序章 小公女は瑕疵を見たくない
序章 小公女は瑕疵を見たくない
高く澄んだ、石英の爪を弾くような擦過音。
火打ち石の名を冠する小鳥が、明るい橙の胸を張って窓辺に近い梢で歌っている。日はもう十分に高く、生地の厚いカーテンを隔てても部屋の中は十分に明るくなっていた。
「ぅぐー……あぁー……」
明るさが瞼を貫通し、寝床に横たわる少女の視界を抗いようの無い力で圧迫する。頭の後の方がむず痒くなり、落ち着かなさが募っていく。寝返りを打ってせめてもの抵抗を試みるが、逆に意識がはっきりしてきた。
チチチと鳴く声が何時しか独唱から輪唱に変わっていた。歌い手の数が一羽から二羽に増えたためだ。
直後、三羽目が加わる。歌声の乱反射はもはや姦しい領域に至った。
「もー……はい、はい! 起きますぅー、起きますからー!」
三羽の小鳥と陽の光という朝の四重圧力を無視する事を諦めて、ヘリテ=インフェルムは目を瞬かせながら寝台の上で起き上がった。
昨日の夜に若干の夜更かしをしてしまったせいで、窓辺の明るさに対して頭にはまだ分厚く眠気が立ちこめている。寝ぼけ眼から半分覗く瑠璃色の瞳もまだ眠気に曇りがちだ。身体を起こした拍子に揺れる金髪は薔薇の蜜の上澄みのように色濃く、ナイトキャップの下から背中に流れ落ちて、所々で渦を巻いている。寝癖である。
だが起きた以上は仕方ない。侍女が来るまでに出来る準備を済ませておく必要がある。やや気怠げに、ヘリテは寝台から下りて支度に向かった。
「はぁ……」
水差しの水を呑み、絹で顔を拭ってから鏡を覗き込んだヘリテは、色白と言い難い自分の肌を指でなぞって、また一つ溜息を吐いた。
毎朝のように巻きが入る癖の強い髪質は父のインフェルム伯から不本意ながら譲り受けたもので、ヘリテとしては正直ややうっとうしい。が、侍女達がやたらと楽しげに梳るので不満をこぼすのも申し訳が無くて気が引ける。よって朝の小さな憂鬱はヘリテの胸の中だけで生まれて消える定めにあった。
インフェルム伯は山羊の毛並みのようにもつれた黒髪に小麦色の肌と、やや色素の濃い平地人の血が濃い。同じく山羊を思わせる手入れの行き届いた顎髭を蓄えた、今が盛りの美丈夫である。
母たる伯婦人は模範的なガゼットリア森王国人といった色素の薄い森人の容姿であり、溶けた黄金と評するに相応しい金髪と細く切れ長の蒼眼を備えた麗人だった。嫁いでから美しくはなっても老けはしないという評判も森人らしい。
この二人の血を見事なまでに均等に受け継いだヘリテの容貌は、かなり色素の濃い森人とでも言うしか無いものになった。おまけに彫りが浅い、というか甘いところがあり、十二という年齢以上に幼く見えるのも個人的に気になるポイントだ。
自分の容貌が嫌いというわけではない。ただ正直母と並ぶとかなり野暮ったい。
そうヘリテは思っているが、屋敷の使用人や庭仕事に来る領民の誰に聞いても芳しい答えを得られた事は無い。皆一様に、困ったように笑って言葉を濁すのである。
「気を使われてない、はずはないのだけど」
その割りには悪気が無い、気がするのではあるが。
ヘリテは今でこそ大分安定しているが、生まれた時から身体が弱く病気がちで、床に伏せていた時間が長く、手の掛かる幼年期を送っている。その間自分で出来る事が少なかったせいか、気がつけば人の感情に敏感な子供になっていた。誰かを不機嫌にしてしまう事は、不便以上に孤独をもたらす。そう気付いたのはさて、何歳の時だったか。
ただ、物覚えのついた頃から、あまり誰かの不興を買ったという記憶が無い。ガゼットリア森王国インフェルム湖岸伯領、その領主の一人娘という立場がやはり物を言ったのだろう。であれば自分が何処で人の顔色を伺う事に長けたのか、やはり分からないでいた。
――実際のところ、ヘリテに対して悪感情を向ける人間は居なかった。少なくとも彼女の回りには誰も居なかったのだ。彼女が繊細になったのは一重に、自分の世話をしてくれる者達に少しでも良い気分でいて欲しいという、生来の健気さでしかなかった。
