5.もういいよ
「お前が死んだのは、もう少し上流だったか。ずいぶん逃げたな」
「あの時の忠秋、めちゃ怖かったからな。そりゃ、必死よ」
「思春期ハートの男子を舐めすぎたんだな。プライドだけは富士山並みだから」
「だからって殺すことねえじゃん……!」
「まったくだな」
押し黙ってしまった袖山の代わりに、蛇浦が事の顛末を話してくれた。
二十五歳になった俺からしたら、「なんでそうなる」としか言えない。でも、それはいまだから言えることだ。当時の俺たちは、たぶん他の同級生たちよりも幼かった。
「気持ち悪い」
「……だろうな」
蛇浦と話す俺を見て、袖山はようやく口を開いた。
「いない人と話すの、いい加減やめなよ」
「まあ……、分かるよ」
否定したいのも分かる。気持ち悪いってのも、分かる。逆の立場なら、たぶん俺は走って逃げる。だから、逃げずに俺を殺そうとした、袖山の肝の座り方に驚いた。何があっても隠し通そうと決めていたんだろう。
俺たちが船なら、袖山は錨だった。どっしりと構え、浮力の強い俺たちを支えていてくれた。いくら俺たちがふらふらしていようが、袖山がいる限り船が難破することはなかった。
だけど、あの日、錨が上がってしまった。
「悪かったな、袖山。蛇浦を殺したのは、お前じゃなかった」
錨を上げたのは、忠秋か。はたまた、蛇浦か。
それとも、俺か。あるいは、袖山自身か。
ともかく、錨は上がった。永遠に続く気がしていた凪が終わり、俺たちはふらふらと流され出した。
「直接手をかけたのは、忠秋だった」
袖山は、俺の言葉を否定したいはずだ。頭のいかれてしまった男の戯言だと、切り捨てたいはずだ。だけど、袖山の苦々しく引きつった表情が、俺の言葉が正しいと肯定してしまっていた。
だから、幽霊の語った言葉は真実だと断定して、俺は袖山に問いかける。
「どうしてだ、袖山?」
「……言う必要ある?」
「認めたな」
「うっ……。美郷くんは、いつも半端に賢いんだから。もっと馬鹿だったら可愛いのにね」
返す言葉もねえよ。うるせえ、としか言えなかった。
「俺の知ってる袖山小春は、そんな悪い子だったっけか?」
「そうだよ。わたしは悪い子なんだ。だから、魔が差すことくらいあるよ。毎朝の占いだって気にしてるし……」
「聞いてたのかよ、それ。いま占い関係ねえから」
袖山は大きく溜息をついて、その場に座り込んだ。頭の傷は、もうほとんど乾いているようだった。
「永遠に続くと思ってた」
と、袖山は呟いた。
「俺も、そう思ってたよ」
と、返した。
永遠なんてないと半ば気付きながら、いずれくる変化を恐れ、見ないふりをしていた。
その変化を受け入れることは、簡単なはずだった。きっと誰もが経験することで、みんな当たり前に受け入れている。とても普通のことであるはずだった。
「あの日。あの社での二人を見て、あーあ、ついに壊れちゃったって思った」
全員、ずっと一緒にはいられない。場合によっては関係性も変化していく。
「ヒヤヒヤしてたんだー。いつか終わっちゃう、壊れちゃうだろうなって。でも、あんな壊れ方するなんて思わないじゃん」
あんな事件なんか起こらなくても、俺たちはいずれ変わった。それが当たり前で、それこそが青春ってやつの終わりなんだろう。
「でも、どうせ壊れちゃうなら、その後をわたしが決めようと思ったんだ。後始末は、いつもわたしの役目だったし」
「いつもお世話になっております」
「いえいえ」
「それで、期待通りには、なったのか?」
「夏海ちゃんがいなくなって、美郷くんが町を出て、わたしと砂越くんだけが残った。期待通りだったのは、そこまでかな」
それきり、袖山は俯いてしまった。罪の告白を終え、罰が下るのを待つかのようだった。
そんな袖山を見て、俺は俺で言葉を失っていた。
