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1.もういいかい



 その日、蛇浦夏海(へびうらなつみ)は行方不明になった。


「もーいいかーい!」


 何度目かの問いかけ。

 少し恥ずかしそうに繰り返す少年の問いに、“もういいよ”は返ってこない。


「ふざけんな、返事しろ! もう探すからな!」


 海と山の境界にある公園。周囲に少年以外、人はいない。波の音と木々の揺れる音、鳥と虫の鳴き声、うるさいくらいに夏の音があふれていた。

 海岸線をのたうつ蛇のように、曲がりくねった国道が長く長く続く。その陽炎もゆる国道101号線を横切り、少年は防波堤の上に立つ。


「……よっと。うーん。まあ、山の方だわな」


 防波堤の上から見下ろした海岸は、遊泳禁止区域なのもあって誰もいない。そもそも防波堤は高く、飛び降りるのは現実的ではない。岩場に足を取られて怪我をするのがオチだろう。もし降りられたとしても、戻るのが大変だ。遠く離れた階段まで岩場を進まなければならない。

 ひとまず、目に見える範囲に人影はなさそうだった。

 海岸へ出て岩陰などに隠れられたら終わりだが、少年はどうやら海側は無視することに決めたようだった。防波堤の上でくるりと回って踵を返す。


「海は行かねえからな! 怪我すんなよ!」


 念のため、少年はいるかも知れない誰かに注意を促した。

 ツーリング目的であろう大型バイクの集団を見送り、少年は静かになった国道を戻っていく。


「おーい! もーいいかーい!」


 少年は、もう一度大きな声で問いかける。返事はなかった。

 いい加減、西に沈み始めた太陽がオレンジ色になる頃だった。


「ガチかよ。ルールは守れよ」


 ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、少年は公園と踏切りを越える。山側へと進むと、急こう配を貫くように上へ上へと続く階段がある。この先には、誰が管理しているのか分からない小さな社がある。

 少年は鳥居をくぐり、少しだけ階段を上った。


「もーいいかーい!」


 これが最後だと言わんばかりに、少年はことさら大きな声で呼びかけた。

 しかし、“もういいよ”は返ってこない。


「……えぇえ? もしかして、放置?」


 少年と一緒にかくれんぼをして遊んでいた、友人たちの一人。蛇浦夏海は、その日、行方不明になった。




 ◆




「もーいいかーい!」


 小さな男の子の声が聞こえた。否が応にも、あの日のことを思い出す。

 かくれんぼをするには、デカくなりすぎていた。でも、大人ってわけでもなかった。図体だけが、大人のフリをしていた。高校生、最後の夏だった。


 いま遊んでいる男の子には、ちゃんと“もういいよ”が返ってくることを祈る。一瞬止まった足を動かし、俺は階段を上り始める。

 小高い山の中腹にある墓所は、気忙しい蝉の鳴き声も届かないような静けさがあった。雲に遮られることのない夏の日差しさえも、少しやわらいでいるように感じられる。

 ゆるやかに続く階段を上りながら、俺は見晴らしの良い景色に目を移す。子どもたちが遊んでいる駐車場を越え、昔馴染みの町を展望する。


 お前は、まだどこかで隠れてんのか?


 久しぶりに帰って来た町。海と山の境界。わずかな隙間に無理やり入り込んだようなその町は、嫌になるくらい変わっていなかった。

 蛇浦が行方不明になって、七年が過ぎた。もともと両親との折り合いが悪かったせいか、彼女の捜索は思ったよりも早くに打ち切り状態となった。成人と違って、未成年の場合は良くも悪くも親の意向が強くなる。

 そして、七年後、その親による失踪宣告を経て法律上は死亡扱いとなった。法治国家の一員としての蛇浦夏海は、それで死んだ。


 階段を上り切り、目的の墓石に辿り着いた。蛇浦家、先祖代々之墓。簡素だが、手入れが行き届いて綺麗な墓だった。供えられた両端の花も、まだ瑞々しい。

 蛇浦夏海は、ここに眠っていることになっている。でも、遺体はない。そもそも、まだ見つかっていない。本人の意思による失踪なのか、事故なのか、はたまた事件なのかも、はっきりとは分かっていない。当時は、本人の意思による家出の線が有力視されていた。両親との確執や、普段の素行の悪さなんかが後押ししたんだろう。