そんな少女の容貌など、愛らしいだけで十二分だった。ヘリテ=インフェルムの価値は容貌になど殆ど左右されない。いやむしろ、その儚さと優しさを湛えた姿は多くの人間に美しさとして映ってすらいた。
ただ周囲の人間、特に朴訥な領民はその事実を上手く説明できなかったから、結果として微笑みを浮かべるしかなかっただけの事である。
侍女に手伝ってもらって着替えた後――ことガゼットリアの高級服は、カーナガルで最も優美と評される代わりにパーツの点数が多い――家族用の食堂に向かった。朝食は可能な限り家族揃って摂るのが決まりになっている。両親は立場上共に多忙であり、特に夜は遅くまで屋敷を空ける事が多かった。故に家族の団らんはほぼ朝食に集約されていると言って過言では無い。
いつも通り、既に両親は円卓についてヘリテを待っていた。一般的な食堂は大勢を迎えるためにも長テーブルを構えている事が多いが、家族だけで食事を取る時は顔が近い方が良いというのがインフェルム伯の持論であった。
「おはようございます。お父様、お母様」
「おはよう、ヘリテ。おや、今日は幾らか顔色がよろしくないようだが。よく眠れなかったのかな?」
「おはようございます。大方読書に夢中になり過ぎたのでしょう。気晴らしには良いのでしょうが、あまり入れ込んでは本末転倒ですよ」
「はい、申し訳ございません。障りのないよう気をつけます」
母は夜更かしの原因をすっかり見透かしていた。向けられる鋭い視線に対し、万が一にも父の書斎への出入りを禁じられないよう、ヘリテは殊勝に頭を下げる。
対して父の態度は鷹揚だった。
「寝坊くらいはともかく、根詰め過ぎて熱でも出したらいけない。程ほどにするように」
甘過ぎます、とは言わずに横目で睨む母に、分かった上で視線を逸らす父。
ヘリテにとって幸せとは、ただただ目の前の光景の事だったかもしれない。
感じた幸福を噛み締めるように、食前の祈りを捧げた。無論両親も同じように手を組んで目を閉じた。インフェルム伯家の主神はガゼットリア人の大多数に漏れず、地神エステルである。
「エステルよ、今日授かる糧に感謝致します。大地に恵みの満ちん事を、禍の遠ざからん事を……」
胸の奥にほのかに灯る熱が、祈りの行く先を伝えてくれる。ヘリテには神の声を聞く素質は無かったが、存在を感じる程度の感性はあった。
ただ、その手応えこそが信仰心なのか、と言われればそこは首を傾げただろう。
出かける二人を見送った後、ヘリテは家庭教師について講義を受けて過ごす。といっても学ぶのは一般教養の範疇であり、午前と午後の一コマずつのみ。内容は日替わりだが、およそ半分弱は複雑怪奇な礼儀作法の様々と、その謂われ……実質的にガゼットリアを中心としたカーナガル五大国の歴史について学ぶ時間だ。とはいえ学問というよりは伝承や神話の類いが殆どで、それすらも時系列や年数についてはあやふやだった。あくまでどのような過程で作法のそれぞれが生まれたか、という説明が殆どである。
あやふやな理由は単純で、このカーナガルという世界がしょっちゅう滅亡に瀕しているせいだ。
より正確に言えば何度も滅亡し、その上で復興を遂げている。記録が残っているだけでも人類は【滅亡期】と呼ばれる絶滅を七度迎えており、さらに絶滅とまで行かなくても、【滅亡の兆し】と呼ばれる世界の危機を一々記録に残していられないほど数知れず越えてきた。生き残っているだけ偉いとも言えるが、おかげで創世記以降の記録は何度も消失の憂き目を見ており、世界史そのものを正確にまとめる事は殆ど不可能と言われている。
一応、その全てを見届けた者も存在するのだが、彼等から人の歴史を聞き出すなどという行為は鼠が虎を飼い慣らすより無謀なので、やはり不可能の域を出ない。