悲劇としか言いようがない。あるいは、喜劇か。誰か一人でもよかった。もう少し大人なやつがいたら、こんなことにはならなかっただろう。少なくとも、忠秋の手が夏海の首にかかることはなかったんじゃないだろうか。
「なあ、冬生。小春は忠秋が好きだったってことで、いいんだよな、これ?」
「うるせえな。野暮ったいこと言うな、ぼけ」
「え?」
自分に言われたと思い、袖山は跳ねるように顔を上げた。
「い、いや、違う。悪い。蛇浦に言った」
タイミングが良いのか悪いのか。どうあれ、蛇浦のおかげで気まずい沈黙は破られた。
「……ふふ。夏海ちゃん、何て言ってるの?」
すべて諦めたような、すべて失ったような、儚い笑顔の袖山。
「あー……。小春は忠秋が好きだったんだな、だと」
「まじで最悪。野暮天。夏海ちゃんにそれ言われたら……。惨めすぎて、わたしキレそう」
ふふ、と袖山はまた笑った。今度は、まるで憑き物が取れたみたいな笑顔だった。
「でもそれ、夏海ちゃんっぽいね」
「まあな。クソガキだからな」
「なんだと、こら! あと、やぼてんってなんだ? 絶対悪口だろ!」
横で蛇浦が暴れるもんだから、俺の足元で石が跳ねた。
「な、なに!?」
「蛇浦がクソ暴れてる」
唖然とした様子の袖山。
墓所の割れた花瓶や、自分の頭に飛んできた石。いま、俺のまわりで起きている現象。そして、知るはずのない情報を持っている俺。さすがの袖山も、“そこにいる誰か”を認めざるを得なくなったのだろう。
「……ごめんね、夏海ちゃん」
と、こぼした。
たぶん、この七年間、ずっと胸に抱えていたであろう言葉。それを、袖山は静かに投げかけた。彷徨う視線は、蛇浦を捉えてはいない。いまだに、蛇浦は俺にしか見えていないらしい。
「許してほしいだなんて、言わない」
そんな袖山の言葉に、蛇浦がぴたっと動きを止める。足元で跳ねていた石も静かになった。
「本当にごめんなさい」
深々と、袖山は頭を下げる。出血がぶり返しやしないかと、ちょっと心配になるくらいの勢いだった。
「美郷くんも、ホントにごめんね」
見えない蛇浦に対して、そして俺に対して、袖山は頭を下げ続けた。
それを見て、蛇浦は難しい顔で俯いてしまう。
「小春……」
袖山の行動は明確な犯罪行為であり、蛇浦を川底へと沈めた張本人でもある。謝られたからといって、許せるものではないかも知れない。そもそも、本来ならこの謝罪は本人に届くものじゃない。世界の不条理が、偶然が生み出した機会だ。許さないと、自己満足だと、ばっさりと切り捨てられてもおかしくはない。
「冬生」
呼ばれ、俺はチビの蛇浦を見下ろす。考えがまとまったのか、俺を見上げる蛇浦の顔に迷いはなかった。
「何をされたって、どうなったって、あたしは小春も忠秋も本気で嫌いにはなれない。死んでみて、それがよく分かったよ。許すってのが何なのか難しくて分からんけど、あたしはもう怒ってないよ。それだけは確か。あたしは、ただ見つけてほしかっただけ」
「あぁ」
俺は蛇浦の言葉を、なるべくそのまま袖山に伝えた。
言いながら、まるでその言葉は、そのまま俺の言葉であるように思えた。俺も、ただ蛇浦を見つけたかっただけだ。忠秋と袖山の行動はクソだが、驚くほど怒りらしい怒りは沸いてこない。もう戻れない時間への寂しさがあるだけだった。
「うん。うん……」
袖山は、ただ頷いて聞いていた。彼女の眼鏡に付着している乾いた血が、溶け始めていた。
「……な、夏海ちゃん、そこにいるの? 本当に、そう言ってる?」
息を切らし、草むらをかき分けて現れたのは、忠秋だった。
「砂越くん!?」
「ごめん、小春ちゃん。僕、通報したよ。自首した。もうすぐ警察が来る。小春ちゃんのことは、何も言ってない」
蛇浦夏海を殺した張本人。殺人と死体遺棄。法的にみても極悪人だ。怒り任せにぶん殴ったとしても、誰も俺を責めないだろう。
だけど、袖山の時と同じで、その顔を見ても怒りは沸いてこない。蛇浦もそれは同じであるらしく、至らぬ弟でも見るような目で見ていた。
