幸せ
逃げ出した私に背後から腕が伸びて来た。
「捕まえた」
お腹にガッチリと腕が絡まり、右腕も掴まれる。
「ヒッ」
恐怖で引きつった悲鳴を上げてしまった。
「アリー、どうして逃げるのです?」
「ええっと……いたたまれなくなって?」
「私から逃げるなんて……」
後ろから抱きしめられた体勢で、耳元に口を寄せられる。
「何処にも行けないように、閉じ込めてしまうよ」
私にしか聞こえない音量で囁かれてしまう。首から腰に電気が走った。
「ひゃっ」
思わず声が出てしまった。
「ふふふ、そんなに可愛らしい声を出してはダメですよ。色々と我慢出来なくなってしまうでしょう」
「ルト、皆、皆が見てるから」
「あ、そうでしたね」
ニコリと満面の笑みを見せるエンベルト殿下。
『絶対わざとだ』
そう思った途端に、鼓膜が破けそうな位の悲鳴が聞こえた。
「ど、どういう事ですの!?」
「一体何が!?どうやら悪夢を見ているようですわ」
パガニラーニ様においては、完全に現実逃避している。
「ルト、どうするのよ?ちゃんとルトから説明して」
「説明も何も。見た通りですよとしか言えません」
ああ、どうしてそんなにいい笑顔で?
これだけでも大変なのに、もっと大変な事が起こってしまう。
「私はまだ了承した覚えはないのだがな」
お父様まで参戦して来た。
「おや?まだご自分の娘の恋路を邪魔するおつもりですか?」
「娘が本当に殿下に想いを寄せているなら、止めはしない。だが今の光景を見る限り、娘は殿下から逃げようとしていた。つまりは殿下の事を好きではないという事では?」
「ははは、あれは照れただけですよ。公爵は乙女心がおわかりにならないようですね」
「殿下ならお分かりになると?」
「ええ、勿論です。アリー限定で、ですがね」
「アリー、殿下の事が嫌なのであれば、ちゃんと言いなさい。父様がなんとでもしてやるから」
「アリー、私の事好きですよね。お父上の前だからと遠慮する事はないですよ」
二人の矛先がこちらに向いた。あちらでは二人の令嬢が泣き叫んでいる。
周りは、それはもう楽しそうに見学していた。
結局、国王様がその場をなんとかとりなし、お父様の事はお母様が大人しくさせてくれてなんとか収まったのだった。
「はあぁ、本当に大変だったわ」
「はは、そうだね。まあ、私は楽しかったよ」
「で、しょうね」
ふわりと風が吹く。冷たさを含んでいるが、心地良い。少しの間、沈黙がこの場を支配した。
「セレート嬢ですが……この数日中に処刑されるでしょう」
「そっか」
個人的には処刑までしなくても、とは思う。が、禁呪である事と、王族三人にかけていた事からどう足掻いても許される事ではないのだ。
「残念ながら反省はしていません。今も尚、自分はヒロインだから、自分がいなくなったらこの世界は崩壊するんだと喚いているそうです」
「そう……」
「それと、アリーに呪いをかけるとも」
「ふうん……かかってないけど」
同情する気持ちが萎えるな。
「アリー」
「ん?」
「あなたの前世はどんな人物だったのですか?」
「え?」
殿下の顔を見つめてしまう。
「ふふ、言ったでしょう。アレクサンドラ嬢の中のあなたを好きになったと」
「そっか、そうだったね」
「あなたの事、全て知りたいのです」
軽いストーカー発言な気がするが。
「私は……前世では黒髪黒目の普通の学生だったよ……普通とは少し言い難いかな。父親が大きな会社、って言ってもわからないか。まあ、人をたくさん雇っている立場の人だったんだけど。そうなると必然的に、誘拐とか狙われる立場だったから、兄たちと一緒に武術を習っていたの」
「なるほど。だからあのように強かったのですね」
「ふふ、そうね。その日も習い事の帰りで、暴走車、こっちで言うと馬車なんだけれど、馬が引いてるわけじゃなくて、機械っていう魔法の代わりかな、それで走っている車にぶつかっちゃったの」
「そしたら神様が現れて、本来は私が死ぬはずじゃなかったって。で、この世界を見せられた。たった一人で責め立てられているアレクサンドラの境遇が可哀想で、悔しくて怒りが湧いたの。で、入れ替わったってわけ」
後ろからキュッと抱きしめられる。
「話してくれてありがとう。あなたに会えて本当に良かった」
「ふふ、私も。向こうの世界の家族にはもう会えないけれど……その分、こっちの世界の家族がとっても大切になったし、魔法を使える事も楽しかったし、大切な仲間がたくさん出来た事も嬉しかった」
「それに……大好きな人も出来たし、ね」
そう言って笑った途端、キスの雨が降って来た。
「アレクサンドラの魂が、違う世界の何処かで楽しく過ごせているんだって思うと私も幸せにならなくちゃって思うの」
へへへと笑うと、抱きしめる力が強くなった。
「私がアリーを幸せにしてみせます。あなたに加護を与えた神に誓って。だからアリー。私の妻になってくれますか?」
夜の帳の中、エメラルドの瞳がキラキラと星のように輝く。
「はい。私もルトを幸せにするわ」
穏やかに笑えば、そっとキスを落とされた。
『アレクサンドラ、何処かできっと幸せになっているよね。私もね、とっても幸せよ』
「あ」
唇が離れ、白く淡く光が差したような気がして見ると、月下美人が咲き出した。
「綺麗」
ゆっくりと開く白い花びらは、月明かりに照らされ、なんとも形容しがたい美しさだった。