ただし、人が滅んでも人の記録は残った、というケースも少なからず存在する。神代に遺失した魔術や技術の類いを地面と時間の底から引き上げる為にも、考古学という学問はカーナガルにおいては軽んじられていない。ヘリテにとっても様々な発掘調査にまつわる話は物語に次ぐ大好物だった。
というよりは、その他の講義が極めて苦手だったという方が正しいのだが。
礼儀作法の動作を覚えるのも遅かったが、それ以上にヘリテは歌唱と舞踏、楽器演奏の分野が壊滅的だった。どれも同年代との交流や他家に嫁ぐ際に女性のステータスとして重要視される、実用的な項目である。
同じくらい重要視される詩歌の暗記暗唱は得意の部類だったので、身体を動かす事全般について適性が低かったのだろう。刺繍もダメ。乗馬やちょっとした球技は両親、特にインフェルム伯の厳命によって禁止された。
身体を動かす事自体を嫌ったわけではない。だが飲み込みが極めて悪く、加えて絶望的に体力が無かった。意志がくじける前に熱を出して崩れ落ちるというパターンがすっかり定番となるほどに。
家事全般に関しては種類と内容、評価すべき項目に関しては都度習うが、あくまで取り仕切る……人を使う側の技術として覚えるものであった。これもあまりヘリテの得意ではなく、審査するよりは出来うる限り不器用な自分の手で手伝いたがる方で、その度に執事達にたしなめられた。決まり文句はこうである。
「お嬢様におかれましては、いま少しお立場を弁えてくださいますよう、お願い申し上げます。御身のご自愛とご自制こそが、結局は下々の者の為になるのでございます」
これは貴族の子女としてはそれぞれの家の方針による部分だが、そうでなくても侍女や使用人達も身体の弱いヘリテを仕事に近付けたがらなかった。どう言い訳しても体力と根気勝負の重労働ばかりである。愛すべきお嬢様に何かあったらと思うと、手伝わせる方がよほど心臓に悪いのだ。
やや過保護気味なインフェルム伯の方針もあって、ヘリテの苦手分野に関してはあまり時間を割かない方針で教育は進められた。元々かなりの才媛である伯婦人としては少し思うところはあったようだが、身体にかかる負荷を思えばと最終的には賛同した。結果としてヘリテは普通の子女に比べるとやや習う項目に偏りが出る事になる。
その偏りを埋めるために、両親はヘリテが積極的に家業に触れる時間を設けた。
もちろん領地の施政に直接関わらせる訳は無く、領地にまつわるものとは別にインフェルム湖岸伯領には特色とも言える事業があった。
それは芸術振興――美術品の蒐集と鑑定による価値の判定、さらには芸術家の保護と育成である。
インフェルム湖岸伯家は前々回の【滅亡期】、『破邪落月』からガゼットリアの復興を主導した指導者の一人に端を発する。加えて初代インフェルム伯は美術品の蒐集と鑑定眼の確かさで名を高め、多くの芸術家を支援する支援者としても有名だった。それから代々のインフェルム伯は支援者の立場を受け継ぎ、結果として伯家のお膝元たる湖岸都市は、方々から若き芸術家の卵達が集う芸術都市の一面を持つに至ったのである。
ある日の午後、長い廊下の途中でヘリテはふと足を止めた。新緑と淡色の花で彩られた春の森に、透き通った少女の輪郭を重ねた水彩画が目の前に飾られている。
「クゥエル、この絵はカットナーの新作かしら? 先々月よりもずっと分かりやすいわ! 素敵!」
絵のまだ原色に対する緊張が残る色使いに、以前屋敷に顔を見せた気弱で朴訥な若き画家を思い出しながら、ヘリテが破顔する。
屋敷に若手の新作を集めた即席の画廊――ただし正確には彫刻や宝飾品、陶芸やその他の工芸品も数点飾られている――を、ヘリテは執事の一人を伴って歩いていた。これらの作品群を鑑賞し、感想を両親に報告する事が一つの課題なのだ。
なお、作品はわざと作者の名前が伏せられている。作品に対する先入観を出来る限り排除する為の工夫であると同時に、人に憶えて貰うための作風を制作者に意識させる商業的な理由もあった。
