碧眼の戦乙女ビアンカ・シュミット〜常夏の休暇〜
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
野太い粗野な歓声を上げて、大の男たちが波打ち際へと全力で駆けていく。その威圧感たるや凄まじく、他の多くの観光客たちは無駄なほどに大きく身を引いて怒涛の群れを回避した。
「くらあぁぁぁ!! お前たち!! 一般の方に迷惑かけるなって言ったろ!!」
ヴェリア王国が誇る不敗の第一部隊を率いる隊長、ラファエル・リーツマンが早速はっちゃける隊員達に怒声を浴びせた。
しかし解き放たれた猛牛たちは聞く耳など持たず、真夏の海へのダイブを次々に敢行していく。
「隊長、無駄ですって。アイツ等この瞬間を楽しみに今日までの訓練とこないだの戦いを必死こいてたんだ。今日は休暇だぜ? 規律に外れてるわけでもねえし、あのくらいは大目に見てやらねえと」
騎兵隊長を務める銀髪の美丈夫、フランク・ベルツがラファエルを窘める。
立場的にはラファエルが上司であり年齢も一周りも離れているが、この二人には隊員の壁を超えた特別な信頼があった。
「む…………ああ、そうだな。節度も大事だが、アイツ等が普段抱えるストレスを発散させてやるのも部隊長の務めか。すまんなフランク」
「ねえ、きみたち可愛いね。どこから来たの? ああ、俺は第一部隊で騎兵隊長やってるフランクって言うんだけど」
「って、おいぃぃぃぃぃ!! ナンパは完全な規律違反だろ!」
「え? あの人が怒ってるって? ああ、気にしないで。じゃあご飯でも行こうか」
完全無視を決め込んだフランクは飄々と水着美女たち複数名を伴って、海の家にある食事処へ消えていく。
「くっ、アイツめ……まあ、心配し過ぎることもないか」
曲者揃いの第一部隊を見事に束ねるラファエルではあるが、フランクの手綱を捌く事だけは苦手であった。
それでも、本当に馬鹿げた行動を起こす男ではないと一応の信頼を置いている為、ラファエルは一先ずフランクを見逃す。
それよりラファエルは気掛かりを思い出して周囲を見渡した。
賑わいを見せる海辺に探している人物は見当たらず、ラファエルは場所を移動して探す事にした。
すると出店もなく観光客も殆どいない少し離れた浅瀬でラファエルはその人物を見つけた。
浅瀬を行ったり来たり往復するその姿は決して遊んでいるようには見えないが。
「ビアンカ」
ラファエルが声をかけると、絹のように滑らかなセミロングの金髪を揺らし、第一部隊で唯一の女性隊員、ビアンカ・シュミットは振り返った。
きめ細やかな色白の肌は陽光を受けて更に美しく映え、身に纏う水色のビキニからは細身でありながらも靭やかで筋肉質な肢体が伸びている。
「隊長……」
ビアンカらしい抑揚のない声色だが、ラファエルの登場に多少驚いたか、端正な顔立ちの中で一際目を引く瞳を丸くする。
左右で異なる色彩の双眸の内、右の碧眼は瞳そのものが煌めいているかのような鮮やかな輝きを放っていた。
慇懃に頭を下げる姿にラファエルは微笑を漏らす。
「そうかしこまらくていい。姿が見えないと思ってな、ちょっと探しに来たんだ。……ビアンカ、君には申し訳なく思っている。野郎ばかりの中、女性一人では楽しめないよな」
ラファエルがそう言うと、ビアンカはきっぱりと首を横に振った。
「いえ、鍛錬をするのに一人でできないという言い訳は通用しません。それに今日は海ということでしたから、ここでしかできない事もあります」
「ビアンカは今……鍛錬をしていたのか?」
「はい。こんな浅瀬を歩くだけでも繰り返せば水圧の負荷は馬鹿にできません。水中での鍛錬は柔らかく持久力のある筋肉が身に付くと聞いたことがあります。長く持続する体力はカナンの悪魔を屠る為には欠かせませんから」