 確かに蛇浦は、いつも町を出たがっていた。


「こんな町、早く出ていきたい。何にもねえし。親も町も最悪だ。お前らだけだよ、最高なのは」


 そう言って笑う彼女の姿や声は、いまだに鮮明に思い出せる。山から吹き下ろす風が、防波堤の上に立つ彼女の長い髪と、制服のスカーフをさらう。風にたなびく様は、まるで海に逃げ出そうとしているように見えた。


 墓前で腰を落とし、蛇浦のいない墓石に手を合わせた。でも、頭では墓のことなど考えてはいない。ここには何もない。

 短絡的で、少し粗暴なところがあった蛇浦。とはいえ、高校三年にもなって卒業を待てないというのは、違和感があった。虐めに遭っていたわけでもなし、もう少し我慢していればよかった。俺からすれば、家出だとは思えなかった。

 でも、本人にしか分からない苦しみがあったのかも知れない。もう一秒だって待っていられなかったのかも知れない。それは、他人である俺の尺度では測れない。蛇浦のことは、蛇浦にしか分からない。そして、それを知る機会は、おそらく永遠に失われてしまった。


 合わせた手を解き、目を開く。

 なんにしろ、いまさらそんなことを考えても仕方がない。七年も経った。そして、もう彼女は死んだことになった。遺体などなくても、ここが彼女の墓だ。蛇浦夏海という女の人生の最終地点だ。


美郷(みさと)くん?」


 不意に声をかけられ、俺の視線は墓石から離れた。

 見上げると、ショートカットに眼鏡の女性が立っていた。彼女は喪服姿で、手には水の入った桶があった。


「あ……、ひさしぶり」 


 七年振りだったが、すぐに分かった。この町みたいに、あの頃とほとんど変わっていない。最後に見たのは卒業式の日だ。セーラー服姿の袖山小春(そでやまこはる)と、現在の彼女がオーバーラップする。


「袖山、でいいんだよな?」

「うん、そう。袖山です。ひさしぶり。やっぱり、美郷くんも来てたんだね。連絡くらいしてくれればいいのに」

「あー……、悪い。なんかまだピンと来なくてな。うまくお前らと話せる気がしなかったんだ。七年振りだし」

「そうだよねえ。七年かー……」


 少し遠い目になる袖山。焦点が墓石に合っているようで、合っていない。彼女もまた、そこには何もないと理解している。


「夏海ちゃん……」


 と言って、袖山が先の言葉を飲み込んだ。

 死んじゃったね、と続くはずだったんだろう。なんとなく、そう思った。言葉にしてしまうと、事実として決定されてしまいそうで怖いのだ。気持ちは分かるし、昔から袖山はそういうことを気にするやつだった。

 俺たち悪友の中で、袖山は良心だった。粗暴な蛇浦でさえ、彼女には強く出られなかった。がっついた丼ぶりの飯粒を袖山に拭かれ、はしたないよと叱られていた。小春には母ちゃんを感じる、と蛇浦は恥ずかしそうに言っていた。懐かしくて、涙が出そうな思い出だ。


「あいつ、まだ隠れてたりしてな」


 ふふ、と袖山は笑う。


「堪え性がないくせに負けず嫌いだから、七年も隠れてたら夏海ちゃん、爆発しちゃいそうだね」


 やってられるかー、と大声を上げて爆発する蛇浦を思い浮かべ、思わず吹き出した。


「たぶん、あいつの血管には火薬が流れてた」

「それ、あり得る。ちっちゃいのに、すごいパワーだった」


 いつの間にか、俺たちは墓石に背を向けていた。


「夏海ちゃん、ホントにまだ隠れてるかもね。どこかで生きてるかも……」

「そうかもな。でもそうなると、連絡の一つもないのが腹立つな」

「ね!」


 七年振りだというのに、俺たちは空白などなかったかのように笑い合った。二十五歳の俺たちは、出会ったときの小学生時代まで一気に巻き戻った。


「もーいいーよー!」


 という声が一斉に三つ聞こえて、俺は凍り付いた。

 さっき、かくれんぼをしていた子どもたち。いまの声は、隠れている側のものだろう。ゆっくりと隣を見ると、袖山の表情も凍り付いていた。そして、彼女もゆっくりと俺を見た。似たような表情を付き合わせて、俺たちは黙ってしまった。


