3.みつけた
あの日、終えることができなかった、かくれんぼ。その続きをしようと、蛇浦は言った。
公園を出て、踏切りを渡る。鳥居をくぐって、急こう配に張り付いた階段を上った。そこにあった小さな社を越え、道のない草むらを分けて進んだ。そして、今度は下らなければならなかった。せっかく上ったのにと溜息をついて、急斜面をほとんど落ちるようにして駆け下りた。
「おい……。どこまで行くんだよ、これ」
俺は、すっかり息があがってしまっていた。
「まーだだよー」
ふざけた調子の蛇浦の声が聞こえてきた。姿は見えないが、何やら視線を感じるので近くにはいるんだろう。声が耳元で聞こえるばっかりに、距離感や方向感覚が分からなくなる。まるで水中で会話しているようだった。
あの日、警察や地元の人間が捜索隊を作り、蛇浦を探した。だから、この辺りはもう探したはずだ。それでも蛇浦は見つからなかった。それなのに、いまさら俺が見つけられるだろうか。蛇浦が本物なら、たぶん見つけられるだろう。見つけてしまうことだろう。「あたしを見つけて」とは、つまり七年前に死んだ自分の遺体を見つけてくれということだ。
「まったく、正気の沙汰じゃねえな」
「え。幽霊の正気を疑ってんの?」
「自分のだよ!」
蛇浦の幽霊に促され、本人の遺体を探し回って山中に分け入るなんてどうかしてる。
再びの上り斜面を前に、休憩がてら大きい木の幹に背を預けた。木々の傘の下は、涼しくて快適だった。
ペットボトルのキャップをひねり、ぬるい水を喉に流し込む。一度引き返して、車からリュックサックと飲み物を取ってきて正解だった。七年越しの二次遭難なんて笑えない。
「想像よりは遠いと思うけど、日帰りできないレベルで遠いわけじゃないよ」
「そうじゃなきゃ困る。たかが、かくれんぼで一体どこまで行ってんだよ」
さすがに入山規制のある地域まで行くことはないだろうが、すでに“かくれんぼ”で来るような場所ではなくなっている。
「冬生がひとり寂しく待ちぼうけしてたぐらいの時間で、行って戻ってこられる」
「……おい。どういう意味だ、そりゃ。行って戻ってこられるって、なんだよ」
蛇浦は戻ってこなかった。戻ってきたのは、袖山と忠秋だ。
嫌な予感が胸の中で膨らんでいく。蛇浦以外の戻ってきた二人は、確かに少し汚れていた。だからなんだ。それはガチで隠れてたからではないのか。考えが嫌な方向へ進んでいることに気付いて、俺は焦り始める。
「お前が調子こいて奥まで行って、事故ったんじゃないのか?」
そう問いかけてみたが、蛇浦からの返答はない。
言いよどんでいるのかと思い、しばらく待ってみるも、やはり返答はない。
「蛇浦?」
今度は呼びかけてみるが、野鳥の鳴き声しか聞こえない。
突然のことに、俺は焦燥感に苛まれた。全身の毛が逆立つような心地だった。
「おい! 蛇浦!?」
声が裏返るのも気にせず、大声を上げる。
「ふざけんな! いまさら、いなくなるんじゃねえぞ! おい、蛇浦!」
いよいよ気が狂ってしまうんじゃないかと思った時。
俺が背を預けていた巨木の枝に、ふわっと蛇浦が腰かけた。
「いるいる! まだいるから、そんなに焦るなよ」
「お前な……」
どっと安堵が押し寄せる。そして同時に、いずれ来るその時を思い、胸が張り裂けそうだった。
「ごめんてー。あたしも緊張してんだよ」
「幽霊って緊張とかすんのかよ。頭おかしくなりそうだ」
あれから七年。俺の脳裏には、ずっと蛇浦がいた。成長することのない、過去の蛇浦だ。
生きているのか、死んでいるのかも判然としなかった。ただただ、蛇浦がいないという状況だけがあった。それが、どれほど苦しかったか。
失踪宣告をした蛇浦の両親に対し、最初は怒りを覚えた。勝手に殺すんじゃねえと思った。でも、すぐに理解できた。できてしまった。もう終わりにしてしまいたかったんだ。もういいよと、これ以上は囚われずに行こうと、踏ん切りを付けたかったんだろう。
「もうちょっとだぞ。早く歩けー、冬生」
俺だって、踏ん切りをつけるために帰ってきた。空っぽの冷たい石にさえ、手を合わせた。それなのに、蛇浦のやつは化けて出てきやがった。
まったく、いい気なもんだ。
「まったく、いい気なもんだ。実際に歩いてる身にもなれ。……俺、こんな体力なかったっけなあ」
