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2.まだだよ



「冬生くん。怖すぎだよ。漏らすかと思ったよ、僕は」

「トイレはあっちだからね、砂越くん。それにしても美郷くん、演技うますぎじゃない?」


 地元の居酒屋。

 学生の頃には来なかった場所で、俺たちは飲み慣れてきた酒を楽しんでいた。忠秋は梅酒で、袖山は日本酒。俺はビールだった。

 ここに蛇浦がいたら、どんな飲み方をしていたんだろうと考えてしまう。まったくの下戸か、あるいはザルか。なんとなく、両極端のどちらかなんじゃないかと思えた。


「すまん。迫真すぎたな」


 結局、俺が二人を驚かせようとした、ということに落ち着こうとしていた。花瓶が砕け散ったことに関しては、誰も触れなかった。黙って片づけて、なかったことにしようとしている。たぶん、あの現象を説明できる、まともなロジックを誰も持ち合わせていなかったからだ。

 酒と当てで、脳をくらくらにしてしまおう。たぶん、袖山と忠秋も似たようなことを思っているだろう。


 墓所で見た蛇浦は夢だった。酔いもせずに見た白昼夢だ。

 そうでなければ、おかしい。

 袖山も忠秋も変わらない。変わらないけど、七年の年月は感じられる。詰襟やセーラー服ではなく、二人ともスーツ姿だ。そこは俺だって同じで、友人の墓参りに喪服を着てくるくらいの気は回せるようになった。多少なりとも、大人になった。


 だけど、昼に見た蛇浦は変わっていなかった。何も変わっていなかった。あの頃のままだった。懐かしい制服に身を包み、懐かしい笑顔を見せてくれた。メイクを決めた今の袖山とは違い、飾り気のない幼い顔だった。変わっていたといえば、夏服か冬服かくらいのものだ。最後に見た彼女は白い夏服だったが、昼に見た彼女は黒い冬服だった。

 夢でなければ、おかしい。俺の頭がおかしい。


「美郷くん、眠くなってきたでしょ?」


 袖山の声に、まあな、と返した。

 薄暗い居酒屋の個室。久しぶりに会った気心の知れた友人たち。心地よい二人の話声。うまい酒と料理。蛇浦の墓参りという緊張、二人と居酒屋にいることでの緩和。まぶたが重くなってくるのも必然ってもんだ。


「         」


 酔った頭が思い出す。

 蛇浦の桜色の唇が、何かを伝えようと動いていた。あれは、なんと言っていたんだろう。


「そろそろお開きにしようか?」


 そう言った忠秋の声で我に返る。そして、視界の端に入ったそれ(・・)に、悲鳴を上げそうになった。


 居酒屋の個室。掘り炬燵。

 俺の左隣には袖山。俺の目の前には忠秋。忠秋の隣には、誰も座っていない座布団がある。はずだったが、いまは座布団を確かに踏みしめる足があった。校章の入った紺色のソックスだった。


「お会計お願いします」


 袖山が店員を捕まえて会計を促している。位置的に、店員も含めて全員が見えていないとおかしい。でも、誰も何も言わない。まるで、そこには誰もいないかのようだった。事実、彼らにとっては誰もいないんだろう。どうして俺だけなんだ。

 怖気に背筋が凍り、ジョッキを持つ手が硬直する。視線を上げられない。もしそこにいるのが蛇浦で、顔を上げた瞬間に目が合ってしまったら。俺は、大声を上げてしまうかも知れない。なにより、そこに蛇浦がいることを認められない。昼間は動転してたのか普通に話しかけてしまったが、こんな馬鹿なことがあってたまるか。認められない。自分の狂気を肯定するようなもんだ。


