五章 燃え尽きたもの、燃え残ったもの(2)
「さて、彼女を送る間大人しくしてた事だけは褒めてやりましょう……出血大サービスです、大人しく出てくるならなるべく苦しまない形で終わらせてやりますが、どうします?」
立ち上がったアッシャーが次に口にした言葉は、侍女の死霊がいたのとは逆、自らの背中に向けられていた。
積み上がった瓦礫の山に、背中越しにアッシャーは話かけ続ける。
「夜を待って抜け出すつもりでしょうが、包囲に最低限の人手は残しますし……それ以前に、僕が放ってはおきませんしねぇ」
アッシャーの右手が背中に背負った十字の大剣にかかり、一方の左手が胸の前で刀印ーー人差し指と中指を伸ばし、それ以外の指を折り畳んだ印形を組んだ。
「後始末の手伝いって事で、瓦礫ごと塵に還しておきましょう」
瞬間、アッシャーの胸の辺りまで積み上がっていた瓦礫が爆発した。
より正確には、爆発的な勢いで下から飛び出したものによって吹き飛ばされた。
それは獣のようで、しかしどんな獣とも違う甲高く不吉な雄叫びを上げた。両手の五指に生やした小さく肉厚の鎌のような鉤爪を、アッシャーに向けて振り被る。
そしてその爪の届くわずか手前で、目にも止まらぬ速さでアッシャーが片手で引き抜いた大剣によって、空中に縫い留められていた。
おぉンぎゃああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ
何処か赤子の泣き声を思わせる、しかし遙かに邪悪でけたたましい叫びが廃墟に谺した。
「やれやれ、少しは先の彼女を見習ったらどうですかねぇ。全くもって浅ましい」
アッシャーは溜息をつきながら、剣先に引っかけるように串刺しにした当の相手を眺める。
獣には服の名残が張り付いている。元々は上等の仕立てだったのだろうが、大半が焼け焦げ、引きちぎれ、赤黒い血痕に汚されているので二目と見られない有様である。
火にも巻かれたのだろう。あちらこちらに黒焦げがあり、右足に至っては膝から下が無かった。瓦礫の下にいたのはただ隠れていた訳では無く、屋敷の崩壊に巻き込まれたせいもあったのだろう。
それでも、アッシャーに飛びかかる跳躍の速度には、片足のハンディキャップは感じられなかった。
千切れた隙間や顔、首筋、そして宙を掻き毟る両の腕からは褐色の太く縮れた毛がまばらに生えている。特に顔には獣毛の割合が高く、伸びた鼻先から耳まで避けた口には長く黒ずんだ舌と、太く鋭い牙が並んでいた。
長く前方に伸びて突き出した上顎は鼻と一体化しており犬を思わせるが、しかし全体としてはそれを犬と呼ぶ事は犬と犬を愛する者に失礼だろう。
だがより悍ましいのは、目を含む鼻から上に関しては、はみ出る獣毛以外は明確に人の名残を残している事だった。
他に存在しない独自の種族、純粋な異賊というカテゴリに分類される、人から枝分かれして混沌に寄ったもの。
屍食鬼。吸血神キヤルゴに祈った者のもう一つの果て。
獣じみた容貌の鬼は宙づりにされたまま、金属的で不快なしわがれ声で驚くほど元気に、人の言葉で呪詛を吐く。
「あァァァ……呪われろ、呪われろ! 神々の傀儡、秩序の盲信者共ォ! 真理から目を逸らす愚昧共が……」
「秩序の諸神、事分けては火神アイゼンに願い奉る」
喚く声を遮るように、アッシャーが短い言葉を唱えた。商用会話用の共通語ではない。魔術のための秘語でもない。異界から漂流してきた法文を元に開発された、戦闘用の圧縮祈祷。魔と最前線で戦う者のみが習得する、戦場の実用性に振り切った共用法術。
「悪業悪鬼の悉く焼き払い給え」
絶叫。
屍食鬼の全身が火を噴いた。瞬く間に残っていた衣服の名残は消滅し、手足のような細い場所から見る間にシルエットを失っていく。