そう言うとビアンカは一礼して歩くことを再開した。無表情な顔を光る汗が伝い、顎先からぽたりと落ちるのをラファエルは見た。
ラファエルの脳裏にビアンカと出会った日の記憶が過る。
こんな直射日光の厳しい中で、軍人とはいえ年端もいかぬ女の子が仇を討つことを目的に一人鍛錬に打ち明けている現実。
全ては自らが招いた結果と知るラファエルの胸は締め付けられ、打ち寄せる波のような罪悪感が幾度となく押し寄せるのだ。
「ビ、ビアンカ!」
僅かに震えたラファエルの呼び声。ビアンカは不思議そうに首を傾げるとラファエルを正面に見据えて直立する。
普段の軍服姿とは異なる、女性らしさを遺憾なく感じさせる格好にラファエルは思わず生唾を飲み込んだ。
直ぐに自らを律するように咳払いを一つ。
「今日は休暇だ。休む事もきみの勤めだと前に教えたね? どうだろう? 私と少し羽を伸ばしてみないか?」
「羽を伸ばす、とは?」
「まあ、どうということはない。浜辺を散歩しながら何か悩みでもあれば話を聞こうという程度の事だが」
「お誘いいただきありがとうございます。ですが、女一人だからとお気遣いなさらなくても私は大丈夫です。隊長にとっても貴重な休暇。ゆっくりと日々酷使している明晰な頭脳をお休めください」
断りを受けてラファエルは整髪されていない跳ねついた髪をがしがしと掻いた。
「参ったな。ではビアンカ、きみの為ではなく私がお願いすると言ったら付き合ってくれるかい?」
ビアンカは一瞬考えたようだったが、直ぐにラファエルを真っ直ぐに見つめ「はい。隊長の頼みごととあらば」と呟いた。
「ありがとう。では、行こうか」
返答を聞いたラファエルは目尻に皺を寄せ微笑んだ。
差し出された手を躊躇いがちにではあったが、ビアンカはしっかりと握り海から上がった。
「どうだ? 普段何か、困った事や気になる事はないか?」
「気になる事……そうですね。剣を左右同じ強さと速さで振るいたいのですが、やはりどうしても利き腕ではない左の精度が悪く……。改善策を模索中です」
「なるほどな。関節の稼動域が左右で異なるのではないか? 筋力の向上を図るより柔軟性を意識してみたら何か変わるかもしれない」
「稼動域と柔軟性……直ぐに検証してみたいと思います」
「他にはないか?」
「重装騎士を相手にしたとき素早く仕留めたいのですが、中々一撃で決める事ができず……非力な自分が恨めしいです」
「重装騎士に対しては刺突が有効な事は知っているね? ビアンカの得物のレイピアは正にそれに特化した武器だ。激情のままではなく、冷静に鎧の隙間を狙い突く事が最も効果的であり効率的だよ」
「そう……ですね。常に冷静沈着に。ありがとうございます、隊長」
「ふっ、ビアンカの相談は戦う事に関してばかりなのだな」
「すみません。折角気遣っていただいたのにつまらない話ばかり」
「いや、そういう意味ではないんだ。……ビアンカ、君は兵士としてはもちろん優秀だが、女性としてもとても魅力的だ。普段町を歩いていて男に声を掛けられたりしないか?」
「いえ、そのような事は全く」
恐らくは無自覚なのだろう。ビアンカは即答した。
「本当か? ヴェリアには見る目のない男が多いのかな。今日の水着姿もとてもよく似合っているよ」
「……動きやすそうな物を選んだに過ぎません」
表情に殆ど変化はないが俯き加減の頬が僅かに紅潮する。ビアンカはチラとラファエルの横顔に目を向けた。
正面を見据えたまま穏やかな表情で歩を進めるラファエル。不意にその視線が向けられ、盗み見ていた視線とかち合ったビアンカは咄嗟に顔を反らした。
しかし、その行動に違和感を覚えたラファエルに「どうかしたかい?」と問いかけられてしまう。