 なんとなく冷房が強くなった気がする店内は、酔客たちの声で変わらずに騒がしい。その喧騒を突き破り、無言の圧力が俺にのしかかってくる。


「         」


 まただ。またそれか。なにも聞こえない。

 身じろぎする足元で、彼女が苛立ちを感じているのが伝わってくる。声は聞こえないのに、俺に向かって話しているということは感じ取れる。周囲の喧騒をものともせず、俺の耳に無言が届く。ひどく気持ちの悪い感覚で、胃の中が戻りそうになる。

 あぁ、調子に乗って飲みすぎた。きっと、そのせいだ。そのせいで、こんな悪夢を見せられている。


「         」


 すうっと、恨めしそうな顔が俺をのぞき込んでくる。持っていたジョッキが音を立てた。

 やはり蛇浦だった。いっこうに顔を上げない俺に業を煮やしたのか、彼女の方がしゃがんで視線を合わせてきた。傾いだ蛇浦の長い髪が、そろそろと掘り炬燵に落ちていく。


「ほら、やっぱり見えてる。無視するなよ」


 蛇浦の表情は、そう語っているようだった。


 これは夢だ。そうしよう。

 俺は酔っぱらっている。半分寝ている。だから、変な夢を見たっていいじゃないか。その夢を無視したっていいじゃないか。


 袖山と忠秋には、どうにか動揺を感づかれないようにした。さすがに、頭がいかれていると思われてしまう。

 蛇浦は、また何かを話し始めた。彼女からは寂しさと悲しさ、そして郷愁が漂っている。そんな彼女を見ていると、胸が真空になって潰れてしまいそうな心地になる。郷愁を感じているのは俺の方だったか。


 夢だとしても、つい思ってしまう。

 目の前の蛇浦が、何がどう間違ったか知らないが、幽霊だったとしたら。それは、蛇浦夏海の死の証明だ。


「ほら、美郷くん。行くよ」

「冬生くん、そろそろ起きなよー」


 袖山と忠秋の声が聞こえる。何事もない暢気な声だ。懐かしい話を酒の肴に、気持ちよく酔っぱらっている声だ。


 なんでだ。

 なんで、お前たちにはこの蛇浦が見えないんだ。なんで、俺にだけ見えるんだ。俺にだけ何かを話すんだ。

 やめてくれ。いまさら何だっていうんだ。死を証明しないでくれ。わざわざそんなことをされなくても、もう分かってるんだよ。ちょっとだけ駄々をこねてみてるだけなんだ。

 あぁ、目をつむってしまおう。追い出すんだ。現実から蛇浦夏海という非現実を締め出してしまおう。


「あれ? えー、もしかして美郷くん、ちゃんと寝ちゃってる!? 砂越くん、担げたりする?」

「任して。冬生くんくらいなら楽勝だよ」

「あの公園に来い」

「ホントかなあ。無理しないでね。手伝うからね。とりあえず、お会計はわたしがしておくから」

「おっけーおっけー」


 え? いま、何かはっきりと声が聞こえたような。


「お。起きたか。帰るよー、冬生くん」


 俺は俯いていた頭をがばっと起こした。

 掘り炬燵に座り、帰り支度をする俺たち。それを見下ろすように、蛇浦が立っていた。空いた皿やグラスなどお構いなしに、テーブルの上に仁王立ちしていた。照明を背にしているからか、表情が暗くて見えなかった。ただならぬ気配だけが伝わってくる。