〈火神火却咒〉。または〈アイゼンの猛炎〉。火神アイゼンの力を借りて秩序世界の敵を焼き払う、高い知名度と威力を誇る代表的な降魔法術である。
見る見るうちに体積を減らしていく屍食鬼は、それでも悪態とも呪いとも、あるいは譫言ともつかない言葉を炎の中で吐き散らし続けた。
「……き、貴様……アッシャー、ダストォ……死神の貪狼、聖征外道、虐殺騎士、ク、」
「だまらっしゃい」
遮るように言い放ったアッシャーの声に、初めて氷のような怒気が滲む。
屍食鬼が最期の言葉を吐くのを許さず、アッシャーは片手のままで剣を勢い良く捻りこじった。
剣は屍食鬼の脊椎に埋まったまま、ぐるりと回転する。屍食鬼の肉体も合わせて回りかけ、焼けて固まりつつあった肉は反転する遠心力に耐えきれず胸から頭頂部まで音を立てて真っ二つに裂けた。
支えを失って地面に落ちた屍食鬼の割れた頭を、アッシャーの脚甲を履いた足裏が粉々に踏み砕く。もはや原型を留めない消し炭を見下ろして、アッシャーは口元に指を押し当て、変わらぬ仮面のような表情のままに囁いた。
「しぃー……お口、チャックですよぅ?」
まるで子供のような仕草で、もはや聞こえようのない相手に向かって。
「さて……流石に打ち止めかと思ったんですがねぇ……」
不死者になりかけた死者を送り、生き残りの亜不死者から奇襲を受け、一方的な迎撃からの返り討ちに仕留める。ちょっとした大立ち回りを演じた事をおくびも出さずに、アッシャーは未だに廃墟の中を歩き回っていた。
アッシャーは普段から自分の感覚に徹底的に従う事に決めている。その感覚が、まだ曝くべきものがこの瓦礫の山に残っている事を、声を潜めて囁いているのだ。例え隠れているものが、出来れば見たくも無いものであろうとも。
何よりこの湖岸都市に着いてから、アッシャーはもう満腹を超えて食傷気味になる程度には自らの憎悪の対象を目の当たりにしている。
この地方の領主たるインフェルム伯と伯婦人は【共食いの祭祀長】の異名を持つ吸血神キヤルゴを信仰し、屋敷の地下に他の教徒達を招き陰惨な儀式を繰り返していた。永遠の若さと無限の時間を欲した夫妻は、自分たちが支援する芸術家志望の若者から健康かつ凡庸な者を選んでキヤルゴとその信徒達に捧げ、自分達の更なる栄誉と発展、その果てたる吸血鬼への転化を祈願していた。
以前から潜伏させていた内通者からの密告により事態を知った死神教会は、アッシャーに所属する神殿騎士団のほぼ半数を預け、夫妻を初めとする深淵教徒の捕縛を命じた。
いかな不死身の怪物達の天敵たる死神教会とはいえ、ガゼットリア森王国の一領主を独断で断罪する訳にはいかなかったのだろう。身柄を確保した上で王国政府と六大神の教会による審判に預けるに留めようとした。これでもまだ十分強行的な所業ではあるが。
だがアッシャーは伝え聞いていた状況から捕縛は困難と判断し、その上で部下たる騎士団の損失を最低限に抑えるための策を講じた。
とはいえ、アッシャーは自分に学が無い自覚がある。なので、最終的に選んだのは策と呼ぶ事をはばかられる力業だ。
直近の集会で屋敷に信者が集まったところで部下達に包囲させて出口を封鎖し、間髪入れずに屋敷に放火させたのだ。こうして逃げ場の無い状況を作り、正面からアッシャー単身で地下の祭祀場に突入。四面楚歌に追い込まれて死に物狂いで襲いかかってくる深淵教徒を、抵抗を建前にしてほぼ全て独力で鏖殺したのである。
灰の軍勢も数多あれど、これほどの凶行を実行に移す狂信者の数はアッシャーを含めてなお片手の指でお釣りが来る。
「ここは……?」
アッシャーが最期に足を踏み入れたのは屋敷の外れ、二階にヘリテの部屋が置かれた区画だった。
屋敷のあちこちに刻まれていた邪悪な紋章の気配はない。屋敷に放った火は法術によって縛りと強化が与えてあった。邪神の気配に強く反応して火勢を増す炎は、それ故にこの離れのような部屋を焼き尽くしてはいなかった。一階が崩れ落ちてしまったので部屋の原型は留めていないが、寝台を初めとする家具の数々は屋敷の他の部屋に比べると無事な姿を残している。
