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代表作【ビター】

息災の君へ

作者: 蒼原悠


そく‐さい【息災】

[名・形動]


1 病気をしないで、元気なこと。

  また、そのさま。

  「息災に暮らす」「無病息災」



  ──小学館「デジタル大辞泉」より引用





挿絵(By みてみん)




「──東京って遠いところだよね」


 それが、幼馴染の美崎(みさき)の口癖になった。

 のどかな山裾に広がる故郷の町から東京まで、直線距離にして九〇〇キロ。父の仕事の都合で引っ越しが決まったその日から、それまでにもまして美崎はおしゃべりになった。枯れ草の散らばる畦道を並んで帰る道々、しきりに口を開いては、好きなものの話を延々と続けた。欲しい化粧品の話やら、熱中しているゲームやアニメの話やら、飼い猫の話やら、疎い僕には何の関心も湧かない話ばかりで、耳を傾けていたのも義務感からだったように思う。うきうき顔の美崎に好き勝手な話をされて、僕が黙って耳を傾けるのは、学校帰りの僕らの恒例行事みたいなものだった。


「東京に行けば何だって手に入るんだろうなぁ。いいな、私も一緒に行きたいよ」


 それも美崎の口癖になった。

 遊びに来たらいいじゃないかと訊けば、たちまち彼女はスマートフォンを鼻先に突き付けてきた。最寄りの駅から東京まで、乗用車で飛ばしても十六時間。公共交通を使うと三万円。とても一介の中学生に出せるものではなかった。それでも美崎はいつかお金を貯めて、長期休みを消費して、何がなんでも僕の後を追いかけてきたいという。


「オンラインで注文するとかじゃダメなの。画面越しや受話器越しじゃなくて、この手で触れてみたいの。そこに存在していることを指先で確かめないと、生きている感じがしなくて不安になるから」


 好きなキャラクターのグッズをカバンにじゃらじゃらと下げながら、夕陽の中ではにかむ美崎の横顔が印象的だった。きれいだな、と思った。このままずっと眺めていたいと思った。けれども僕らはそれぞれの家へ戻らねばならないし、学年末になれば僕ら家族は東京へ旅立たねばならない。もしも美崎の横顔が手の届かない彼方に遠ざかってしまった時、写真やビデオで我慢することができるか。それとも全力を賭して会いに行くか。それが僕と美崎の違いなのだなと、金色に萌える美崎の輪郭を見つめながら考えた。

 美崎の「実感追求」は徹底していた。電話もメールもメッセージアプリも嫌いだと、彼女はきっぱり言い切った。引っ越す先の住所を教えてくれたら、手紙を書くという。


「電話もメールも何もかも、いちど通信を挟んだものって、届けたものが本当に伝わるのか分からないでしょ。手紙だけはそうじゃない。私の書いたそのままの文字が届いて、きみに伝わる。込めた真心だって無駄にならないと思うんだ」


 ただの幼馴染みに送るだけの手紙に、いまさら真心も何もあるものか。目映い面持ちで佇む美崎から目をそらし、皮肉を浮かべて冷笑している自分がやけに不愉快に思われて、その罪悪感を振り払うように「いいよ」とうなずいたのを覚えている。手紙なんて書き慣れないものを月に一度も交わさなければならないのは、正直にいえば面倒だ。それでも僕の胸の中では、月に一度の努力で九〇〇キロ彼方の美崎を笑顔にできるメリットの方が、ほんのわずかばかり優っていた。

 引っ越したら手紙を書き合おう。

 お互いの近況を教え合って、この仲を少しでも未来に繋げてゆこう。

 いつか美崎が大人になり、この街を巣立って東京に来る日まで。


「約束だよ。きみの声、聞かせてね」


 嬉しそうに美崎は笑っていた。泣いているような笑顔を直視するのに耐えられなくて、僕は気づかれないように目線を上げ、背後に屹立する大きな山の背を見上げていた。僕にとって故郷の景色といえば、むかしも今も、この大きな山が夕空に描く輪郭の美しいシルエットに他ならなかった。



 高校への進学とともに、僕は東京の地を踏んだ。新たな故郷は都心から十キロほど内陸の衛星都市で、畦道の代わりに縦横無尽の街路が張り巡らされ、視線を上げた先には大きな山の姿はなく、駅前のタワーマンション群が黒々と影を伸ばしていた。

