憶、近い笑顔
えー……先に言い訳します。
長い六章に入ろうと思ったら、その頭の回想が伸びすぎまして。
もう分けてしまう事にしたらそれはそれで過去最少の更新量になりました……。
まぁ、今日は軽食、スナック気分でご覧ください。。
――ヘリテは、両親が邪神の信徒だった事を、未だに半分だけ信じられない。
いや、事実と理解している心と信じていない心とが自分の中に同居している事を、曖昧な輪郭で感じ取っていた。
屋敷の中で、確かに何時からか自分が忌まわしい死の気配を感じていたのは事実だ。
だが気配とは裏腹に、屋敷での生活自体はあまりにも穏やかで、幸福だった。記憶の中では傍に仕える使用人も訪れる市民も、誰もが優しく笑っている。
そして信じていない心の核がもう一つ。二人が邪神を信仰した理由がはっきりと分からないのだ。暮らしに困っていた訳ではない。敵対する者がいた訳でも無い。
ただ、二人は美と芸術を愛していた。絶対視していたと言ってもいい。そして芸術を生み出す才能を愛していた。愛するあまり、才能から遠い人間に対して厳格過ぎる事はあったような気がする。そして時に、その厳格さは自身にも向けられていたようにも見えた。
水に垂れた糸を手繰るように、記憶が甦ってくる。新人の作品が置かれていない時期に回廊を訪れた時、珍しく父が一人で廊下の中央に立ち尽くしているのを見かけたのだ。父の前に置かれていたのは、常設展示期間に展示される一枚の絵だった。
その絵は先代以前のインフェルム伯が収集した美術品の、数ある内の一つだ。不思議な絵だった。作者も題名も分からないのは当たり前だが、描き方まで見当の付かないものはそれほど多くない。
細い木の薄板を継ぎ合わせた巨大な一枚板に、色とりどりの砂を使って一面に渦巻くような模様が描かれていた。黒と紺色を主体としながら、赤や黄色、緑など、鮮やかな色彩が至るところで思い思いに弧を描き、螺旋に絡み合っている。
夜空のようにも見えるが、こんな色鮮やかな夜空がカーナガルの何処かから見られるなど、ヘリテには想像も付かなかった。
絵の具に細かく砕いた鉱物が使われる事は一般的だが、この絵に使われている砂は絵の具としては粒が大きすぎて、とても筆で塗れるようなものではない。
加えて斜めから見るとよく分かるが、油絵が大人しく見えるほどに絵の表面の凹凸が激しかった。
無数の渦は細緻な立体で描かれていたのだ。板の上に色砂を敷き詰めた後、細い棒でかき回して丁度良いところでどうにかして固めれば、雰囲気は近いものが出来るかもしれない。
だが同時に決してそんな方法ではあれほどの緻密な絵は出来上がらない事も、子供なりに数々の絵を見てきたヘリテには分かるのだった。
何時からか、絵は屋敷の中で夜砂の海と呼ばれていた。
不安定そうな表面に対して、だからこそか強力な魔術による保護がかかっており、破損の恐れが少ない事から常設展では定番の絵でもあった。ヘリテも何度も絵の前に立っては、自分が暗い渦の中に吸い込まれていくような錯覚を憶えて背筋を震わせた。何処か恐ろしいが、間違いなく美しいと思える絵であった。
夜砂の海を前にして、父は口元をきつく閉じて、じっと遠くを見つめるような目をしていた。滅亡期を越えて残った美学の結晶を前にしながら、その時の父の横顔はあまりに固く、寂しげだった。
あの時の父の顔が芸術への強く深い執心の現れだったとしても、それが不死を求める理由になるのかは分からない。
人の生を越えて残る美しいもの。芸術は、時に人そのものを超えてしまうのかもしれない。
父も、おそらく母も、自らを美のそのものにしたかったのかもしれない。
それでも、だとしたら二人はきっと、間違っていたのだろう。
ヘリテは思う。そんな二人が死んで、遙かに幼く弱い、永遠に遠かったはずの自分が生き残って、まだ死なずにいる事の理由を、何時か知る日は来るのだろうか、と。
「……ん」
不意に、ヘリテの鼻先に小さな拳が突き出された。
我に返ったヘリテは目を瞬かせると、荷台の上で膝を抱えて座り込んでいた姿勢から顔を起こした。
目の前にいるのは年の頃七つか八つ、柔らかそうな頬をした自分よりも幼い少年だ。綿の上下に亜麻のベストを重ね着した姿は、年上の都市の子供よりも何処かしっかりして見える。多分ヘリテが辺境の子供の服装を見慣れていないせいなのだろうが。
丁度車輪が木の根を踏んだのか、荷台がぐらりと揺れた。当然、目の前に仁王立ちしていた少年の身体も揺れる。
「あっ」
ヘリテは小さい悲鳴を上げる。
バランスを崩したかと思って肝を冷やすヘリテを尻目に、少年は少し仰け反った状態から危なげなく姿勢を戻す。その様子を少し離れたところから見ていた大人達が声を上げて笑った。少年の母と、祖父母の三人だ。
少年はそのまま鼻息も荒く、もう一度小さな拳を突き出してきた。
「んっ」
「何……?」
何かを渡そうとしている事に気付いて、ヘリテは間違っても手が触れないように、恐る恐る拳の下に両手の平を差し出した。
手の平に掠めるように少年が拳を開くと、親指の爪程度の大きさをしたやや黄色みの強い褐色の塊がヘリテの手の平の上に現れる。
粗濾しの蜂蜜を固めて作った飴だった。
「ねえちゃに、あげる」
「……ありがとう」
あまりに得意満面の表情に思わず吹き出しながら礼を言うと、少年は見事な破顔大笑をして見せた。最近抜けたのだろう、大きく開いた口の中から下の前歯が一本欠けている。歯抜けの口元を堂々と晒す少年は、しかしいっそ誇らしげですらあった。
血を飲んだ時とは違う熱を胸の中に仄かに感じて、ヘリテは貰った飴玉を大事に清潔なハンカチにくるんで、懐に収めた。
何故だかどうしても、クゥエルに飴を見せながらこの話をしてやりたかったのだ。
そのクゥエルは今、少年の父親でありこの馬車の持ち主でもある行商人と一緒に、一番前の御者台に座っている。
ヘリテとクゥエルは、訳あって今現在、ガゼットリアとバルボアの国境に向かう行商人の馬車に同乗していた。
という訳で次回からドナドナこと六章開始でございます。別に売られてはいかないはずなのでご安心ください。
しばらくの間、馬車の旅にお付き合いくださいませ。