「オッサンくせえ」
「うっせえな」
本当に、複雑な気持ちだった。
幽霊とか意味が分からないが、本人に“死んだ”と告げられ、宙に浮いていた気持ちが落ちた。収まるところに収まったと感じた。
でも、当時と変わらず、こうして笑ったり怒ったりしている蛇浦を見ていると、また会えて嬉しいという気持ち、また別れなくてはいけないという寂しさ、もう死んでいるのだという悲しさが縒り合わさって、訳の分からない感情になっていく。
ただ、そんな複雑な感情を抱えながらも、ひとつだけ確かなことがある。
「ひとまず、お前が死んだんだってこと、はっきりして良かったよ」
「……うん」
蛇浦もまた、複雑そうだった。短い返事の中に、さまざまな葛藤や感情が渦巻いているように思えた。
顔は、見ないようにした。いまの蛇浦の表情を見てしまったら、俺はまた泣いてしまう気がしたからだ。
歩みを再開してからは、無言だった。
俺も蛇浦も、なんとなく言葉を失った。俺が声を出す余裕がなかったのもあるだろう。アップダウンを繰り返しながらの道なき道は、運動不足の二十五歳には地獄だった。高校生の時ならいざ知らず、いまの俺には堪える。
「もう着くぞ」
歩くことと呼吸することに集中していた俺は、蛇浦の声で顔を上げる。
「おぉ……」
感嘆の声がもれた。
そこには澄んだ水を湛えた、小さな池があった。岸に生えている木々の根元から、こんこんと水が湧き出ていた。遠く離れた虫の音と細かく流れる水の音が、火照った体に涼を運んでくる。
「こんなとこ、あったんだな」
「うん。あたしも知らんかった」
距離にしたら、公園からさほど遠くはないだろう。ただ、道がないことと、激しいアップダウンが相まって、気軽に来ようという気にはなれない。
「こっち」
「え? ここじゃねえの?」
てっきり、この小さな池が目的地だと思っていたが、違うらしい。蛇浦は別の方向を指さす。
ふわふわと身軽に歩いて行く蛇浦について行くと、大きめの川があった。雨のせいなのか、生活圏に近いからなのか、そもそも川はこんなものなのか。それは分からないが、さっきの池に比べるとなかなかに濁っていた。暗緑色の水がゆったりと流れている。
「ここかあ……」
「だね」
ひどく緊張してきた。この川底に蛇浦の遺体が沈んでいるのかと思うと、知らず知らずに体が強張っていた。しかも、幽霊からの緊張感も伝わってきて、余計にひどい。こいつ以外を知らないが、一般的な幽霊のイメージと違って妙に腹が立つ。
「たぶん、体の全部は残ってない」
ぼそりと、蛇浦は呟いた。
川底でバラバラになって沈んでいる白骨を想像して、体に寒気が走る。
「きついこと言うなよ」
「若ぇ女の体にきついとか言うな、殺すぞ」
「うるせえ。殺すとかいうな。お前、幽霊だろ? 言葉には気を付けろよ。呪われでもしたらどうすんだよ」
「は? 言霊とか信じちゃうタイプですか? 毎朝の占い気にしちゃうタイプですかー? OLかよ。キモイんだよ、ぼけ!」
「袖山に謝れよ。あいつ毎朝の占い気にしてるぞ、絶対。つーか、お前の存在がもうアレだろうが! ぼけ!」
「小春はいいんだよ! スピリチュアルおじさん、きっつー。あー、キモイ」
「若ぇ女にキモイって言われるオッサンがどんだけ傷つくか分かってんのか、ぼけこら!」
幽霊に殺すぞと言われた俺は、いよいよ死ぬんじゃなかろうか。それに、二十五歳はまだオッサンではないはずだ。
「ったく……。どっと疲れたじゃねえか」
「あはははっ」
こいつとのやり合いは体力を消耗する。あの頃は、よくも毎日やり合ってたもんだ。
溜息をつく俺をよそに、蛇浦はからからと笑い転げていた。
「笑ってんじゃねえよ。こっちは緊張してやばいんだよ。探す鬼側が怖ぇってなんだよ。しかも、まあまあ濁った川に入らなきゃいけないんだろ」
「あたしは、その濁った川底にずっといるよ」
困ったような蛇浦の笑顔を見て、俺は後悔した。
自分が吐いた言葉をなかったことにしたかった。蛇浦は、ずっとひとりで川底に沈んでいる。誰もが諦めて、探すことすらしなくなって、七年の年月が経った。死人の感情云々は置いといて、山の中の川底でひっそりと死んでいる様子は、ひどく寂しくて怖かった。
「もういいよ。安心しろ。俺が見つけてやる」
覚悟は決まった。