 同じく高校へ進学した美崎との間に、手紙のやり取りが始まった。第一報は互いの生存報告で埋め尽くされた。美崎への報告事項など、目新しいものばかりの新世界を生き始めた僕には、わざわざ探さなくとも足元にいくらでも転がっていた。慣れない電車通学で毎朝のように痛い思いをしていること、買い物の場所や公共機関が徒歩圏内にすべて揃っている驚き、どこまで行っても建物が累々と並んでいる景色への違和感。こんなものを文字に起こして書いたところで何が伝わるわけでもあるまい。写真でも撮ってメールで送ろうかと文末に付け足すと、美崎は【要らない】と返信してきた。


【きみの見たままの景色を知りたいの。いくら写真や動画を見たって、匂いや音や雰囲気は結局、想像しないことには分からないでしょ。でも手紙なら、きみの抱いた印象が言葉選びの中に介在するから、読み手の私も同じ光景に触れられるの】


 難しいことを書く子だな、と頭を悩ませたものだった。ともかく美崎が徹底してデジタルを忌み嫌っていることだけは理解したので、それからも僕は都会での生活をひたすら文字に起こして、毎月のはじめに郵便ポストへ投げ込んだ。

 思えば、畦道の通学路をふたり並んで帰っていた頃から、美崎はいつも僕より大人びていて、どこか僕とは違う世界を見ている子のような気がしていた。何を考えているのか知りたくて、心の中でいつも背伸びを試みていたら、いつしか皮肉屋で妙に現実主義な自分ができあがったことを、今も遠い日のように思い出す。もしかすると、美崎も僕の前では似たようなものを感じていて、だからこそ手紙のやり取りなんかを望んだのかもしれない。

 僕は、僕の感じたままの世界を、僕の汚くて雑な文字でしか書き出せない。

 美崎は、美崎の感じたままの世界を、美崎の柔らかで丸い文字でしか書き出せない。

 そういう目線でやり取りを俯瞰すると、僕の送る手紙と美崎の返してくる手紙は、文面ばかりでなく内容もいくばくか異なっていた。ありのまま経験を書き連ねる僕と違って、美崎は大抵、そこに自分の感情をたっぷりと付け加えていた。まるで僕に共感を求め、少しでも声を聴いてほしいのだと訴えるように。


【部活クタクタなのにカエルがうるさくて眠れないよー。夏になったんだなーって感じがする。ほんと憂鬱】


 ──これにはちょっぴり笑わせられた。田舎育ちのくせに虫やカエルを蛇蝎のごとく嫌っていた美崎は、教室にゴキブリが出るたびに悲鳴を上げ、金切り声で僕に対処を頼み込んできたものだった。この時ばかりはオトナとコドモの上下関係が逆転した気がして、僕の方はちょっぴり虫の出現を喜んでいた。こんなことを書いたら美崎に怒られるだろうな。


【テストで満点とった! 先生にもめっちゃ褒められたよ! 模試の結果もよかったし、これで三年後には東京の私大に進学だねっ】


 ──これも微笑ましさで笑ってしまった。上京したいあまりせっせと皮算用に励む美崎を想像すると、退屈な顔で飛行機に乗った僕なんかはずいぶんつまらない人間だったのだな、と思わされる。列車の乗車率が五〇%にも達しない田舎で育った美崎が、通勤地獄の首都圏でまともに暮らしてゆけるのだろうか。そう書いて送ると美崎は【痴漢に遭ったら剣道でボコボコにしてやるから大丈夫!】と、いくらか返答に困ることを書いてきた。


【今日ね、部活の先輩に告白されたんだ】


 ──これを見たときは笑顔がひきつった。どの面を下げてショック受けてるんだ、彼氏でもないくせに。そう自分を戒め、慎重に続きを読み進めると、美崎は結局のところ告白を蹴ったようだった。蹴った理由は書かれていなかった。美崎が自分の感情を交えることなく事実だけを書き連ねていたのは、後にも先にもこの一回きりだった。