「あの公園に来い」


 はっきりと、蛇浦の声が聞こえた。

 間違いなく彼女の声だ。低く、ともすれば少年と勘違いしてしまいそうな声。アルコールで火照った体と、くらくらになった脳みそに染み込むように聞こえてきた。


「……うん」


 動揺する頭で、ようやくそれだけを口にした。

 夢だと、非現実だと、否定していながら俺は蛇浦に返事をしてしまった。


「うん、じゃないよ。自分で立てる? 忘れ物ない?」

「あぁ、悪い。……いや、お前に言ったんじゃねえよ」

「んん?」


 俺の肩を担ごうとしていた忠秋が、怪訝な顔をした。

 テーブルの上の蛇浦は、ゆっくりと皿に手を伸ばす。そして、ものすごい勢いで鮭の皮が飛んできた。


「忠秋」


 自分でも驚くほど低くドスの利いた声が出た。


「な、なんですか?」

「パリパリの鮭の皮はうめえから、今度から食え」

「わかっ……、分かった」


 香ばしい匂いが顔面を覆う。下ろしたての白いシャツに鮭の油がべっとりと付いていて、キレそうだった。


「なにしてんの……?」


 会計を済ませたらしい袖山の呆れた声が聞こえた。その声に振り向くと、視線移動の隙を突くかのように蛇浦はその場から消えていた。


「パリパリの鮭の皮は美味しいらしいよ」

「あ! そうだよ! 砂越くんが食べると思って手を付けなかったのに」


 帰り道、袖山と忠秋は鮭の皮で揉めた。

 たびたび二人が俺に話を振ってきたが、ただ相槌を打つことしかできなかった。鮭の皮どころじゃなかった。いや、ひとりでに鮭の皮が飛んできたことを問題にしないことも気になったが、それよりも公園だ。


 明日、俺はあの公園にいかなければならない。

 蛇浦夏海を最後に見た場所。蛇浦夏海が消息を絶った場所。七年間、一度も訪れることのなかった場所だ。




 ◆




 親父に車を借りて、俺は西海岸線沿いに国道101号を南下していた。

 西海岸で101号線といえば、アメリカを思い浮かべる人も多いだろう。でも、ここはサンタモニカのビーチでもないし、ロサンゼルスみたいな都市でもない。もちろん、「HOLLYWOOD」のデカい文字も見えない。ここは、ただのクソ田舎だ。

 右を見れば、天日干しされたイカと日本海。左を見れば、標高千六百メートルを超える山の麓から伸びる広大な山地。国道と並走するように線路が走り、リゾート列車が俺の車を追い越して行く。

 このあたりに住んでいる人間からすれば、西海岸の国道101号線といえば、こんな景色だ。


 信号が赤に変わり、俺は車を止める。

 前の車に乗った家族連れが目に入り、俺はそれをぼんやりと見つめた。浮き輪やシュノーケルを振り回す子どもたち。バーベキューセットらしきものも見えた。短い夏を満喫しようと張り切っているんだろう。


「俺たちも混ぜてくれよ」


 突然、そんな言葉が口からもれて、俺は驚いた。

 一度だけ、俺と袖山の家族全員と、忠秋、蛇浦でキャンプに出かけたことがあった。色んな事があって、細かいことは忘れてしまっている。でも、とにかく楽しかったことだけは憶えている。それが、ふと頭を過ってしまったんだろう。

 ガキの頃は暑さなんて気にならなくて、虫だろうが何だろうがおかまいなしに手に取った。目に映るすべてのものが遊び道具に見えた。その場所がどれほど遠くても、自転車で辿りつけると思い込んでいた。世界は狭くて輝いていた。


「それ、ずっとは続かねえぞ」


 走り出した前の車。後部座席で目を輝かせている子どもたちに、俺はひでえ言葉を投げつけた。

 体がデカくなって、世界が広くなって、思ったよりも輝いていないことに気付くんだ。


 山地から流れ出た川のひとつが、海と合流する場所。国道と線路に挟まれた小さな公園。やがて、蛇浦が消えたその場所が見えてきた。


 小さな駐車場に車を停める。外に出ると、容赦ない日差しと潮風が体を打つ。聞こえてくるのは、蝉とウミネコの合唱、そして、波の音。近くに大きな集落もなく、泳げる浜もない。そんな場所に人は集まらない。夏の音だけがうるさくて、いま思えば少し不気味な場所だった。