濁った水や藻が気持ち悪いとか、遺体を見たり触れたりするのが怖いとか、そんなものはもう気にするな。
「あ、冬生」
ざぶん、と俺は川に足を突っ込んだ。
「あ、あたしの死体――。き、きもいかもよ?」
「もういいよ。大丈夫」
「たぶん、骨だぞ。ホントに大丈夫か?」
「もういいって」
「ここまで連れて来ておいて、なんだけど、見つけた後どうすんの? 警察に捕まるかもよ?」
「もういい――い、いや、それはやべえな! 幽霊に教えてもらったとか言えねえぞ!」
「ど、どうすんの!?」
「あー……。まあ、どうにかするよ。気にすんな、ぼけ」
「気にするだろ。気にしろよ、ぼけ」
蛇浦の逡巡を払いのけるように、ざぶざぶと川へ入っていく。真ん中あたりまで来ると、急激に深くなった。すでに水面は胸元まで来ている。
「その辺、けっこう深いぞ! 気を付けろ!」
「言うの遅ぇって!」
幸い、流れが遅いので溺れたりすることはなさそうだった。
「蛇浦! どの辺!?」
「聞くの遅ぇって!」
まったくその通りだった。でも、勢いに任せて踏み出さないと、いつまでも躊躇ってしまいそうだったんだ。
「もうちょっと手前!」
「お前の声うるせえ! 耳元で聞こえるから張らなくてもいいぞ!」
もっと早く指摘すればよかった。蛇浦の声は低くて聞きやすい方だが、さすがに耳がきんきんと痛かった。
「そこ。流れが滞留してるとこ、わかる?」
「急にねっとりした低音ボイスやめろ! キモくて鳥肌立つだろ」
「うっせえ。集中しろ」
悪態で気を紛らわせながら、蛇浦が示す場所へ平泳ぎで近付いて行く。岸に近づいているため、水深は浅くなってきていた。
「そうそう。その辺」
大きめの岩が重なっていて、細かい流木が溜まっている場所だった。
もともと流れが遅い川の中でも、そこはさらにゆったりとしていて、ほとんど流れがないと言ってもいいくらいだった。この場所に流れ着いたのであれば、蛇浦の遺体も流木に混ざっていてもおかしくはない。いま軽く踏みしめている石と思われる物も、じつは蛇浦の一部だったりするのかも知れない。
「おい。いま頭踏んだな? 慎重な行動を求めるぞ」
「マジじゃねえかよ……」
川底の石を蹴ったかと思ったが、どうやら蛇浦が言うには自分の頭らしい。
つまり、頭蓋骨だ。ぶるっと身が震える。
「頼む、冬生」
「任せろ」
体が震えるのは、思ったよりも冷たい水のせいだと決めつける。決心が揺らぐ前に、俺は大きく息を吸い込んだ。そして、体ごと川底へ手を伸ばす。
結局、頭まですっぽり水に浸かってしまった。大体の見当はつけていたのだが、俺の手はそれらしいものになかなか触れることがない。水中で目を開けるのは苦手だったが、ここまできたらそうも言っていられない。俺は薄っすらと目を開ける。
あった。
思ったよりもすぐ視界に入ったそれに驚いて、俺は少し空気を吐き出してしまった。
濁った視界の中に、明らかにまわりの石とは違う質感の白い物体がある。小石や泥らしきものに半分埋もれる形で、少しだけ顔をのぞかせていた。
ぐっと近付いてみると、それは、まさに顔であると分かった。思ったよりも小さい頭に、なんだか目頭が一瞬熱くなる。
チビ助が。いま、そこから出してやるからな。
七年の孤独から解放してやる。
かくれんぼは、もう終わりだ。
手を伸ばし、蛇浦の頭蓋骨と思しき物体を掴む。そして、川底の泥を舞い上げ、蛇浦を引き上げた瞬間だった――。
「ごぼっ……!」
驚きのあまり、肺の中の空気がすべて外に出る。
舞い上がった泥で、何が何だか分からない。何も見えなくなった。
「冬生!」
蛇浦の声が聞こえた。視界は真っ暗だった。苦しくて開いた口は、ざらざらとしたもので満たされていく。
俺は、何かに強く押さえ付けられていた。
「くそ! この!」
パニックだった。
息が吸えない。というより、何か別のものが入ってくる。胸が苦しい。焦る。鼻にも、ざらざらが入ってくる。焦る。燃えるような焦り。
暴れまくるが、どうにもならない。力が入らない。
死ぬ。
ただ、死ぬ、と思った。全身から力が抜けていく。
「ばかやろうが!」
俺は、もう死ぬんだと思った。だから、押さえ付ける力が消えたときは驚いた。助かるとは思いもよらなかった。蛇浦の怒声が聞こえて、俺は伸しかかる力から解放された。