 美崎の文章を追っていると、彼女の意のままに感情を揺さぶられる。自室に現れた昆虫をうっかり踏み潰したとか、親友の子とケンカをして絶賛絶交中だとか、読み手をはらはらさせるようなことを美崎は平然と書いてくる。そうかと思えば、懐かしい共通の友達を持ち出してきて近況を話してくれたり、近所の神社で開かれた祭礼の様子を報告してくれたりもする。見渡す限り建物ばかりの都会に暮らしていながら、美崎からの手紙を読んでいる間だけは故郷の世界に浸っていられる。そのせいか、いつしか僕は美崎からの手紙をこっそり通学カバンに忍ばせ、しじゅう返信の文面を悩むようになった。

 方言が強くて都会の事情にも不慣れな僕の存在を、クラスの子たちがどう感じていたのかは分からない。ほんの少しばかり距離を置かれていたようにも思う。そして今にして思えば、それは僕がいつも念頭に美崎を置くばかりで、新たな仲間や環境をきちんと正視していなかったからなのかもしれない。



 僕が東京での人間関係に苦戦している間も、美崎の奮闘は続いていた。一月の模試で学年トップクラスの偏差値を叩き出した彼女は、いよいよ本格的に東京の私立大学へ狙いを定め、熱心な勉強を始めたようだった。


【なんの苦労もなく東京に出ていったきみを追いかけてやるんだからね】


 言いがかりをつけられた僕は嘆息するばかりだった。残念ながら僕は美崎と違って、それほど都会志向が強かったわけでもない。欲しい物が何でもネットと宅配便で届く時代に、わざわざ実物や実感を求めて都会で暮らそうとする美崎の気持ちは、幼い僕にはどうにも理解しきれない。故郷の町には降ることのなかった雪を見上げ、腰に響く除雪作業の合間に、そんな思いの丈を素直に書き綴って返信した。

 半月後にやってきた美崎の返信は、見たこともないほど分厚かった。


【私、別に東京へ行きたいんじゃないよ】


 驚きの切り出しとともに文面は始まった。大都会に行くだけなら大阪でも広島でも福岡でもいい、東京である必要はないと断じたうえで、それでも東京に行きたい理由を美崎は【そこにきみがいるから】と説明した。


【困らせたくなかったからずっと黙ってきたけど、独りで頑張ってるとたくさん不安になるんだよ。やっぱり手紙じゃ物足りない。きみと会って、生の声が聞きたい。たくさん愚痴こぼして悩んで、少しずつ前に進みたい。東京に出ていきたいのは都会だからじゃなくて、そこできみが息をしてるからだよ】

【寂しいよ。さっさと受験を終わらせて、東京に行きたい。早く会いたい】


 ──ただでさえストレートだった美崎の感情表現が、ここにきて絶大な威力を発揮していた。衝撃の大きさのあまり僕はしばらく口をきけなくなって、沈黙の中でひたすら返信の文面ばかり思い悩んだ。この気持ちに何と言って答えよう。この気持ちを何と言って表現すればいいのだろう。

 美崎は僕のことが好きだったとでもいうのか。

 ただの幼馴染みとしか思えない距離感を保ちつつ、いつも僕の隣でにこにこしているばかりだった美崎が、もはや僕の脳裏には元のような姿で浮かんでこなくなった。彼女の見せた表情の一つ一つ、言動の一つ一つに、それまで思ってもみなかった文脈を重ねて思い返すと、なんだか居ても立ってもいられなくなった。慌ててシャープペンシルを手に取り、猛烈な勢いで文面をしたため始めた。半月後に訪れる返信のタイミングなど、座して待ってはいられなかった。

 訊きたいことが山のようにあるんだ。

 手紙じゃ伝わるのが遅すぎる。きっと美崎は嫌がるだろうけれど、電話をしてもいいかな。電波を隔てたニセモノの声でも構わないから、美崎の言葉で本心を聞きたいんだ──。

 夢中で書きなぐった手紙を封筒に入れ、集荷時間の寸前にポストへ投函した。まもなく到着した郵便局の真っ赤なバイクが、ポストの中身を残らずたいらげて走り出すのを、祈るような思いで見つめた。こんな惨めな気分に陥るのは初めてだった。どうか無事に届いてくれ、この声を一刻も早く美崎に届けてくれと、小さな願いをもてあそばずにはいられなかった。