だからこそ、受けた印象と作者の答え合わせのため、生き字引ならぬ随伴する目録としての役目を果たす者が随伴している。
「左様でございます、お嬢様。……しかし素敵、なのですか? 正直に申し上げて、私にはよく分かりませんが」
ヘリテの横で質問に答える執事は、名をクゥエル=ファルゴットという。執事は高級な召使いであると同時に、主人と使用人の間に立って家事家業を管理監督する役割を担っている。インフェルム家に関して言えば家人三人に一人ずつと、屋敷内を統括する一人の計四人が雇われていた。クゥエルはその中でも最も若手かつ新入りの、ヘリテに専従する執事である。
まだ青年と言うべきクゥエルは黒髪に褐色の肌、黒褐色の瞳と、石人と南方の平地人のハーフと思しき特徴を備えている。加えて大変目鼻立ちの整った容貌をしており、ガゼットリアにおける異国情緒も加わって大変異性受けがよろしい男性――いわゆる一つのイケメンであった。
ただ、会話すると大抵の女性は引き攣った顔で退散する羽目になる。
「芸術とは、安易さよりは難解さに価値を見るものではないのでしょうか? であれば分かり易さとは、芸術品の価値を貶める要素と思えますが」
口を開けば出てくるのは大抵こんな調子の言葉である。初見であろうとどんな美人であろうとたじたじにならざるを得ないほど、この青年は堅物の唐変木だったのだ。
「ふっふーん、クゥエルの意見にも時に一理ありますが、しかしまだまだ分かっていませんね!」
「は、恐縮です」
なお、ヘリテとしてはそこが接していて気楽で可愛いところなのだが、という感想になる。ついでに言うとクゥエルは礼儀作法と歴史に関する幾つかの講義での教師役も兼任しており、普段のヘリテは彼の知識量に頭が上がらない。だからこそ時々こうして『上から目線』が取れる時は大変気分がいい時間でもあった。
「確かにあまり露骨な自己主張はよくよく品を損ねます。ですが、かと言って作者の意志が全く伝わらない難解さは見る人に不親切すぎます」
物知り顔で解説するヘリテに、頷きながら真顔で拝聴する執事。
クゥエルは自分の不得意分野に関しては大変素直に頭を下げてくれる人格者だった。その誠実さにつけこんで存分に甘えている自覚がヘリテにはある、が、無視した。
甘えてもいいや、と思う程度の信頼がそこにはあった。
「表現すると言うことは結局のところ何かを伝えようとする事です。自分が何を見て、何を感じ取って、出来れば何に感動したのか。伝えるために何を足して何を削ぐのか、その取捨選択こそが芸術であり、芸術家の感性というものなのです」
なお台詞の大半は父と母の受け売りなのだが、逆に言うと今のヘリテの持ち物は物質的にも精神的にも殆ど父母から授かったものなので、気にすると何も言えなくなる。
なので一生懸命自分の理解した範囲を自分の言葉で話す、努力はしている。
無論そんなヘリテの内心の葛藤は何処吹く風と、素直に頷くクゥエル。
「左様でございますか」
「カットナーの絵は前よりももっと、春の森を美しく感じている事がはっきり伝わってきます。この分かり易さは良いものだ、私はそう思います!」
鼻息強めで言い切りつつ、でもちょっとまだ色使いで迷走してる気がするなぁ、という感想は一先ず胸にしまっておくヘリテであった。
「ではお嬢様。こちらの作品については表現に関する精度、あるいは純度の向上が見られる、という事でよろしいでしょうか?」
「……いいと思うんですけど、クゥエルの表現はなんでそんなに硬質になるんでしょう」
「主に対する報告は無礼や負担にならない限界まで冗長性を削ぎ、正確を期するよう務めております。言うなればこれこそ私にとっての“執事の純度”にございますれば」
「……理解が早くて結構です、クゥエル」
「光栄の極みでございます、お嬢様」
同日の夜、珍しくインフェルム伯の帰宅が早く、二人揃って晩餐を摂るという幸運に見舞われた。こういう時のインフェルム伯は食後に少しでも時間を作り、愛娘の口から直接その日の出来事を話してくれるようヘリテに頼む。無論ヘリテの体調と体力の許す範囲でだが。曰く、父親としての至福の時間とのことである。