だが、アッシャーの本能に近い危機感が、この場所に他とは違う気配に対してしきりに警告を叫んでいた。
ふと、視界に入ったのはぎざぎざに割れた板材だった。元は壁の一部だったのだろう木の板は、強い力で引き千切られたように無残な断面を残している。一階の支柱が先に燃えて、二階が支えを失い崩れ落ちる時に引き千切られた、辺りが妥当に見えた。
だが強い違和感に、アッシャーは板の破片を拾い上げる。割れ目のぎざぎざは細く尖っていた。
アッシャーは目を細めたまま、眉もひそめる。
他の場所ではこんな火の着きやすい断面は残っていない。細く燃えやすい所は残らず燃え落ちて、角の取れた燃え滓ばかりになっている。
指で軽く押すと、思った以上に甲高い音を立ててささくれがへし折れた。よく乾燥した木の感触だ。これほど乾燥してなお燃え残ったというのは、ますます異常だった。
アッシャーの記憶の中で、見覚えのある幾つかの事象が浮かび上がる。
「……これはまさか、凍っていたのか……?」
改めて周囲を見渡す。部屋の名残が、あまりにも多く残り過ぎているように見えてくる。原因が火勢だけではなく、周辺が強い冷気にさらされた事で火が消えてしまった事にも起因するのだとしたら。
それほどの冷気を発散する現象と、吸血神キヤルゴの祭祀場。この二つを安易に結び付ける存在が、一つだけ存在する。
「大規模な<熱量枯渇>……この場で、何者かが亜不死者に転化した、とでも」
無論、不死者の可能性もある。<熱量枯渇>はこの世界において正しく生きていない、活動してはいけないはずの存在が、活動する際に周囲から熱の収奪という形でエネルギーを吸収する、不死者の呼吸とも言える常駐術式だ。
ただし普段はここまで大規模に発生しない。不死者も亜不死者も、もっと効率のいいエネルギー摂取を求めるからだ。生肉、生き血、あるいは生者の命そのもののような――。
だから大規模な<熱量枯渇>が発生するタイミングとは、得てしてこの世界に発生したばかりの飢えた不死者が引き起こす産声のようなものが殆どだ。そして性質上、純粋な不死者は強力な存在ほど発生した直後は発生した場所に縛られる場合が多い。キヤルゴの祭祀が行われていた事も合わせて、発生したのは亜不死者である可能性が高い。
より転化の際にエネルギーを要するのは、屍食鬼ではない、もう一種の亜不死者の方になる。
「ここは確か、インフェルム伯の一人娘の部屋でしたか……奴は無関係と言ってましたが、この様子では相当見誤っていたようですねぇ……いや、あるいは……そういう事か?」
噛み締めた歯の間から押し出すように、アッシャーは呟く。思わず独り言にも憎々しさが零れてしまうが、状況はのんびりと憎悪の反芻を許してくれそうになかった。
アッシャーは踵を返すと、足早に屋敷跡から立ち去った。向かったのは周囲の見張りに残っていた同志にして部下たる神殿騎士の一人。アッシャーよりもさらに幾つか若い青年騎士は、アッシャーの姿を認めて姿勢を改め敬礼を寄越す。
対してアッシャーは手を振って応えると同時に、以後改まる事を止めさせた。青年には伝言者としての役割も与えている。そちらに専念して欲しかったからだ。
事実、間髪入れずに情報共有を開始する。
「地下の状況はどうですか」
「五分五分と言ったところかと。期間は長くないですが、連中相当にえげつなくやったようで、被害者の死霊が恐怖と苦痛に強く汚染されてます。当分は一般人を近付けられませんよ。生者の気配に反応したら本格的に不死者化しかねません」
「インフェルム夫妻の固定は?」
「そちらは最優先で進められております。今夜中には封入出来るかと」