自ずと心拍数が上がる。
悩んだビアンカだったが、意を決して。
「隊長は……普段の私より…………今日の」
「きゃああぁぁぁぁぁぁ!!」
突然の悲鳴が辺りに響き渡り、ラファエルとビアンカは顔を見合わせると弾かれるように駆け出した。
声の出処はそう遠くはない。
現場に到着すると、そこには嫌がる女性の手を引く暴漢の姿が。
「助けて!」
「いいから来やがれ、可愛がってやるからよ」
「下衆が!」
叫んだラファエルが動き出すより早く、隣にいたビアンカは一瞬で暴漢との間合いを詰めていた。
その速さに狼狽した暴漢が慌てて女の手を離しビアンカに拳を振るう。しかし軽い身のこなしであっさりと躱すと、ビアンカの細い腕から放たれた貫手が男の鳩尾を突いた。
「がはぁッ!」
男が苦悶の表情を浮かべ跪く。すかさずビアンカが地面に組み伏せ身動きを封じた。
徒手空拳のみでもビアンカの強さは並の男では手が付けられるものではなかったのだ。
◇◆◇◆◇◆
「結局ゆっくり散歩もしていられなかったな」
「そうですね。でも、隊長とこうしてお話できる機会をいただけてとても嬉しく思います」
「そう言ってもらえて私も嬉しいよ」
人気のない静かな浜辺で二人並んで腰を下ろしての会話。
さざなみの音が心地良く、この地を休息地に選んだ渡り鳥がその独特な鳴き声を発して辺りを旋回している。
「そういえば、先程何かを言いかけなかったか?」
その問いにほんの僅かビアンカの肩が揺れた。それは余程注視していなければ気付けないであろうビアンカの動揺。
ビアンカの中に一つの疑問が浮かぶ。
隊長は……私の事をどう思っているのだろう。一人の隊員? 歳の離れた妹? 娘のような存在? それとも……。
「あの、隊長……」
「ん?」促すラファエルの眼差しはどこまでも慈愛に満ちている。
その優しさが、出過ぎた質問だと分かっていてもビアンカの背中を押した。
「隊長にとって、私は……」
「じゃあね、君たち! また遊びに来るからその時はよろしくぅ!!」
聞き馴染みのある溌剌とした声にラファエルとビアンカは同時に振り返った。
そこにいたのは三人の女性とにこやかに手を振り合う銀髪の軽薄そうな男、もとい騎兵隊長を務めるフランク・ベルツであった。
「あっ! 思い出したッ! あの馬鹿は……」
ラファエルの表情が苦虫を噛み潰したように歪む。
すると、女性たちと別れたフランクもビアンカたちに気が付いたようで、目を丸くして歩み寄ってきた。
「あれぇ? そこにいんのは隊長とビアンカじゃないっすか。こんなとこで何を……」
そこまで言葉にしてフランクの思考が一つの結論に辿り着いたのか、しまった、と言わんばかりに天を仰いだ。
「俺とした事がらしくもねぇ、とんだお邪魔虫だ」
独り言を呟くフランクの前にビアンカがずいと立ち塞がる。
「騎兵隊長、あの女性たちは?」
「へ? あ、ああ……さっき偶然出会ってしまった常夏の天使たちさ」
軽妙に回る舌もビアンカの威圧を前にどこか精彩さを欠いている。
言い逃れようと模索するフランクだったが、返答に納得しないビアンカの右の碧眼がギラリと光を帯びる。
「らしくない軽率な行動ですね。規律違反者には相応の罰を受けてもらいますが」
「らしくない事もない気が……って、おいおい! 自分で言わすな。つか待て待て、相応の罰って俺は悪いことしちゃいないぜ? 女の子誘って飯食っただけ」
「ナンパは違反です。隊長、ベルツ騎兵隊長の処罰は如何致しましょう?」
「そうだな……。だが今日は休暇でここは海だ」
「だよなぁ! じゃあ、規律違反の処罰は帰ってからしっかり受けるからこの場は一先ず納めようぜ」
現行犯さえ逃れればどうとでもなる。そんな見え透いたフランクの思惑にビアンカがムッとする。