 件の公園は、まるで時が止まったかのように、ぽつねんと佇んでいた。当時から訪れるものは少なく、遊具が暇そうな顔で錆びついていた。

 よくもまあ、こんなところまで自転車や徒歩で来ていたものだと呆れかえる。何もなかった。たぶん、かえってそれが良かったんだろう。俺たち四人以外には誰も来ない場所。俺たちだけの場所だった。


 どろどろと排気音を上げ、ライダースを着込んだ爺様たちが車体の低いバイクで通り過ぎていく。公園には目もくれない。それを見送ってから、俺は国道を越えて公園に足を踏み入れた。

 その場所には銀杏の木があった。遊具の他に見るものといえば、その木だけだろう。かなり大きくて、いま見ても迫力がある。なんだかグロテスクで、少し苦手だった覚えがある。

 鬼役だった俺は、この銀杏の木に腕と顔を押し付け、三人の“もういいよ”を待っていた。


「なんでここに呼んだ? なんで俺だけなんだ?」


 小さく呟いてみても、誰も答えない。それはそうだろう。俺以外に、この周辺に人の気配はない。

 やはり、あれは夢や幻覚の類だったんだろうか。

 行方不明になっていた蛇浦夏海が、失踪宣告により死亡扱いになった。そして、彼女の墓参りのため、七年ぶりに故郷へ帰った。そこで、当時の友人たちにも七年ぶりに再会した。酒もなしに酔っぱらうには、十分じゃないか。

 俺がいて、袖山と忠秋がいたら、そこには蛇浦がいる。それは、小学生時分からずっと当たり前だった。あの日まで、その日常が変わるだなんて思いもしなかった。だから、俺の脳みそが蛇浦の幻覚を生み出したんだ。俺たちはずっと四人なんだ、という洗脳にも似た思い込みが生み出した幻だ。


「もういいかい?」


 ふざけ半分に、呟いてみた。

 蛇浦夏海は死んだ。俺は二十五歳になった。あの頃には、もう戻れない。七年分の気疲れを吐き出すかのように、俺は溜息をついた。


 きぃ。

 と、音がした。錆びついた鉄が久しぶりに動いた音。

 苦笑いが凍り付く。背後にあるはずのブランコが、きぃきぃ、と音を立てている。


 くそ。

 と、内心で吐き捨てる。呼吸が乱れていくのが分かった。暑さとは違う汗が噴き出る。潮風で錆びついてしまったかのように、関節の動きが鈍い。

 振り向いてはいけない。

 直感が告げていた。映画なんかを見ていて、いつも思うことがある。こういう状況下で、なにを暢気に突っ立っているのか。なにを暢気に振り返っているのか。何かを確かめる間もなく、飛び退いて、走って距離を取るべきだ。主人公たちは馬鹿なんだな、とさえ思った。

 そう、馬鹿になっちまうんだ。頭や体が恐怖で支配され、思うように動かなくなるんだ。まるで操られているみたいに、ゆっくりと振り返ってしまう。

 振り向くな。逃げろ。そう言っている冷静な自分を置き去りにして、俺は背後を振り返ってしまった。


 強く、風が吹いた。

 海からの強風は、公園をかすめ、唸るように山へ登っていった。

 きぃ。

 と、背後でブランコが鳴る。その少女の背後で、ブランコが揺れている。


 死を孕んだ真っ黒な瞳が、俺を凝視していた。

 真夏の炎天下には似つかわしくない、黒い冬服。同じく真っ黒な髪の毛が、蒼白の顔面を半分ほど覆っている。まるでモノクロ写真かと思うほど、色味がない。赤いスカーフだけが、燃えるように揺らめいていた。


「へ、び……うら」


 思わず、後ずさる。銀杏の木が、どっしりと俺の背後を奪っていた。

 