「そいつぁ丁度いいですねぇ」
「丁度良い、ですか? 本部から早く送れと催促でも?」
「いやぁ、どっちかっていうと逆ですよぅ」
アッシャーの次の台詞に、青年騎士は文字通り目を剥いた。
「地下の死霊魔術士に伝言をお願いします。明朝までに二人の頭蓋を使用できるようにしといてください、ってね。手続きに関しては全部僕の名前で省略しておけばいいです」
「……は?」
一瞬呆気に取られた騎士をアッシャーは責めない。無駄手間なだけが理由ではない。本来、夫妻の遺体は洗浄と固定――保護処理の事を指す――を終えた後、一切手つかずの状態で本殿こと死神教会の大神殿へ送り届けられる手はずになっている。
これは揺るぐはずのない決定事項のはずだった。
「使用って……こんな場所で降霊尋問を執り行うおつもりですか!」
降霊尋問。文字通り遺体を触媒に死者の霊を励起し、憑依媒体に降ろした死霊に対して行う尋問行為である。死霊魔術に分類され、許可のない降霊尋問は魔導学院によって禁呪に指定されている。
死神教会における扱いに至っては言うまでも無い。だが同時に、降霊尋問は被疑者に一切の嘘と沈黙を許さない、情報収集としては極めて有用な魔術儀式である。そして非情な事に、非正規戦力には必要に応じて切り捨てられる事で正規、つまり教会本体の威信を守るという不文律が存在する。
だが、それでもなお建前というものがある。いかな灰の軍勢とて、本来は専用の施設内で、しかも極めて厳重な管理の元でしか実施を許されていない行為だ。
加えて、魔術は強力であるほど危険もつきまとう。魔術による強制的な死霊の励起と覚醒は、一歩間違えれば凶暴な不死者の発生に繋がる。それ故の禁呪指定でもあるのだ。
無断行使、加えて十分な設備のない場所での強行は、極めて重い懲罰に値する。
それでも、アッシャーには一切の躊躇いは見られなかった。
「今ここでやらないと間に合わないんですよ。本殿まで戻ってたら確実に取り逃してしまうでしょう」
「取り逃すとは、何をですか」
「そりゃあ決まってるでしょう」
問い返す青年騎士に対して息のかかる程に顔を寄せて、アッシャーは常の糸目をほんの僅かに開いて見せながら答えた。
「我らの仇敵を、ですよ」
「……はっ、了解致しました! 伝令に向かいます!」
青年騎士は上官の顔に浮かんだ表情に対して明確な恐怖を浮かべた後、役目を半分口実に逃げるようにその場を走り去った。
その背中を普段の無表情な糸目で見送った後、アッシャーは屋敷跡を振り返りながら誰にともなく呟いた。
「『死人に口無し』。何処かの異界にはそんな言葉があるそうですが」
初めてその口角がほんの少し吊り上がり、笑みのような形を取る。
ただその笑みは、傾いた細い月のような、酷く不吉で好戦的な笑みだった。
「死なせたら問い質せない世界ってぇのは、随分と不便なとこですねぇ」
地縛霊を慰霊の祈りで葬送する事も。
屍食鬼を容赦無き剣と法術で滅殺する事も。
情報を得るために魔術で死者の眠りを乱す事も。
アッシャー=ダストにとっては等しく、為すべき事でしかないのである。
必要だからやる。以上でも以下でもない。ただそれだけの事。
彼を知る者には敵も味方も無く、こう評する者達がいる。
灰者の塵。あの男は、とっくの昔に人間性を燃やし尽くした後の燃えさしなのではないか、と。
ちょっと長くなりましたが、一応予定通り一区切りでございます。
次は少しあらすじを直す予定なので、少し空くかもしれません。ご了承ください。
後、ちょっとそれっぽい描写が少なくて分かりづらいかもしれませんが、一応筆者はこの物語を少年漫画寄りファンタジー系ライトノベルとして書いております。
戦闘場面も今後ぽつぽつ出てくる予定ですので、そういうのがお好きな方は楽しみにしていただければと。未熟の身ですが頑張ります。