無論ヘリテも両親との対話には飢えている自覚がある。かくして二人は家族用の居間でクッションの効いたソファーに並んで腰掛け、お茶とクッキーを傍らにおしゃべりに興じた。
午前中の礼儀作法の事業で憶える事の多さに目眩を憶えた事、午後の新作鑑賞に対する思いついた限りの感想を伝えた後、ふと気になったヘリテは思い切ってインフェルム伯に尋ねてみた。
「父様、父様は今度のカットナーの絵、どう思われましたか?」
「ふぅむ、そうだな……」
娘の質問に小さく天井を仰ぎ、自慢の顎髭をしごきながらしばし目を閉じた後、インフェルム伯はこう前置いて自らの所感を述べた。
多少厳しいかもしれないが、美と芸術に関して嘘はつけないから許して欲しい、と。
「表現力に磨きがかかった事は認める。美を捉える感性も悪くない。が……色使いにやはり迷いと怯えがある。残念だが、彼は恐らく大成しまい」
「そうでしょうか……前回に比べるととても良くなったと思ったのですけれど」
「良くなってはいる。だが、だからこそカットナーには芸術家にとって重要な物が根幹から欠けている事を浮き彫りにしてしまった」
「重要なもの、ですか?」
「そうだ。他人の評価を気にする余り自らの中にある美を信じ切れない……それは意志、あるいは自我の欠如だ」
「自我……」
「私は芸術家、あるいはそれに留まらず美と芸術に関わる者にとって、内外の抑制すら振り切る強い自我こそが最も大切な才能だと思っている。こればかりは他人から与えられるものではないからだ」
言葉を一度切って、インフェルム伯はヘリテから視線を逸らした。目の前のテーブルに屈み込んで指を組み、顎を乗せる。婦人が居れば叱責されそうな行儀の悪い姿勢に、ヘリテは言い得ぬ迫力を感じて少し父から身体を離した。遙か遠くを睨み据える眼差しと合わせて、父の姿はまるで獲物を狙い力を溜める猛獣のようであった。
「極論すれば、美に絶対の正解はない。あるのは永遠に続く自己との対話と闘争だ。何者を押しのけてでも世に示さねばならぬ、そう信じて研ぎ澄まされた己という基準だけが、人の生を遙かに越えて残り続ける美を生み出す根源となる」
ヘリテにはまだ理解できなくて構わないが、と前置きを重ねながらインフェルム伯は続ける。視線を在らぬ彼方へ向けたまま。
「故に真実の自我を持つ者と持たない者では、結局のところ同じ場所に並び立つ事はできない。それが私の持論なのだよ」
――言わば狼と羊のように。
そう語る父の冷徹な眼差しを、生まれて初めてヘリテは恐ろしいと思った。
「自我……抑制を振り切るほどの……」
しばらくの間、父の言葉はヘリテの頭の片隅を占拠し続けていた。それこそ自分の中に暗く小さな洞穴が出来て、穴の奥の闇から光る目がずっとこちらを見つめているような、嫌な存在感のある記憶としてである。
父の、インフェルム伯の言葉は正しい。そう思う気持ちはある。ヘリテの生まれる前から、それこそヘリテよりも小さな頃から多くの芸術家達の興亡を見てきたからこそ出てくる重みが、父の言葉にはあった。
ただ自分にこの理屈を当てはめてみると、途端に胸が苦しくなる。ヘリテが今まで生き延びるために、多くの人が手を差し伸べてくれた。誰かの助けがあったから今の自分がいる。子供心にも、いや子供だからこそ、命に直結した実感としてヘリテの胸には感謝がある。感謝の源にあるのは多くの我慢を他人にさせてきた事への自覚である。
父母にも、使用人達にも、領民達にも、ヘリテの虚弱さは負担だったはずだ。事実その負担を負い切れない家では、今も多くの子供が子供のまま亡くなっている。
それを幸運と言うべきか、不公平と言うべきか。
「私は父様や母様……ううん、他の人にとって、邪魔ではないのかしら……?」