感情というのは、なんて複雑で厄介なんだろう。
「冬生くん。夏海ちゃんは……、その、ホントに?」
「おう、言ってたぞ。それに、いまここにいる」
俺は、隣にいる蛇浦を指さした。
忠秋はいまにも泣き出しそうな顔で、誰もいない空間を見つめた。
「自首したのか……」
そう呟く蛇浦は蛇浦で、忠秋を緊張した面持ちで見つめていた。
「夏海ちゃん」
「はい」
聞こえちゃいないだろうが、蛇浦は律義に返事をしていた。
「僕は夏海ちゃんを殺してしまいました。大事な友達だったのに……。しかも、その罪から逃げ出した。本当に申し訳ありませんでした。僕は、しかるべき罰を受けます」
「さ、砂越くん。わたしにも責任が……!」
「違うよ、小春ちゃん。僕が悪いんだ。あの時、小春ちゃんの手を取ったのは僕自身だ。自分で考えることを放棄して、小春ちゃんの決断に乗っかった」
忠秋は、自分の両手を見つめる。蛇浦の首の感触が、いまも残っているかのようだった。
「後悔と罪悪感だけだった。小春ちゃんまで巻き込んで、残ったのはそれだけだった」
ごめんなさい、ごめんなさい、と頭を下げ続ける忠秋。袖山と同様、許してもらおうとは思っていないようだ。それでも、俺たちに向かって謝り続けた。
「よし、忠秋!」
「……う、うん!」
ひとまず一発殴っておこうかなと、俺が拳を握った時だった。それを予感して、忠秋が歯を食いしばった時だった。
忠秋の太ももに、こぶし大の石がぶち当たった。
「あぁあ゛っ……!」
堪らず、忠秋が地面に転げる。袖山は驚いて短い悲鳴を上げた。
蛇浦が石を投げつけたのだ。
「馬鹿! デカすぎだろ! 当たり所によっちゃ死ぬぞ!」
「やっべ……!」
「投球センスありすぎだって……。お前、幽霊なんだから気を付けろよ。二人が死んだら疑われるのは俺だぞ」
「セ、セーフだろ。こ、これで勘弁してやるぜ」
投げた本人も動揺していて、呆れてしまう。でも、その投球センスのおかげで俺もさっき助けられた。
「大丈夫か、忠秋? それで勘弁してやるぜ、だとよ」
俺の心配をよそに、忠秋は難なく立ち上がった。ぴょんぴょんと跳ねてさえ見せる。
「平気平気。これで勘弁してくれるなんて、優しすぎるくらいだよ。……ちょっとビックリしたけど」
「わたし、頭だったよ」
「え!? 何したの、小春ちゃん!? そういえば、めちゃくちゃ血出てるじゃん!」
「ま、まあ。美郷くんに、けっこうなことを、ですね……」
なんかさ、と蛇浦が呟いた。
「どうした? 俺も一発ぐらい殴っといた方がいいか?」
「あたしに聞くなよ。というか、やっぱ冬生も同じだったか」
「なんの話だ?」
「殺されて、殺されかけてさ。どう考えても、普通は許せないよな。キレるどころの話じゃないよ」
「そういうことか」
「うん。でも、いま、あたし笑顔になっちゃうんだ。何だろうな、これ。変だよな?」
蛇浦は、くしゃっとした顔で笑った。
「すげえ変だな。でも、分かるよ。俺もだ」
四人が揃うと空気感が、あの頃に戻る。ずっと変わらないと、信じて疑わなかった日々。無垢だったあの時が、少しだけ蘇ったような感覚がある。きっと、そのせいもあるんだろう。
「やっと終わったな、かくれんぼ」
蛇浦の優しい声。
「川底に隠れるとか、卑怯だろ。七年もかかったわ。あと、ずっと持ってるから慣れちまったよ、これ。お前の頭蓋骨」
苦笑しながら、隣の蛇浦を見た。
だが、そこにはもう、蛇浦の姿はなかった。
「……蛇浦?」
◆
言うなれば、俺たちは子どもだった。それが、この事件の根本だろう。
永遠だと思い込んでいた無垢な日々が、俺たちに凶暴な牙をむいてきたのだ。
結局、忠秋と袖山は連れだって自首した。いまも事情聴取の真っただ中だろう。