 母親が悲鳴を上げながらテレビをつけたのは、その夜のことだった。

 ヘリコプターの中継映像が田舎の町を映していた。暗闇の中、煙る視界の向こうで赤黒い光がおぼろに燃えていた。鬼気迫る形相のアナウンサーが避難を呼びかける下で、派手な文字のテロップが状況を伝えている。従前から火山性微動の確認されていた火山が突如、夕方になって大噴火を発生させ、火砕流に巻き込まれた市街地が壊滅。住民はおろか自治体とも消防とも連絡が取れない、という。

 壊滅したのは故郷の町だった。

 噴火したのは、故郷の町を裾野に抱く、あの大きな山だった。

 何も手につかないまま迎えた翌日、被害の詳細な情報が入ってきた。僕らの住んでいた地区は全域が火砕流の直撃を受け、数十人規模の行方不明者が発生していた。噴火活動は今も収まっておらず、まともに救助隊を送り込むこともできない状況で、報道ヘリもおろおろと噴煙の周囲を旋回しながらカメラを地上へ向けるばかりだった。

 映像から煙の臭いは漂ってこない。

 立ち込めている噴煙の薄暗さも感じられない。

 重たく響いているであろう破滅の音も聴こえてこない。

 まるで、目の前の映像を現実として認識するのを、脳が拒んでいるようだった。


──『画面越しや受話器越しじゃなくて、この手で触れてみたいの。そこに存在していることを指先で確かめないと、生きている感じがしなくて不安になるから』


 美崎の言葉がリフレインして、そこで初めて僕は彼女のことを思い出した。送った手紙の行方が気にかかり、スマートフォンに指を滑らせると、故郷の町に宛てられた郵便物はすべて配送停止の憂き目に遭っていた。現地の郵便局が破壊されたのみならず、町へ向かう道も火山灰で埋もれ、通行不能に陥っている。現地へ届けられるものといえば自衛隊の空輸する支援物資くらいのもので、それ以外のインフラは何もかも途絶していた。

 東京の僕にできることは何もない。

 ただ、祈ることしかできなかった。

 どうか僕の声が美崎に届いて、ほんの少しでも美崎に勇気を与えてくれたなら。たくさん愚痴をこぼしてもらって、悩んでもらって、少しずつ前に進もうとする美崎の助けになれればいいのに。

 必死の祈りを捧げながら日々を暮らすうちに、一か月が過ぎていった。噴火の一段落した現地では復旧・救助活動が進み、一部の人々は避難所を出て自宅に戻り始めた。郵便事業会社のホームページによれば、近隣の郵便局の支援体制が整い、避難所限定で郵便の集配作業も再開されたという。それでもなお、美崎からの手紙は送られてこなかった。

 筆記用具や便箋の手に入るかも分からない避難所暮らしの中で、悠長に手紙など書いている暇はないのだろう。そう合理的に結論付けることで正気を保っていた僕も、とうとう二か月が経とうとする頃には我慢の限界を迎えて、気づけば握りしめた便箋に手紙を書き殴っていた。無事なら連絡が欲しい──。要点だけをしたためた乱暴な手紙を封筒に入れ、いつものように郵便ポストへ投函した。

 一か月おきに僕は手紙を書き、送り続けた。内容は回を重ねるごとに変化していた。被災を気遣い、返信を求める文面から、徐々に自分の側の近況報告を書き綴る方向へシフトしていった。美崎の被災状況が分からない中でいたずらに返信を求めるより、彼女を安心させるような普段通りの話を綴った方が得策だと考えたのだった。体育祭のリレーで一等を決めたことも、美崎が受けていたのと同じ模試で高偏差値を獲得したことも、アルバイトに興味が向いていることも、身の回りに起きたことは洗いざらい話した。味気ない避難所暮らしにわずかばかりでも花を添えられたらいいと思って、自分の感情も交えながら話を続けた。

 ──遅刻したのは電車の遅延のせいなのに、担任に怒られた。あの担任どうかしてるよな。

 ──美崎の行きたがってた街へ遊びに行った。楽しかったけど、とにかく人が多くて居心地が悪かったよ。

 ──今日は天気が悪くて最悪だった。台風の日くらい休校にしてくれりゃいいのに。

 ペン先にインクをにじませるたび、隠し持っていた言葉がみんな溶け出して、自分の心は相対的に空っぽになってゆく。心のカタチをあらわにするのは美崎の前だけで、美崎のことを考えていない間は心が動くこともない。伝える相手のいないコトバに意味などないと思い込み、何事にも無感動になった僕は、いよいよ教室の中で孤立していった。事情を知らないクラスメートたちは、終始真顔のまま勉強や運動に黙々と励み続ける僕を、さぞ気味悪がっていたことだろう。美崎のことを考えていない間の暇つぶしだ──なんて答えたら、もっと気味悪がられたかもしれない。



