竜とそばかすの姫
先日、映画館で「竜とそばかすの姫」を鑑賞した。始めから期待はしていなかったので、自分は別にここで悪口を書こうとしているのではない。むしろ私はあの映画に一筋の光明を見つけたので、その流星を見失わない内にさっさと筆を動かすことにしたのだ。
ルイ・ルロワがモネの作品を印象の言葉で嘲笑した絵画は、どこか哀愁的で夢の中にいるような心地を私に抱かせる。これは自然をありのままに再現しようと努めた画家の筆触が、私の心に在りし日の記憶を蘇らせからであろうか。この絵画はどこか懐かしさを抱かせる作品である。印象派の名は批評家の皮肉から始まったが、私は先日に見た映画に対して、前向きな気持ちで印象の言葉を口にしたい。私はこの映画に何か新しい映画の可能性があるように感じるのだ。印象派の画家達がかつての常識を取り払って新たな価値観を発見したように、アニメ映画の世界にも一種の革命があっても面白いと、私は劇場の中でふと思ったわけだ。
「竜とそばかすの姫」についての感想だが、物語は全く良くなかった。そもそも人間が上手く表現できていないと感じた。登場人物がもっと実際に生きる人々の心を持っていれば、物語も多少は良く見えたであろう。なんせ物語を展開するのは登場人物であるので、それに欠点があるだけで、物語はまずい方向に進んでしまうのだ。ただ私は物語や登場人物について何がいけなかったのかを述べるつもりはない。悪口を書くことは時間の無駄だ。ただ一言で表現するならば、もっと現実の人間を知る必要があるだろう。現実はアニメよりも複雑である。更に現実よりも空想の方が遥かに易しい。そのためにも作家は現実に生きる人々に大いなる敬いを抱いて、その人類愛をアニメ映画に浸透點せ無ければいけない。するとどんなに非現実的な映画にも透明感が現れて、何故か現実を映す鏡となり、鑑賞する者の心には明日への希望が生じるものである。本当に良いアニメ映画にはその傾向があるのだが、私が今回に書きたかった内容はそのことではない。話を戻そう。
私は映画中に何度かうたた寝をしてしまった。それほどに物語や登場人物が退屈だったのだが、ただ劇中に幾度か感動する場面があったのだ。それは正に夜の公園で突如、月の光を掴んだような気持ちであった。まるで詰まらない夢を見ていたら、ふと美しい亜麻色の髪の乙女が現れて、私の手を掴んで綺麗な野を駆け始める。そんな心地良い印象が私の胸を急に打ったのだった。本作で鈴がUの世界で熱唱する場面が幾度とあるが、その時の音楽と映像美には間違いなく素晴らしいものがあったように思う。その一瞬の印象の美しさが、私の心に今も残っている。まるで夢でも見ているような映画であった。鈴の歌と映像美に酔いしれた短い時間が、まるで悪夢の中にふと現れた天使のように、私の記憶で今も奇妙な違和感を残しているのである。果たして良い映画とは何であるのか。私はこの映画を見て、全ての映画に必ず物語が必要ではない気がしてしまったのである。例えば、物語が全くない映画でも、音楽と映像が素晴らしければ、2時間どころか3時間、4時間と椅子に座ってられる気がするのである。ただその時は酒やご馳走などを用意して、隣人とお喋りをしながら映画を楽しみたいものだが、そのような映画の楽しみがこの世にあってもいいような気がするのだ。私は「竜とそばかすの姫」を見て、確かに感動した瞬間があった。ならばその瞬間から絞り取った絵の具を筆に付けて、大スクリーン上に荒々しい筆触で、言葉が必要でない印象の美を表現すべきではないだろうか。物語のない映画という一つの試みが、あの映画を礎として生じたら、どれだけ酒が進むだろうと私はふと思ったのだが、これは自分の見当違いであろうか。映画の物語性という伝統的な形式を超えて、新たな自由を表現することが可能であると、私はこの映画の音楽と映像美を体験して感じたのだ。映画館は素晴らしい音と映像を提供してくれる。何も会話がなくても素晴らしい映画は作れるはずてある。なんせ人間の心は、感動をするためには物語でなくとも充分なほどに敏感なのだ。人間は素晴らしい絵を一目見ただけでも、素晴らしい音楽を少し聴いただけでも、まるで世界が止まったかのうような感動を味わうことができる。ならばそこに物語は絶対に必要なわけではないだろう。
私が一番に言いたかったことは、物語を必要としない映画も存在することである。表現形式の選定というものは確かに難しいが、例えば全ての映画に物語は必要でなく、物語が無いほうが映画の良さを引き立たせることのできる映画もあることを、全ての映画監督者は知るべきであろう。更にアニメ映画にはその可能性が秘められている気がするのだ。何故ならアニメ映画ほど言葉がなくとも面白いと感じる映画はないだろう。それほどにアニメ映画の美しくを際立たせる技術は発展しているのだから。私は「竜とそばかすの姫」で見つけた印象を愛しているからこそ、この評論文を書こうと決したのだ。以上。