俺も色々と聞かれたが、ようやく解放された。さすがに蛇浦の幽霊の話はできないので、二人と口裏を合わせてなんとか誤魔化した。
それから、俺は改めて蛇浦の墓参りを済ませ、国道101号線を車で南下していた。
車の中は、途中で買った焼きイカの匂いで充満している。よく、四人で小遣いを出し合って買っていたことを思い出す。
俺は、あの公園にまたやって来た。
もう、かくれんぼは終わった。見つけてもらった蛇浦が、化けて出る理由もない。だから、未練がましくこんなところに来ても、会えるはずがなかった。
「……正気の沙汰じゃねえよな」
ついに気が狂ったかもな、と自嘲し、俺は公園に背を向けた。背後で、踏切りの警告音が聞こえる。
「あったかーい!」
狐につままれたような、とはまさにこれだろう。
夕暮れの海を背に、防波堤に立った蛇浦が気持ちよさそうに伸びをしていた。いつの間にか、夏服に変わっていた。
「川底、すげえ寒かった」
「お、お前……いたのか」
「ぎりぎりね」
自然の造形美たる巨岩や奇岩が立ち並ぶ、日本海の海岸線。押し寄せる波が、平らな岩の隙間から吹き上がる。その岩々を縫うように沈みゆく夕日が、蛇浦の陰をあっという間に濃くしていく。
「焼きイカ買ったぞ」
「食べたーい!」
「無理だろ。どうやって食うんだよ」
「食えるかも知れねえだろ。じゃあ、なんで買ったって言ったんだよ?」
「今度、墓に供えてやるよ」
「やったぜ!」
まったく、鬱陶しいったらない。
感情ってのは、厄介で鬱陶しい。胸が詰まって、咳き込んでしまいそうだった。
この蛇浦夏海は、行き止まりの過去だ。もうこれ以上進むことはない。それでも、ほんの身じろぎ一回分くらいは、立ち位置を変えられたと思う。そうだと嬉しい。
「永遠にこのままだったら良いのにな」
と、蛇浦がじつに馬鹿らしいことを言った。馬鹿らしくて、魅力的だった。
いつもクソ長い踏切りが、いつまでも開かなければいいのにと思ってしまう。ずっと警告音を鳴らしたままだっていい。我慢してやる。
「あり得ねえな。ガキの戯言だ。七年前なら同意してたかもしれんけどな」
「うわっ、大人みてえなこと言ってら。ウケる」
「ウケねえって。もう大人なんだよ。お前より、ちょっとだけな」
ウケる、と言った蛇浦だったが、笑っているようには見えなかった。
夕日は、どんどん下がっていく。あたりの陰も、あっという間に濃くなっていく。
オレンジ色の光を背に、雲も、岩も、防波堤も、蛇浦すらも、陰が重なって曖昧になっていく。すべての景色から、奥行きが消え去ったかのような錯覚を覚えた。
「終わっちゃったな、かくれんぼ」
「あぁ。大冒険だったな。死にかけたし」
川底の泥の味と、息苦しさ。そして、あの頭蓋骨は一生忘れられそうにない。
背後で、線路を鳴らす電車の音が聞こえてきた。
「蛇浦」
「なに?」
「お前、死んだんだな」
「うん。死んだね」
ぎりぎりの夕日が眩しくて、ちゃんと見えなかったが、蛇浦は俺をじっと見つめている。何かを察したかのようだった。
たった一両の電車が、ゴトゴトと踏切りを通り過ぎていった。
七年。
死んでいるのかも、生きているのかも分からない。行方不明のままだった蛇浦。同様に、俺の気持ちもまた、ずっと行方不明で宙ぶらりんになっていた。忘れないことと、囚われることは違う。俺は、ずっと蛇浦夏海に囚われていた。心の整理を拒み続けていた。
でも、死んだ本人に死亡確認が取れるという馬鹿げた状況のおかげで、ようやく俺は地に足が付けられる。
「蛇浦」
「うん」
警告音が止み、踏切りが開ける。
あの日、返してもらえなかった言葉。そして、未来に取り残されちまった俺自身を救うための言葉。
水平線の向こうに、夕日が消えた。紺色の帳を残して、消えていった。雲も、岩も、防波堤も、紺色に染まり始める。もうすぐ、夜になる。
「もういいかい?」
「もういいよ」
その日、蛇浦夏海は死んだ。
――おわり――