 あの日、返ってこなかった言葉。返ってこなかった友人。


「あのさ、袖山。あの日、俺が探してた時――」

「みーつけたっ!!」


 ハッとした。

 どうして返事をしなかったのか、という言葉は遮られた。俺も袖山も、慌てて駐車場に続く階段を見下ろした。

 もしかしたら、なんて馬鹿な考えが過った。それは袖山も一緒だろう。俺たちは、かくれんぼをしている子どもたちを凝視した。男の子が、別の男の子を見つけていた。背の高い草むらの中に潜んでいたようだ。

 俺と袖山は顔を見合わせ、苦笑した。


「かくれんぼ、トラウマだわー」

「わかるー。誰だっけ、あの日、ひさしぶりにやろうって言い出したの?」


 袖山に言われ、思い出そうとした。

 高校生になった俺たちがやるには、あまりに子どもっぽい遊びだ。普通は、なかなかやろうと思わない。

 確か、あの時は――。


「あぁ、そうだ。あいつだろ。言い出したの」


 そう言って、俺は指をさした。その指の先には、喪服に身を包んだ長身の男がいた。ゆっくりと階段を上ってくる。


「あっ。砂越くん。みんな……、揃ったね」

「そう……だな。うん。まったく、タイミング良いんだか悪いんだか」


 俺は苦笑する。袖山が動揺してしまった、“みんな”という言葉を苦笑で押し流す。


 砂越忠秋(さごしただあき)

 長身で顔も良く、女子から大人気だった。ただ、本人は引っ込み思案なうえにゲームや漫画、アニメにばかり興味があり、色恋に関してはあまり積極的ではなかった。ただ、それが逆に寡黙でクールな印象を与え、さらに人気がヒートアップした。本人は本当に迷惑そうだったが。


「相変わらず顔がいいな、あいつ」

「ひとり少女漫画」

「いや、ひとり宝塚だろ」

「言いたいことは同じじゃん」


 暗い顔をして、とぼとぼと歩いていた忠秋。それが、階段の上で手を振る俺たちを見つけた途端、満面の笑みに変わった。


「小春ちゃん! 冬生(ふゆき)くん!」


 階段を駆け上がってくる忠秋。少し長いさらさらの髪がよく似合っていた。ともすれば、背がすごく高いスレンダーな女性に見えなくもなかった。そういえば、めちゃくちゃな美人が駆け寄ってきた、と思ったら忠秋でガッカリする男子が続出していたっけ。可哀想に。どっちも。