 生き甲斐が欲しかった。

 それだけの理由で、十二月になってアルバイトを始めた。

 郵便局での年賀状の仕分け作業といえば、高校生でも実践できる年末恒例の人気アルバイトの一つだ。勉強ばかりに根を詰めていないで少しは外の息を吸っておいでと母親に背中を押され、応募してみると呆気なく採用が決まった。無感情に作業をしていれば終わるという安心感も手伝って、のこのこと年末の郵便局に足を運んだ。最後に美崎宛の手紙を出してから、まもなく半月が経とうとしていた。

 無数の手紙を整理して、配達住所ごとにまとめ、箱に入れてゆく。一枚一枚に刻まれた切手の数字が頭の中で積み重なり、次第にやり甲斐へ変わってゆくのを自覚しながら、ひたすら無言で仕分け作業を進めた。周囲の子も僕と同じ高校生で、彼らは時おり退屈げに肩を回しては、だらしなく欠伸を漏らしていた。こんな不真面目な連中のようにはなるまい。つまらない意地を張りながら年賀状の山をかき分けていた僕の手は、ふと、一枚の手紙を掴んだきり動かなくなった。

 噴火で破滅した町からの手紙だった。

 宛先の住所は僕らの住む街だった。

 差出人の名前は美崎ではなかったし、宛先の名前も僕ではない。けれどもこの手紙は紛れもなく、被災地をくぐり抜けて日本中を疾走し、ここ東京まで届けられてきたのだ。誰かの書いたそのままの文字が、誰かの心へ届いて花開く。郵便局の被災した故郷の町も、もはや、そのシステムの埒外ではなくなった。

 僕の言葉はあの町へ届いている。

 それならばどうして、美崎の言葉はこの街へ届かない?

 美崎はどこへ消えてしまった?

 高まった激情が目尻に跳ねて、僕は手紙を握りしめたまま立ち尽くした。それまで嘘のように失われていたはずの素直な感情が、疑問が、不安が、ぼろぼろとあふれ出して床に染みを描いてゆく。異変に気づいた周囲の男子たちが「どうしたんだよ」「大丈夫?」と声をかけてきてくれなければ、きっと僕は喪失感と失望のあまり、その場に崩れ落ちて泣いていた。

 落ち着きを取り戻した頃には休憩時間に入っていた。心配してくれただけの義理を返そうと、僕は彼らに事情を話した。被災地の幼馴染から音信がなく、安否すら分からないことを口にすると、彼らは一様に顔を曇らせた。不真面目な連中などとレッテルを貼っていたことを、この時ほど後ろめたく思ったことはなかった。


「俺たち、実は活動資金集めのために仕分けバイトをやってるんだ」


 彼らは口々に切り出した。


「噴火被災地のボランティアを計画してる。現地には火山灰が降り積もったままで、ライフラインも完全には復旧してないらしい」

「三月に実行するつもりなんだ。まだ段取りを立ててる段階だし、よかったら一緒に行こう」


 渡りに船という言葉は、この一瞬のためにあると思った。気の迷いを噛み殺す勢いで、僕は参加の意思を叫んでいた。

 現地へ赴けば真実が明らかになる。そして、その真実が僕に優しいものであるとは限らない。それでも僕はあの町へ戻りたかった。この目で見たものを信じ、この手で触れたものを確かめ、この耳で大切な人の声を()り分けたかった。手紙の応答がなくなって九か月になる今、美崎の真心の在り処を確かめる方法は他に残されていなかった。



 新幹線と特急、ローカル線を乗り継いで、未復旧の区間は代行バスに揺られ、被災地に向かった。合計八時間の旅に三万円を費やし、僕の年末年始バイトの資金は早くも半分が消し飛んだ。哀しいほど乾いた風が海沿いを吹き荒ぶ、三月の晴れた日のことだった。