人に負担を与える自分の存在は、誰かの自我を喰らうものではないと、どうしてそう言えるのか。
芸術は自分のような人間が生まれて生きている事を、本当は許してくれないのではないか。
ヘリテは両手を胸にかき抱くように組み、祈りを声に出して唱えた。
「エステルよ、教えてください。自我とは……自分とは、芸術と美とは、誰かの傍にいる事よりも大事な物なのでしょうか……?」
エステルは大地の恩恵の他に農業や牧畜などの生産業、そして美術芸術に関する加護や権能も有している。全ては生命、特に人の命に直結する必要な糧であるとして、その発展を祝福しているのだ。
だが生きるために芸術が必要なら、それは万人のためのものでなくてはならない。水を飲まずにいて渇かない人がいないのと同じように。
「エステルよ、どうかお導きください……」
祈りの届く感覚はある。だが答えは無い。ヘリテは神官ではないから、元より神の答えがあったとしても聞き取る事はできない。
ではこの祈りに意味は無いのか。
この疑問に意味は無いのか。
何も分からないまま、ヘリテは居並ぶ革の背表紙の、ふと目に付いた一つを撫でた。刻まれた刻印は『紫金連雀』と読める。
ヘリテが今いるのは父の書斎だ。ここには無数の本がある。何故ならカーナガルにおいては一部の本も美術品にして芸術品であり、代々のインフェルム伯が蒐集する対象の一つだったからだ。今のインフェルム伯はこの蔵書を受け継いだ五人目であり、順当に行けば六人目はヘリテの配偶者か、ヘリテ自身になるはずである。そのせいもあってか、父は伏せがちだったヘリテに、極めて価値が高い蔵書を好きに読む事を許してくれた。
とはいえその殆どは如何に利発なヘリテであっても、理解どころか文字を負う事すら困難な物がほとんどだった。だからいつも決まって、ヘリテは同じ一角に集められた物語集を借りて、書斎で、あるいは自分の部屋で読みふけるのだった。
不思議な事に、集められた物語にはある程度の傾向があった。
曰く、吸血鬼と人間に分かれた姉妹の美しくも悲しい運命の話。
曰く、死した母に会うために『根の国』と呼ばれる地下世界を旅した王子の話。
曰く、民のために自らを生贄に捧げ、幽霊となった聖女と不死者の王の恋の話。
曰く、水銀を啜り自らを腐敗しない存在に作り替えた王の、悲劇的な顛末の話。
傾向とは要するに死、あるいは不死について語られた物ばかりだったのである。
悲劇的なもの、おどろおどろしいものが圧倒的に多かったが、中にはもの悲しくも美しい物語も含まれていた。ヘリテにとっては正に心のオアシスであり、好んで繰り返し読んだものだ。『紫金連雀』もまた、望まず吸血鬼になった姉と人のまま姉に寄り添った妹が互いに想い合いながら悲しい別れに至る物語で、ヘリテのお気に入りの一つだった。
魔術による保護が残っているおかげで摩耗を気にせずに読めた愛読書の背が、しかし今は鉄のように固く、冷たく感じた。
沈んだ気持ちのヘリテは、ふと空気に混じった臭いに我に返る。
「んぅ……何、この臭い……?」
香ばしく、それでいて脂ぎったと評するしかない臭い。食肉を焼いた時の臭いとは違う、もっと悪い意味で野性的で、胸の悪くなるような甘さと重さを感じさせる。悪臭と呼ぶしかない、そんな臭いであった。
出所を無意識に探して、その目は暖炉へと向いた。今は季節柄使われていない火の消えた暖炉の奥から、臭いと一緒に不気味な熱が部屋の中へと流れ込んでいるのだ。
意識を奪われたように凝視するヘリテの視界の隅で、不意に何かが動いた。
「ひっ」
反射的に目を凝らした後、ヘリテの喉の奥で引き攣った声が漏れる。動いた物の正体が僅かに明るみに出たのだ。
黒々と焼け焦げた、人の腕。
ずるりと灰を掻いて、暗がりの奥から焼けた人間が這い出してくる。
「うそ、なんで……」
焼け焦げて毛髪もただの焦げ目と化し、瞼は焼けて半ば髑髏のように露出した眼球は熱で白く濁っている。頬は削げて薄皮一枚と成り果てていた。
