第五話:今日は週末
徐美蘭は学校一の美人として有名である。
そして美蘭は学校一の奇人としても有名である。
朝、誰よりも早く登校し、庭の紫玉蘭の木の下で套路を行なっている女生徒である。たまに集中しすぎて一番早く学校にいるのに授業に遅刻する。
授業中に少し震えていることがある。よく見ると、座っているフリをして腰を浮かせて足腰を鍛えている。
休み時間に站樁功の姿勢で立っている。
昼、食事を上品にかきこむと、すぐに外に出てまた套路を始める。
無論、放課後もだ。たまに拳撃部のサンドバッグを叩いているのも見かけられるが、常に学校が閉まるまで身体を動かし続ける。
登校初日に告白を受け、「わたしより強い男が好きだ」と宣言し、その場にいた男たち10人を連続で倒した。その後一年間で不良生徒達もその頭も、勧誘に来た拳法部の部長も拳撃部の部長も、果ては体育教師や、学校にのりこんできた不良生徒の親の黒帮者まで倒したという女傑である。
新入生たちはその話を聞かされて笑うが、数日もするとそれを本当だと理解する。いつ見ても、そうたとえ雨の日だろうとも彼女は紫玉蘭の木の下にいるし、付近の芝は踏まれて枯れ、土が剥き出しとなっているからだ。不良生徒が目を合わせぬよう小走りで彼女の前を通るのを見るからだ。
そんな美蘭であるが、特に女生徒からの人気は高い。そもそもこの学校の悪餓鬼共を全員のして、この学校を上海で最も治安の良い場所にした人物であり、見目麗しく、その性格もさばさばしていて気風の良い人物とくれば当然であろう。
粉絲倶楽部ができ、毎日違う娘が套路の後には毛巾や飲み物を差し入れ、放課後になればお腹を空かせている彼女に飴玉や包子が差し入れされていた。
美蘭が学校から帰る頃、つまりもう夕方も遅くなった時間である。美蘭はこの時間が好きだった。
陽射しは地平線に沈まんとし、街は紅に染まる。家の明かりが、瓦斯燈が、霓虹燈招牌が灯されていき、天の明かりに代わり地が輝いていく。
特にもう週末が近い。明後日になればまた爺爺と散打ができる、この一週間の成果を見て貰わないと。そう思うだけで疲れている足取りも軽くなる。
だが今日はそこに無粋な声がかけられた。
「よう、お嬢ちゃん、ちょっと付き合ってくれねぇか?」
淮海路。懸鈴樹の並木道が美しい法国租界のメインストリートから一本折れて自宅の方に向かおうとした時、歳の頃は20前後のチンピラ2人が歩道を塞いでいた。そのうちの1人が声をかける。
「嫌よ」
「ああん?なんだとてめえ!」
「あなたたち、弱そうだもの」
男の恫喝にも眉一つ動かさず美蘭は答える。腰に左手を当てて立ち、右手で順に肩に触れる。十三爺より教わった、青帮の所属を示す符丁の1つだ。
「なんだと!女、なめた口きいてんじゃねえぞ!」
彼らからは符丁による返答がない。だが、もう一人の男がびくりと肩を震わせるのを見た。
なるほど?美蘭は思う。彼らはただのナンパや誘拐ではない。爸爸の公司か、爺爺狙いかは分からないけど、少なくともわたしが徐美蘭だと分かった上で襲撃をかけていると。
よく見ると話しかけていない方の男の胸元が膨れている。手槍を隠し持っているのだろう。
美蘭はにこりと微笑んで見せると、ちらりと視線を右にやり、正面にいる男の視線を右に誘導しながら左に踏み出した。十三爺の言葉を思い出す。
『阿蘭は目がぱっちりとした美人さんじゃからの。ちょいと微笑んで視線をずらすといい。そして視線と逆方向に踏み出すんじゃ。それだけで相手の視線を切り、守りを崩せる。実戦じゃあこの上なく有効よ』
その通りになった。さらに相手の視線が戻るのに合わせて沈み込むような歩法で視界から逃れる。およそ男は美蘭が一瞬で眼前から消失したような気分を味わっているだろう。ぎょっとした表情の男の懐に潜り込むような位置から伸び上がって単鞭、手を鉤手にして目のあたりを擦るように打つ。
「ぎゃっ!」と悲鳴が上がり目を抑える男。
重力に逆らわず伸び上がった身体を沈め、腕を横に伸ばして掌を男の腹に押し付けるようにして震脚。ダン!と足裏が石畳を穿つ音。
無防備な身体に万全の勁力の乗った掌打。破城槌でも打ち付けられたかの如く、くの字になって男は吹き飛び、後ろの手槍を持つ男を巻き込んで懸鈴樹の並木にぶつかり倒れた。
太極拳の歩法は留まることなく美蘭の身体を動かし続ける。彼女が意識するまでもなく一連の流れとして振り返った身体は背後から襲い掛かろうとしていた3人目の男に相対している。
男の手には小刀、左右に振り回されるそれを後退しつつ避け、避け、避ける。そして間合いを保ち縦に振ろうとしたその刹那、逆に前に出て左手の甲で男の手首を叩くように外側に受け流す。
それは極めて軽い動きに見えたが、勁の込められた一打は男の手首を砕く。
「あ?」と間抜けな声と共に小刀を取り落とし、美蘭を見つめる男。
彼女はにっこりと微笑む。
「ふふん、功夫が足りないわね」
すらりと脚が天に向けて伸び、男は石畳に沈んだ。