 くだんの山はすっかり姿を変えていた。噴火の衝撃で一部が山体崩壊を起こし、土石流や火砕流となって足元の町を蹂躙したのだった。同行した友人たちが荒々しい崩壊の痕跡を仰ぎ見ながら「すげぇ……」と息を呑む横で、僕はまるで帰るべき故郷が失われてしまったような心境のまま、しばらく空虚に突っ立っていた。残されているのは地名と、くたびれた顔で暮らす人々の面影ばかり。そこはもはや、穏やかな山裾に田園風景の淡々と広がる、僕や美崎の見知った故郷の風景ではなくなっていた。

 登録手続きと作業の指示を受けるため、避難所併設のボランティアセンターへ向かった。


「行ってこいよ」

「お目当ての子がいるんだろ」


 仲間たちに背中を押され、避難所の中を探して回った。いくら巡り歩いても見当たらず、途方に暮れて受付の担当者に美崎の苗字を告げると、すでに仮設住宅へ入居済みであることを伝えられ、建物も教えてもらった。

 手が震え、心が震えた。美崎の新しい家に一歩一歩と近づいてゆくたび、このまま二度と顔を合わせたくないとさえ思うほどの緊張に飲まれて足がすくんだが、勇気を出して前へ進んだ。この日のためにわざわざ一通の手紙をしたため、封筒に押し込んでカバンの奥底へ隠してきたのだ。この期に及んで引き返すことはできなかった。

 出てきたのは美崎の両親だった。

 玄関に立つ僕を見て、すべてを悟ったかのように顔を歪めた二人を前にして、僕はこの手紙の行く末を早々に理解した。良くて持ち帰り、悪ければゴミ箱か──。いずれにせよ、美崎に手渡せる代物ではなくなってしまったのだと直感的に理解した。

 美崎は今も行方不明なのだという。噴火の日、放課後の部活動を終えて帰宅するところを教師に目撃されたのが、美崎の最後の姿となった。美崎の家は偶然にも火砕流のコースを外れ、続く土石流に一階を飲み込まれる被害で済んだが、辛うじて難を逃れた家族のもとに娘が帰宅することはなかった。僕らの通学路のあった一帯は火砕流の直撃を受けて壊滅し、跡形もなく土砂や火山灰に押し潰され、美崎を含む大勢の住民が現在も発見されていない。


「美崎の部屋を片付けている時に見つけたんだけどね。きっと美崎はあなたに読まれることを望んでいると思うの」


 そういって母親に手渡されたのは、美崎の筆跡で書かれた一冊のノートだった。

 少しばかりの罪悪感に背中を刺されつつ、押し頂いたノートを開くと、それはどうやら日記のようだった。ともにこの町で暮らしていた頃には愚痴の一つも押し隠さず、帰る道々に僕の前で文句をぶちまけることで溜飲を下げていた美崎が、一体どうして日記などに手を出したのだろう。驚きとともに日記を読み進めた僕は、さらなる事実を目の当たりにして、愕然と足元にくずおれた。

 美崎は高校でいじめを受けていた。

 教師からの性暴力にも遭っていた。

 僕宛ての手紙に書かれていたような平和な日々を、美崎は送っていなかったのだ。

 日記には心を病んでゆく美崎の経過が延々と綴られていた。何度も自殺を試みては両親に止められ、そのたびに美崎は歯を食い縛って現実と立ち向かおうとしていた。東京に出れば僕がいる。誰よりも頼れる人のもとで、幸せだった頃の日々を取り戻すんだ──。言い聞かせるように繰り返し、繰り返し、美崎は日記に同じことを書き連ねていた。


【今日も手紙が来た】

【大好きな人の文字。強くて優しい匂いがする】

【明日も頑張ろう。頑張って、頑張って、いつか絶対に東京へ飛び出して、あの人に好きって伝えるんだから】


 日記の片隅には小さな染みがいくつも見当たった。

 耐え切れずに、泣き崩れた。どれだけ泣いても声は届かないと分かっていたのに、どうかこの叫びが美崎に届いてほしい、この心を美崎に届けてほしいと願わずにはいられなかった。──ああ、こんなことならもっとたくさん手紙のやり取りを交わせばよかった。心を酌み交わしておけばよかった。胸を張って上京してきた美崎の隣で、また以前のように泣いて、笑って、丸い背中を撫でてあげたかった。すべては永遠に叶わぬ願いとなって、土の下へ残らず埋もれてしまった。僕の声が美崎のもとまで届く前に──。