「よお。袖山もだけど、お前も変わんねえな、忠秋」

「ふ、冬生くんは、ちょ、ちょっと垢……抜け……たね」

「だ、大丈夫、砂越くん?」

「馬鹿みたいに全力ダッシュするからだろ」


 忠秋は、階段の頂上で膝に手を当てて呼吸を整えていた。体力にあまり自信がないのも相変わらずらしい。


「ひ、久しぶりだから、嬉しくて……」


 ふふ、と袖山が優しく笑う。へへ、と忠秋が照れくさそうに笑う。はは、と俺もつられて笑う。

 ひどく懐かしくて、優しくて、居心地の良い時間。そして、それと同時に、もう戻らない時間への寂しさが込み上がった。


「蛇浦がいれば、完璧だったんだけどな」


 そんな俺の一言が、郷愁に拍車をかけてしまった。二人とも、得も言われぬ表情になる。切ない、というのが一番近いかも知れない。


「ひょっこり出てきそうだけどね、夏海ちゃん」


 そう言って、絵画みたいな横顔で寂しそうに忠秋は微笑んだ。

 額縁で切り取って飾れそうな、その忠秋の背後。不意に、さらりと長い黒髪がなびいた。


「はあっ!?」


 思わず大声が出た。

 忠秋の背後から、悪戯っぽく顔をのぞかせた少女がいた。


「どうしたの?」

「大丈夫、冬生くん?」


 袖山と忠秋の声が、まるで水で遮られているように遠く聞こえた。夏の日差しも届かない冷え切った水中に、俺だけが沈んでいるみたいだった。

 見間違いようがない。

 相変わらずチビだ。相変わらず目つきが悪い。でも、相変わらず笑うとくしゃっとした優しい顔になる。

 蛇浦だ。蛇浦夏海だった。


「おい、蛇浦! お前――」

「ちょ、ちょっと冬生くん!?」

「や、やめてよ。なに!?」


 忠秋の背後に隠れた蛇浦。それを捕まえようと、俺は手を伸ばした。だが、手は空振り、足は段差に気付かず踏み外した。俺の体は、忠秋に抱きかかえられるような恰好になった。


「冬生くん、落ち着いて!」

「美郷くん!」


 二人の声は遠い。無視した。

 俺を指さす蛇浦。彼女の唇が動く。


「         」


 聞こえない。

 なんて言ってんだ、蛇浦。

 というか、お前も変わんねえな。


「いままでどこにいたんだよ、蛇浦。お前ぜんぜん変わんねえ――」


 ばちん、という音と、痛みがあった。

 目の前には、袖山の顔。眼鏡の奥の瞳は、少し怒っていた。俺と蛇浦が悪さをした時の目だ。忠秋をもそそのかして、三人で塀に落書きをした時の目だ。


「美郷くん、しっかりして!」

「でも……、そこに――」


 自分の声が、情けなくも震えているのが分かった。


「夏海ちゃんは、いないよ。そこには誰もいない」


 袖山は、青い顔をした忠秋の背後を指す。誰もいないよ、と。

 いや、いる。

 袖山が指さした先。怯えた顔で自分の背後を振り返る、忠秋の視線の先。そこに、蛇浦夏海がいる。くしゃっとした笑顔を引っ込めて、深刻そうな顔で俺たちを見ている。

 ぱくぱくと彼女の口が動く。でも、声は聞こえない。何を言っているのか、分からない。


「冬生くん、怖いって。冗談にしては質が悪いよ」


 冗談なものか。ほら、見ろ。

 蛇浦は、ひょこひょこと軽い足取りで自分の墓石に向かって行った。困ったような、悲しいような、得も言われぬ表情で俺を見た。ここにはいないよ、とでも言いたげだった。

 知ってる。分かってる。お前は、どこにいるんだ?


 俺の視線移動につられ、袖山と忠秋も墓石を見ている。俺を抱えた忠秋も、俺に触れたままの袖山の手も、小刻みに震えていた。


「なあ。ほら、あいつだ。蛇浦だ。見えねえのか? おい、なにしてんだよ、蛇浦」


 袖山は無言で首を振る。痛ましいものを見るように、口元に手を当てて俺を見ている。


「は? いやいや、嘘だろ……。忠秋。お前もか?」


 防波堤に立って、町も両親も嫌いだと言っていた蛇浦。風にさらわれる長い髪、黒いセーラー服と赤いスカーフ。海に向かって飛んでいきそうな儚さ。何も変わっていない。何も変わらず、いまそこで俺を見ている。なのに――。


「誰もいないよ。冬生くん。夏海ちゃんは、もういないんだよ」


 ――と、忠秋は俺を強く抱きしめる。背中に置かれた袖山の手が熱い。

 ふざけんなよ。


「……じゃあ、あれは――」


 なんだっていうんだよ。

 そう言って、二人の顔を見た時だった。

 ばりん、と何かが割れる大きな音がした。驚いて、全員が一斉に蛇浦の墓に視線を戻した。


「うそ……」

「な、なんだ?」


 袖山と忠秋の驚いた声が聞こえた。俺も驚いた。

 蛇浦の墓に供えられていた花。その花がさしてあった花瓶。

 綺麗に手入れされていた花瓶の片方が、割れていた。墓石に向かって、まるで誰かが蹴り壊したように砕けていた。花びらと水滴が、滑らかな墓石を滑り落ちる。そして、そこに蛇浦の姿はなかった。

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