第八話:狙撃手と老爺と帽子
十三爺は青幇の暗殺者であるが、同時に道教の道士でもある。
故に占術の類にも長けており、簡易な筊杯のみならず、扶乩も行うことができる。
扶乩と言えば元は降霊術の一種であるが、最近の上海でも流行りであり、善堂と称して社会活動を行う結社や、キリストの霊を呼び出すなどとうたう怪しい結社も多い。
無論、十三爺は道教の作法に則って卜占の審判者たる女仙、紫姑神を降霊し問うている。そう、それ故に。彼は自身の天命が尽きんとしていることを分かっている。そして美蘭はまだ死すべき運命にはないと。
それでも彼女の安全を考えれば昨晩のうちに自宅まで送り届けて、今日は功夫を休みにすべきであった。
だがそれでは時間がないのだ。
十三爺が彼女に残してやれる唯一のもの。
今日の套路に、推手に。今までの教えの集大成を込めた。体術ではなく武術、武術ではなく果ては仙術にまで至る身体の動きを。
今の美蘭にその動きの意味が十全に伝わるとは思っていない。だが彼女がこのまま功夫を続ければ、彼女の才なら必ずやいつかその意味を悟る日が来る。
そして十三爺自身を超える達人になってくれるやもしれぬと信じているのだ。
公共公園を出て十三爺の家へと戻る。美蘭が汗を流してから新式旗袍に着替えるのを待ち、2人は淮海路を散策して買い物を楽しみ、大世界の餐庁で食事を楽しむ。
「爺爺ごちそうさまでしたっ。おいしかった!」
美蘭が十三爺の左腕に自身の右腕を絡めて快活に礼を言う。
大世界の従業員たちも目を細めて2人を見送った。
夜の街を歩く。
「今夜は何か騒がしいね。火事かな?喧嘩かな?」
美蘭がそう呟き、老爺は頷く。抗争のにおいがする。租界の路上で、事務所で、運河で、杜月笙と王東風の配下が衝突しているのだろう。
武に身を置いた人間は殺気を感じられるようになる。
聴勁が極まれば相手の動きが読めるようになる。
それが神仙の領域に足を踏み入れるような達人だとどうなるか。
「萊陽梨め、取り逃したか」
十三爺は夜の街角で呟いた。自身の胸元に光が当たり揺れているのを感じる。彼はそっと美蘭の耳元で囁く。
「阿蘭、わしが合図したらあの木陰に走りなさい」
十三爺は懸鈴樹の街路樹を視線で示し、絡めていた腕をそっと外す。美蘭は何も問わず、微かに頷いた。
十三爺は胸元の光に意識をやる。まだ、照準を覗いている程度……。
光の強まりを感じる。引き金に指をかけたか……。
光の出先を視線をやることなく見る。50m程先、あの窓からじゃな……。
十三爺が感じている光は実際の光ではない。銃を手にしての殺気、あるいは攻撃しようと言う意志を知覚しているのである。上海における無数の裏組織の対立、抗争の中で砲煙弾雨を駆け抜けて身に付けた力であった。
光の揺れがおさまり、光が強くなった。それは正に狙撃手が引鉄に力を込めようという意志。
それを感じた刹那、十三爺は美蘭の腰を押して合図とし、その押す力を利用して半身逆に身体をずらす。光が消え、先ほどまで十三爺の心臓のあった位置を殺意が、力の礫が通過する。
そして銃声が夜の街に響く。
「爺爺!」
街路樹へ辿りついた美蘭が声を上げる。
発火炎と硝煙で視界が奪われる狙撃手にとっては、銃弾が十三爺をすり抜けたように見えただろう。
銃弾を撃たれてから避けることは出来ない。しかし先に動いては照準を再度合わされるだけである。
撃つという意志が発せられたその一瞬を知覚できること。それがこの絶技を可能とするのであった。
次の射撃は頭狙い。膝を軽く曲げて首を傾けるだけで回避。
三射目は慌てたか、十三爺が動くまでもなく外れ、瓦斯燈の鉄柱に火花を散らした。
「漢陽八八式歩槍か。装弾数は5発じゃったかの」
十三爺はそう呟き、被っていたボルサリーノを脱ぐと、左手を前に伸ばし、腰を落とす。
帽子を持ったまま推手の構えを取っているかのようだ。
「爺爺?」
「我が弟子、美蘭。聴勁と歩法と化勁を極めよ。さすれば歩槍程度は恐れるに足らずじゃ」
十三爺が腹に光が向けられるのを感じた時、十三爺は身体を捻りつつ帽子を持った手を振った。
それは熟練のマタドールが闘牛をいなすような動きにも見えたかもしれない。
銃声が響けどもどこに当たった気配もしない。
再度帽子が振るわれる。銃弾が消失しているかのよう。
美蘭は理解した。纏絲勁を伴った化勁。十三爺はあんな帽子で歩槍の銃弾を打ち払っているのだ。
「まあ、この帽子は霊宝みたいなもんじゃがの」
十三爺は帽子をひっくり返すとちらりと内側に貼られた呪符を美蘭に見せつつ、二発の銃弾を手にとってから頭に戻す。
そして老爺が銃弾を握り、一発を親指の爪で弾くと、遠くから男の悲鳴とどさりと人が倒れる音がしたのだった。
「指弾……!すごい!」
美蘭の称賛に、老爺はにやりと笑ってみせた。
そして夜闇を切り裂けと言わんばかりに声を張り上げる。
「王東風!いるんじゃろう!出て来い!」