にも関わらず、ヘリテはその顔が誰かを認識する。
「カットナー……?」
朴訥な若者だったはずの物体が、徐々にその身体を明るみに現していく。だが腹より下は見えない。
その上には別の焼けた人間がしがみついていたからだ。群がる蟲にも似たおぞましさで、かって人だったものの成れ果てが幾重にも重なって、暗い穴の奥から溢れ出てくる。
「アンナ……ヨーシュ……スコット……ミリシャ……どうして、皆、故郷に帰ったはずじゃ……」
湖岸都市に集まる若き芸術家は年々増える。毎年独り立ちする数よりも遙かに多く。あぶれた者達は、しかし夢破れた後も人生は続く。都市の工房に勤める者も全体からすれば極一部、多くは気がつけば姿を消して、大抵は実家に帰ったのだろうと評されて終わる。
だが、それを確かめる者はいない。ヘリテも寂しさを感じても特段疑問には思わなかった。
――お嬢様――
しかし、確かめる者がいないという事は、その他の結末も集約されてしまえば気付く者がいないという事だ。
「いや、そんな、そんな事……知らない、私は、何も、知らない……知らないの! 知らなかったの!」
叫びが喉を突く。否定ではなく、衝動の叫び。知らなかったという事への罪深さに、考えることすら放棄して恐怖する衝動の発露。
その場を逃げ出したくてたまらない。なのに、足が動かない。書斎の室温が上がり、徐々に空気は喉を熱と渇きで焼くに至る。
何故か足が動かない。ヘリテが自分の足元を見下ろした瞬間、視界がぐらりと傾いた。
暗転ではない。周囲はむしろ明るくなった。見渡す限りの火の海という形で。
場所はいつの間にか書斎からヘリテの自室に移動している。さっきまで書架を背に立ち尽くしていたはずのヘリテは、今はうつ伏せに横たわっていた。視線は足元を振り返って、左足が分厚い木材――焼け崩れた板壁と床の間に挟まっている事を確認する。壁の崩壊に巻き込まれたのが自分の足だけではなかったから、完全に潰れはしていない。だが力は入らず、引っ張るどころか動く気配も無い。
――お嬢様――
壁のように居並ぶ炎の向こうから、声が聞こえる。酷く遠くから呼ばわる、朧気な反響を伴う呼び声。
喉は痛みで呼吸すら難しくなっていた。それでも痛みに耐えて呼吸する。
足はすでに感覚もろくにない。それでも壊れたように全身を動かし、その場を逃れるために這いずろうとする。意識しての事では無い。思考はもう、まともに機能していない。
――お嬢様――
声が聞こえる。炎の奥から。
炎の奥に、大勢が居た。
「嫌……嫌ァ……」
誰もが焼け焦げて、欠けていた。目がある者もない者もいた。腕がない者、胴の上に頭が浮いている者もいた。
欠けている者は焼け落ちただけではない。焼く前に切り分けられた者も、ほどよく焼かれた後にそぎ取られた者もいた。
何故、そんな事が判るのか。
『言わば狼と羊のように』
「お父様……?」
父の声が蘇る。墓穴から立ち上がる不死者のように。
『もしも狼の檻に羊が入ってきたのなら、狼は飢えれば羊を喰らう。それは当然の摂理というものだ』
――お嬢様――
呼び声が聞こえる。遠く、遙か遠くから、ヘリテを乞い求めるように呼ぶ声が。
意に介さずに不死者は騙る。存在するはずのない言葉で。
だが、何故存在しないと判るのか。
『この時、果たして罪深いのはどっちだろうか。狼の飢餓と本能か? それとも、羊の無知と無能か?』
不死者は笑っている。炎の奥、亡者達のさらに向こうで。
インフェルム伯とその婦人、そして二人に挟まれるように、ヘリテ自身が笑っている。
三人共、上弦の月のように吊り上げた口元を、べっとりと赤黒い液体で汚して――。
「イヤァァァアアアアアアアアアアアア!」
「――お嬢様!!」
自らの絶叫と、急に強く明瞭になった呼び声によって、ようやくヘリテは夢の中での意識を失った。
「お嬢様! 起きてください、お嬢様!」
「……クゥ、エル?」
「はい、クゥエルでございます。お嬢様」