「ここにある木剣でビアンカと真剣勝負といこう」
「いやいや、何でこんなとこにそんなモンがあるんだよ」
「売店で購入しました。先程暴漢による小事がありましたので、念の為」
「海の売店でそんなモン売るな」
ビアンカは一本の木剣をフランクに差し出す。受け取ったフランクはやれやれと呆れた相を浮かべつつも、覚悟を決めたようだ。
「ビアンカ、お前が融通の効かない真面目ちゃんだって事はわかってるからよ、俺も手加減しねえぜ」
「はい。全力で倒させていただきます」
「はあ〜、ほんっとうに……このクソ真面目が!!」
フランクが砂を蹴りビアンカに迫った。
すかさずビアンカも迎撃する。
常夏の砂浜に木剣が激しく打ち合う音が響きわたった。
「ふっ、太陽が眩しいぜ。これがウォーターメロンが最後に見る光景か……。アングルは悪くねえ……な」
そう言い残し、どこかキザな表情のままフランクは意識を手放した。
「隊長、ベルツ騎兵隊長をいかが致しましょう?」
「まあ、その辺りで勘弁して介抱してやろう。この直射日光の下、置き去りにしたら本当に死ぬかもしれん」
「そうですね」
ラファエルが仕方のないやつだとビアンカに笑いかけると、ビアンカもまたチラリと薄く笑って応えるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
海での休暇を終え、兵舎にある執務室で業務をこなすラファエル。背凭れによし掛かり一息入れると、ラファエルは海でビアンカと過ごした時間を思い起こした。
普段見ることのないビアンカの水着姿は、思わず見惚れしまうほどに美しかった。
やはり彼女には血生臭い戦場なんかより、相応しい居場所がある。
「ビアンカ……」
思わず呟いた自らの声にラファエルははっとする。
ビアンカには女性としての幸せを歩んでもらいたい。だが、ラファエル自身がその幸せの一助となることがあっても、共に寄り添う事はあり得ないだろう。
ビアンカの心に宿るカナン王国に対する怨嗟と憎悪の炎。それを植え付けたのがラファエル自身だというのに、彼女の幸せを願うなんて矛盾しているだろうか?
そうだとしても、ビアンカの心から復讐の鬼を取り除く男が現れてくれたらと、そう願わずにはいられない。
暫し瞑目して思考に耽っていたラファエルは、姿勢を正すと再び膨大な量の書類に目を通した。
カナン王国軍陸軍幕僚長レオン・バッハシュタインが軍部を退いた報告が真っ先に目に入った。
自室で一人食事の用意をしていたビアンカもまた、海でのラファエルと過ごした時間を想起していた。
ビアンカにとってラファエルは恩人であり尊敬する人物だ。ラファエルは気遣いで誘ってくれたのだろうが、ビアンカにとってそれはとても嬉しかった。
その優しさは時に勘違いさせる。あの時だって優しさに甘えてうっかり要らぬ問いをしてしまうところだった。不謹慎かもしれないが、暴漢の小事とフランクの不祥事が重なってくれて結果的にはよかった。
だけど……。
「隊長……」
自らの口から発せられた言葉にはっと我に返る。ビアンカは小さく頭を振った。
ラファエルにどう思われているかを知りたいなど、出過ぎた感情であり、自らの成すべき事とそれは全く関係のない話。
恩人であるラファエルの為に身命を賭して戦う覚悟である事は不変の誓いであり、ビアンカ自身の矜持でもある。
ビアンカは部屋にある小窓から外に視線を向けた。
夜の帳が降りた真っ暗な外界は、常人ならば視界が利かずその瞳に何も映らないのだろう。
しかしビアンカの碧眼は視線の遥か先、仇敵であるカナン王国への道をはっきりと映し捉えていた。
鮮やかに輝く瞳に煌々と燃える黒い怨嗟の炎。
テーブルに並べられた出来たてだった料理はすっかり冷めてしまっていた。