「         」

「うわっ!」


 聞こえていないのに、耳に音圧だけを感じた。その感覚の気持ち悪さに、俺は両耳を塞いだ。

 俺の態度を見てか、すっと蛇浦の目が据わる。体感温度が急激に下がった気がした。銀杏の木陰に入ったせいだと思いたい。

 じりっ、と蛇浦が木陰に足を踏み入れる。


「待て待て!」


 俺の制止も聞かず、蛇浦は眉間にしわを寄せて近付いてくる。


「来るなって!」


 俺は人目もはばからず大声を上げた。もし、この蛇浦が本当に幽霊の類なら、傍目から見れば俺は一人で大騒ぎしていることになる。誰かに目撃でもされたら、通報は免れないのではないか。


「         」


 蛇浦が何事かを話した。しかし、やはり声は音にならない。言葉にならない。少しノイズのような音が聞こえただけだった。


「やめろ! 聞こえねえよ!」


 イライラとくすぶっていた火薬が炸裂したかのように、蛇浦が俺との距離を一気に詰める。どん、と背後の銀杏の幹に蹴りを入れ、俺を見上げた。黒く、深く、死の気配が渦巻く瞳が、恨めしそうに睨んでくる。

 膝から力が抜けそうになるが、銀杏の木にしがみ付くようにして体勢を維持した。


「      !!」


 突然、蛇浦が跳ねるようにして俺から離れ、地面に転がる。


「な、なんだ。どうした!?」


 形にならぬ声を上げて、蛇浦は自分の体を払っていた。

 俺と蛇浦の間。夏の日差しで乾いた土の上に、一匹の毛虫がのたくっていた。


「なんだこいつ」


 毛虫にビビる幽霊を見て、だんだんと恐怖が薄れてきた。怒りさえ湧いてくる。

 ぜえぜえと息も荒く蛇浦は立ち上がり、口を開く。


「だから何も聞こえね――」

「――あ――あ゛――」


 今度は、気味の悪い声が、ぶつ切りに聞こえてくる。音の伝達の仕組みなど無視して、耳元で聞こえる声。思わず、虫を払うように自分の耳を叩いた。

 蛇浦は、明後日の方を向きながら、ぱっくりと口を開けて突っ立っていた。その様は、あまりにも不気味だった。


「あ゛ぁあ――あ゛――」


 ザラザラとしたノイズ混じりの声が、間近に聞こえる。俺は耳を押さえ、歯を食いしばる。


「ふゆ――き。おい。ふ――き」


 やがて、ラジオの波長が合うみたいに、蛇浦の声が徐々に形を成していく。そして――。


「ばーか、ざーこ、ぼーけ」


 ――ついに、はっきりと聞こえた。キレそうだった。


「あのさー、ビビりすぎだろ。傷つくんだけど」


 俺の反応を見て、声が届いたと理解したんだろう。安堵の表情を浮かべながらも、悪態をつく蛇浦。

 懐かしい声だった。懐かしい物言いだった。七年前、唐突に失われた大切な友人への郷愁が、胸をいっぱいにする。


「な、なんなんだよ。知らねえよ。化けて出てんじゃねえよ。普通に怖すぎだろ……」

「え。なに、泣いてんの!?」


 蛇浦は眉毛を上げて驚いていた。俺だって、驚いた。俺の声は震えていて、ぼたぼたと涙が落ちていた。


「いやいや、ごめんて。なかなか聞き取ってもらえなくて、ちょっと頭にきただけ。泣かすつもりなかったって」

「そうじゃねえよ」


 制服に身を包んだ蛇浦は、幼く見えた。たぶん、俺が大人になったからだろう。その感覚は、蛇浦と俺との間には、埋まることのない絶望的な溝があることを痛感させる。この蛇浦夏海は、過去でしかない。もうそれ以上進むことのない、行き止まりの過去だ。


