第六話:闘いの前夜
「そうかね、青帮の者が阿蘭を襲ったか」
あの後、美蘭は自宅へと戻らず、十三爺の家へと走ったのであった。そうして先程の襲撃について説明した。
老爺はそれをじっと聞いて、そう呟くと美蘭の手を取った。深い皺の刻まれた、乾き切った大地を思わせるような手で。
瑞々しい彼女の手は僅かに震えていた。
「まずは良く戦い、良く無傷で帰った。
多対一、しかも刃を向けられて冷静に対処できるものはまずおらん。わしは我が弟子、美蘭を誇りに思うぞ」
美蘭はこくりと頷く。
「その上で謝らねばならん。恐らくじゃが阿蘭が襲われたのはわし絡みの青幇のごたごたよ。巻き込んでしまってすまなんだ」
「そんな、悪いのはあいつらで爺爺は悪くない……!」
十三爺はゆっくりと首を振る。
「因果応報というものよ。わしが青幇で単に腕っ節の強い男として働いていたのではないということくらいわかっているじゃろう?」
老爺が自分のことを青帮の暗殺者であると直接伝えた事は無い。だが無論、美蘭は十三爺の功夫が尋常なものではないと知っている。そして彼の組織が暴力と非合法活動によって夜の上海を支配していること、十三爺が組織の者達から明らかに敬意を以て遇されている事が何を示しているかは自明の理であった。
「うん……でも……」
「阿蘭の爸爸たち、つまりわしの子供や孫たちはなあ。みぃんなわしや青幇から距離を置かせていたのよ。
じゃが阿蘭だけはちっこい時からわしに良く懐いて離れんでなぁ。武の才も豊かでついつい教えてるうちにこうして巻きこんでしまった」
「爺爺。わたし爺爺から武術を教わってるの幸せよ」
老爺の目が細められる。そうか、そうかと頷く。
「今日は泊まって行きなさい。阿蘭の爸爸には連絡しておこう」
十三爺は二階に行き、美蘭の家に電話をかける。義理の娘に美蘭を週末預かるという旨と、日曜日の夕方に迎えに来て貰う旨を伝えて階下に戻ると、鍛冶屋の李と美蘭が話していた。
李は驚いた顔で十三爺を見る。
「おお、スーサンイェ。今日は阿蘭もいたのかい?」
「李さんはこんなに遅くどうしたの?」
「ん?えーと……」
「麻雀じゃよ。たまに遊びに来てもらってるんじゃ。
李よ、他の連中が来たら先に始めて貰ってくれ。わしは阿蘭とちょいと話をしてくるでな」
十三爺は美蘭を二階の客室に行かせる。そこはもう美蘭の部屋とも言える場所で、彼女の私服や私物が置かれていた。
夜食用に用意してあった食材にさっと火を通して炒飯と青椒肉絲を作り部屋へと持ち込む。
「わーい、爺爺いただきまーす!」
十三爺は美蘭が食べている間に自室より短冊状の紙片を持ってきた。
「阿蘭、これをやろう。阿蘭が危機に陥ったとき、勁を込めて書かれた言葉を唱えると良い」
「お札?えーと、きゅーきゅーにょりっりょー?」
「ああ、そうだ。急急如律令。お主が武で切り抜けられぬ事があったとき、これをかざしてそう唱えると良い。
わしの最後の勁の籠められた呪符よ。わしが阿蘭に遺してやれる唯一のものじゃ」
「最後って?」
「わしももう歳でな。勁を練る力が衰えておるのよ。
さあ、今日は疲れてるじゃろう、もう寝なさい。下は煙草や阿片を吸ってしまうから近寄らんようにな」
「はーい、お休みなさい。爺爺、ありがとね」
老爺は手を上げてそれに答えると、階下に向かう。食堂の壁の柱時計を開け、針を零時に動かす。すると床がずれ、地下への階段が現れた。一面に穴が開いている。隠し扉だ。
そこを進んだところの秘密の部屋。そこに先日の面々が集まっていた。
「さて、全ての部品は完成させたしのう、あとは取り付けを残すばかりじゃ。
李よ、鎧はどうじゃ?」
「ええ、出来ていますよ」
部屋には巨大な2つの人影が壁に凭れ掛かるように座していた。
いや、それは人ではない。壁に寄りかかって座っているにも関わらず、その頭の高さは老爺たち誰よりも高く、そして生きている気配がない。微動だにしないのだ。
1つは甲冑であった。明光鎧だ。漢末から唐代にかけて将が着用していた鎧。胸と背を巨大な円形の鉄板で護り、全身を鉄片で覆った全身鎧である。
もう1つは奇妙な構築物であった。人間の全身骨格を模したような鋼鉄の身体。それは無数の配管や歯車で覆われていた。そう、つい数日前に彼らが食堂で作っていた右腕はこれに取り付けられていた。
全身を覆う配管は本を辿っていくと一箇所に集まっている。人間で言えば骨盤の上、下腹部に当たる部分。そこには蒸汽機関が設置されていた。
「いやはやしかし、こんなものが動くとは信じられませんなぁ」
道士服の男が呟く。
十三爺は蒸汽机を煙管で指し示した。
「なぁに、こいつだって五行の力で動いてるじゃねぇか。こいつの丹田炉を見てみろよ。まず石炭、土が火を起こすだろう。その火が水を沸騰させるな」
次いで脊髄を叩く。そこから全身に走る管が通っている。
「水は水蒸気となる。つまり風の力、五行で言えば木よ」
そして腕を叩いた。
「木の力で鋼、つまり金を動かしているだろう」
道士の顔に感心が浮かぶ。
「なるほど、確かに」
「五行の相克、相生じゃあねえ。木火土金水じゃねぇのよ。新しい流れだ。土火水木金よ。時代は変わってくんだ、頭が堅いと置いてかれるぜ」
道士は頭をかき苦笑する。
「いやはや、教主が学んでこいというのがわかりますわ。
ご老人の方が頭が柔らかいとは」
老爺はにやりと笑い、皆に声をかけた。
「良し、甲冑を取り付けていってくれ」
「しかしこれでは可動式の人形にすぎません。どうやって動かすのです?」
骨格に鎧を装着しながら法国人技師が尋ねる。
「どうすると思う?」
「英国のバベッジ卿が発明した階差機関が完成・発展し、小型化されるのであればそれを脳に取り付けることも可能かもしれません。現状では難しいでしょう」
「そのためのこいつよ」
十三爺は呪符を机の上に置いた。それは先ほど美蘭に渡したものと同じ符であった。