勢いよく水面から顔を出し、げえげえと水と泥を吐き出した。むせ返るほどの川の匂いが腹の底から噴出して、それがさらに嘔吐を促進させる。
「大丈夫か、冬生!」
吐き終えると同時に、貪るように空気を吸い込んだ。喉が痛くなるほど、ごうごうと勢いよく呼吸する。蛇浦の声に反応する余裕はなかった。
荒い呼吸のまま、俺はよろよろと岸へ這い上がる。
「見つけないで欲しかったな」
その声の主に、俺の視線が吸い込まれた。
蛇浦以外にも誰かがいた。俺と同じで、ずぶ濡れだった。呼吸は荒く、へたり込んで動かない。白い顔にショートカットが張り付き、眼鏡はずり落ちていた。押さえている頭から、いく筋かの血が流れている。
「袖山……」
絞りだすようにして、そいつの名前を呼んだ。
袖山は、俺の指にかろうじて引っかかっている頭蓋骨を見つめていた。
「もういいよって、まだ言ってなかったよね? どうして探しちゃったの? ルール違反だよ、美郷くん」
俺を川底に押し付け、殺そうとしていたのは袖山小春だった。
そう、殺そうとしたんだ。確かな殺意を感じた。
七年ぶりだったけど、変わらず接してくれた大切な友人。大人になって、一緒に酒を飲んで笑い合った仲間。そんな彼女が、俺を殺そうとした。それは、つまり――。
「袖山。どうして――」
「どうして、ここが分かったの。美郷くん?」
主導権は渡さない。
と、そういう有無を言わせぬ迫力が袖山にはあった。まるで、蛇浦と二人で悪さをやらかした時みたいだった。
真面目で、優しくて、頼りになった。そんな袖山が静かに怒っている時は、いつも俺たちが悪かった。危うく、「ごめん」と口からこぼれそうになる。
「それ、なんだか分かってるの?」
袖山は、無言で突っ立っている悪ガキの右手を指した。
俺の右手には、頭蓋骨。蛇浦夏海の遺体。七年越しの、かくれんぼの成果。
「これは、蛇浦の……」
そう言って、そばにいる険しい顔の蛇浦を見る。大きめの石を握りしめていた。袖山の頭部の傷はそういうことだったのかと、理解が及んだ。
「また? またそれ? いい加減やめなよ。誰もいないでしょ。それとも本当に頭、おかしくなっちゃった?」
袖山の苛立ちを含んだ声。彼女の視線は、俺と蛇浦の間を彷徨っていた。どうやら、蛇浦が持っている石は見えないらしい。
「さっき、どうしてって、聞いたよな?」
俺は、ゆっくりと蛇浦の頭蓋骨を掲げて見せる。印籠じゃねえぞ、という蛇浦の声は無視した。
「信じられねえとは思うが、お前の想像通りだよ、袖山。これは、蛇浦が教えてくれた」
ふふ、と呆れたように袖山は笑った。
まあ俺自身、何がどうなってんのか分からない。蛇浦の幽霊とか言われても、失笑ものだろう。だから、袖山に馬鹿なガキを見るような目で見られるのも、納得ではある。
「ほんっとに……」
袖山はズレた眼鏡を直し、腹立たしそうな所作で立ち上がる。
「ほんっとに、いい加減にしてほしい。馬鹿じゃないの!? 痛々しくて見てられない!!」
ヒステリックに袖山は叫んだ。そんな彼女を見たのは、初めてだったかも知れない。
「蛇浦、蛇浦蛇浦! どいつもこいつも、蛇浦蛇浦、夏海夏海って、うるさいんだよ! もうあの娘は死んだの!」
「お前もうるせえよ、小春。めっちゃキレるじゃん。確かにあたしは死んでるけども」
蛇浦のボヤキも分かるが、袖山が言うことも分からないではない。
友達が行方不明になって、死んだことになって。そして、数年ぶりに現れた友人が、「いる」だなんて墓参りで暴れ出す。そりゃあ、見てられない。痛々しくて、キレたくもなるだろう。
だけど。
「そりゃあ、こっちの台詞でもある。痛々しくて見てらんねえよ、袖山。こっそり俺のあとつけてきて……。殺してでも隠したかったんだろ?」
「うるさいなあ」
ずいっと、袖山が前に出てくる。
蒼白の顔に髪の毛と、血がへばりついていた。ある意味で蛇浦よりも、化けて出てきた感がある。正直、かなり怖い。でも、武器でも持っていない限り、物理的に俺が負けることはないだろう。不意打ちに失敗した時点で、もう袖山に俺を殺すことはできない。
「なあ、袖山。お前がやったんだろ?」
そうでなければ、この状況に説明がつかない。
あの日、俺が“もういいよ”をひたすら待っている間、袖山は蛇浦に手をかけた。
「どうしてだ?」
今度は、こっちがそう聞く番だった。