「冬生。たぶん、久しぶりだよな。なんか、大人みたいでウケる」

「ウケねえよ。もう大人なんだよ」


 袖で涙を拭いながら言う台詞では、なかったかも知れない。


「……そっか。冬生はもう大人か」

「それより、お前……どうなってんだ?」

「んー……」


 自分でもよく分かんないんだけど、と蛇浦は自分の全身を眺める。


「あたし、幽霊ってやつだと思う」

「つまり……、死んじまったのか?」


 蛇浦は、くしゃっとした笑顔になる。ちょっと困っているようにも見える笑顔。


「そう。死んじまった」

「……そっか。蛇浦はもう死んだか」


 驚くほど、その事実は収まりが良かった。蛇浦夏海は、もう死んだ。とても腑に落ちてしまった。ずっと覚悟していたことだった。だから、久しぶりに声を聞いた時よりも、涙は出なかった。


「冬生以外には、あたしは見えてないみたいだから気を付けないと変質者だからな」

「それはそうだな。というか、俺の頭が狂ってるっていう可能性は?」

「ある」

「あるのか……」


 思わず、ぐったりと項垂れる。

 くくっ、と蛇浦は悪戯っ子みたいに笑った。


「でもまあ、可能性は低いんじゃないかな。あたしには、ちゃんと意識あるし。変な話だけど」

「そうか。いまは素面だし、幻覚っていうには現実感がありすぎる。いや、幻覚なんていままで見たことねえから、比べられないんだけども」

「しらふ、ってなんだ?」

「酔っぱらってねえってこと」


 突然、蛇浦が俺の首元を捻り上げた。チビだから、めちゃくちゃ背伸びしている。


「急になんだよ。いてえな。幽霊が物理干渉してくんな」

「昨日、三人で飲んでたな!!」

「だ、だからなんだ」


 蛇浦の剣幕に、少し気圧される。声が聞こえたとたん親しみ易すぎて忘れそうになっていたが、俺が狂っているのでなければ、こいつはこの世のものではない。もうちょっと怯えた方がいいのかも知れない。


「あたしも混ぜろよな! 羨ましすぎてキレちまったぜ……」

「あぁ!? 鮭の皮投げてんじゃねえぞ、ぼけ。一着しか持ってきてねえワイシャツがぎとぎとになったろうが」

「あれ、うまいのか?」

「うまいぞ。酒とも合う。ガキには分からねえだろうけどな」


 くそお、と蛇浦は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。食いてえ、と呟いている。ずいぶんと俗物的な幽霊だ。いや、“恨めしや”なんて、俗物の頂点なのかも知れない。


「ところで、蛇浦。お前、酒はいけるのか?」

「煽ってんのか、こら! 知らねえよ。飲んだことないからな!」

「まあ、そうか」


 高一の頃、飲んでみようとしたことがあった。だけど、袖山にこっ酷く叱られてやめた。巻き込まれた忠秋も叱られて、しょんぼりしていた。それからは、二十歳を過ぎるまで酒には興味を持たなかった。もし蛇浦が生きていたら、四人全員で初めての飲酒を楽しめたかも知れない。そんな、ありもしない未来に思いを馳せて、危なく泣きそうになった。


「なあ、冬生」

「ん? なんだ、どうした?」


 空想に馳せていた思考が、蛇浦の呼び声で現実に戻る。


「なんで死んだんだと思う?」


 蛇浦は立ち上がる。さっきまでの暢気な雰囲気はなくなった。不意に太陽が雲で翳る中、真っ黒な瞳で見上げてくる。その黒は、あまりにも死を感じさせられる。のっぺりとして、一筋の光さえ含まない。


「ねえ、冬生。なんでだと思う?」


 蛇浦の声は、相変わらず耳元で聞こえていた。雰囲気の急激な変化に、思わず喉が鳴る。


「し、知らねえよ。あの日、急にいなくなったんだろ。ここで、かくれんぼしてた時にさ……」

「じゃあ、続きしようか」

「は? なんの?」

「かくれんぼ」


 蝉の鳴き声が、唐突に止んだ。風も、見計らったように凪いだ。


「見つけてよ。あたしのこと」

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