 被災後に僕の送り続けた手紙は、未開封のまま両親が保管していてくれた。悩んだ末、僕は渡し損なった手紙の束をまとめて大きな封筒に入れ、それを携えてボランティア仲間のもとへ合流した。

 美崎の眠っているあたりに埋めてやりたい。

 せめて、込めた真心のほんのひとかけらだけでも、美崎に見せてあげたい。

 そう懇願すると、彼らは泣き腫らした僕の背中を叩いて、「手伝うよ」と微笑んでくれた。



 窓を開ければ、ほこりっぽい都会の風が部屋を満たす。カエルの合唱も聴こえてこなければ、一面に広がるタバコ畑の葉の匂いも漂わない。だけど、この風の臭いは嫌いじゃないよ──。美崎との文通が続いていたらそんなことを綴っていただろうなと思いを馳せつつ、そっと窓を閉じて、ふたたび受験勉強に戻る。それが僕の毎晩のルーティンワークだ。

 あの被災地ボランティア参加を境にして、それまでの二年間がまるで嘘のように、東京の街は急速に僕の心身へ馴染んでいった。副都心の駅前に躍り出て超高層ビル群を見上げようとも、眠らない繁華街のネオンサインに照らされようとも、戸惑いを覚えることはない。都会慣れした僕は徐々に社会性を身に着け、いつしか孤独だった教室にもちらほらと気の合う仲間が生まれ始めた。ボランティア仲間との関係も続いている。東京という広大な街の真ん中で、もはや僕は以前のようなよそものではなくなりつつあるようだった。

 美崎の眠る故郷の土を踏んだあの日、僕は僕でなくなったのかもしれない。きっと、地獄の日々の中で上京に恋い焦がれ続けた美崎の魂が、僕の心を借りて新世界をのびやかに謳歌しているんだ。──そんな風に感じることもある。

 美崎は現在も発見されていない。自衛隊や消防による大規模な捜索も打ち切られ、復旧した現地はボランティアの手で復興の段階へ進みつつある。美崎ひとりを時間の狭間に落としたまま、世界は破滅を乗り越えて前を向こうとしている。手放しで喜べない苦々しさを噛み締めたことは一度や二度ではない。けれども僕が後ろ向きに未来を生きることを美崎が望むとは思えなかったから、今日も僕は友達と笑い合って、勉強や部活動に打ち込んで、賑やかな都会の息を吸いながら前を向いている。

 美崎は手紙に嘘を書いていたのだろうか。

 たったひとつ今でも残り続ける疑問があるとすれば、それしかない。

 そうではないと僕は思う。そう思いたいだけなのかもしれない。ただ、僕が美崎にとってそうであったように、美崎もまた、僕に勇気を与える存在でありたかったのじゃないかと思う。そうして、いつか遂げた夢を抱きしめて僕に追いつき、かつて畦道の通学路を並んで帰っていた頃のように、大切な人と隣り合える幸せを取り戻したかった。それこそが美崎の願いであり、何をおいても手紙に込めたかった美崎なりの「真心」なのではないかと思うのだ。もちろん込めることの叶わなかった声も無数にあったのだろう。けれどもそれらは日記という形に姿を変え、巡り巡って僕のもとへ届けられた。

 可愛らしい丸文字の手紙を読み返すたび、誇らしげな彼女の笑顔が脳裏へ浮かぶ。その笑顔を糧にして、僕は今日も、明日も、美崎のいない世界を歩き続ける。それは僕だけのためではない。東京に生まれた仲間たちや、故郷に残してきた人々だけのためでもない。そうあり続ける限り、たったひとつの美崎の願いも支えてあげられるからだ。いつか人生の灯が落ちて、彼岸で美崎と再会したとき、胸を張って彼女を抱きしめられる自分でありたい。そこに彼女が存在していることを、全身の力で確かめてやるのだ。

 そのためにも。

 ──それまでどうか、遠くの君が息災でありますように。

 ──願いが叶っていますように。

 真心を込めて祈る声を、口ずさみながら。




──『私の書いたそのままの文字が届いて、きみに伝わる。込めた真心だって無駄にならないと思うんだ』

──『約束だよ。きみの声、聞かせてね』









本作は千羽稲穂さま主催「青春アンソロ2」参加作品に

加筆訂正を行ったものです。

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