ヘリテの目の前に、よく見慣れた端正な顔の執事がいた。珍しく息のかかりそうな距離まで近づいているので、滅多に動揺しない双眸が揺れているのがよく見えた。
暖かいな、と思った瞬間ヘリテはクゥエルと突き飛ばそうとして、ぎりぎりのところで手を止めた。
「離れてクゥエル……お願い、じゃないとあなたの体温が凍えてしまう……!」
「大丈夫です。お嬢様の<熱量枯渇>は現在殆ど機能していません。一定の休養が取れた証拠です」
言われて、ヘリテはまじまじと自分の手の平を見つめた。しっとりと湿り気を帯びてはいたが、それだけだ。霜は降りていない。巻き付けた毛布も幾らか濡れてはいるが、凍り付いてはいなかった。
見回せばヘリテが眠っている間に、洞窟はすっかり本来の姿を取り戻しているようだった。
クゥエルがヘリテをこの洞穴に運び込んだ時は、穴の中はまるで氷室の如き有様だったのだが。
小さく安堵の息を吐いたヘリテは、しかし続くクゥエルの言葉で凍り付いたように固まった。
「物資の調達も最低限を完了しました。日が完全に落ちてから移動を開始します。……その前に、補給と着替えを済ませておいた方がよろしいかと」
補給という言葉にヘリテの背中が震える。イヤだ、と声に出せたならどれほど良いか。だが身体と頭の芯は気持ちとは裏腹に、欲望を満たせる事の喜びに明らかに震えていた。少し前のヘリテならば絶対に認めたくなかった衝動。
「飲めますか?」
クゥエルが差し出した小さな酒杯に、震えがますます大きくなる。
クリスタル製と思しき杯には、鮮やかな赤が湛えられていた。酒杯を満たす液体から立ち上る香気は、夢の書斎で嗅いだ生臭さを含み、しかし遙かに甘く香しい。
ヘリテの意志を半ば無視して、震える手が杯に伸びる。急激に喉が渇きを覚えてうずき、同時に唾液が口腔内に溢れた。
理性が蒸発する寸前で辛うじて、ヘリテはクゥエルに懇願した。
「お願い」
クゥエルが自分に視線を向けた事を察しながら、ヘリテには視線を合わせる事が出来ない。
酒杯に満たされた新鮮な血液から、目を離す余裕が残っていない。
「……見ないで」
クゥエルの顔が小さく動き、何事かを数句呟いた。
直後、ヘリテの視界が昏く陰る。元々夕陽は差し込んでこない洞穴だったが、ヘリテもクゥエルも真昼のように周囲を見る事が出来ていた。それが途端に制限され、ヘリテの目にまともに見えるのは薄闇に浮かぶ血の杯だけとなる。
最期の羞恥の糸が切れ、ヘリテは獣のように杯に食らいつき、まだ暖かさの残る液体を一息に飲み干した。たちまち甘さ、塩辛さ、生々しくも香しい香り、そして燃えるような熱がヘリテの口腔を満たし、液化した宝石のような存在感を保ったまま臓腑へと流れ込んでいく。全身に熱と力が満ち、五感と気力が冴え渡っていった。
だが夢中で杯の底に残った残滓まで舐め取ったヘリテの精神に満ちていたのは、鉛のような敗北感だけだった。
「お……おぉ……おぁああ……」
クゥエルが被せた闇の中で、ヘリテが嗚咽を漏らす。先ほどの生命としての本能に突き動かされる獣性とは異なる、道理を分からぬまま嘆き悲しむ幼子の泣き声。
ヘリテは泣いていた。己のあまりの浅ましさに泣いていた。吸血鬼と化したこの身のおぞましさ、死と呪わしい転化を秤にかけてより罪深い方を選んだ自分の愚かさに泣いていた。
「あああああああああああああああ……あぁ……」
だが深い悲しみが沸き起こるのは、一つにはヘリテがまだ清らかで無垢な少女であるせいだった。彼女の選んだ選択を責められるような人間は、ほんの一握りしか存在しない。いや、一握りにも満たないかもしれない。
だがどうやって、今のヘリテにその事実を伝えてやれるだろうか。木に年輪を書き込めるのは、ただただ流れる年月だけに許される事だ。
己が無力を噛み締めながら、クゥエルは術式で降ろした帷の中で慟哭するヘリテを腕に抱き、その背中をさすり続けた。
泣く子供に唯一、己のしてやれる事として。