第四話:男たちの大世界
同刻、大世界、餐庁
霓虹燈招牌が煌々と輝く不夜城、大世界。
演芸場、餐庁、酒家、娼館、賭博場、阿片……、合法非合法を問わずあらゆる快楽を取り揃える、法国租界における、いや上海随一の娯楽の殿堂である。
それを建築し、その運営に深く関わる秘密結社が青幇だ。
元は北京から杭州を結ぶ京杭大運河の水運業を取りまとめる組合であった青幇であるが、この上海においてその性質を変えた。
阿片戦争後、大運河における水運業が不要となり水夫たちは露頭に迷うこととなったためだ。
一方、上海は1800年代後半より列強諸国の租界として急速な発展を迎えた。そこに流入した各地の流民たち。彼らは同門ごとに結託し組織を作り上げた。血を血で洗うような抗争、組織の対立と吸収・合併。
結果、上海には青幇という組織が残ることとなる。非合法の地下組織として。阿片、賭博、売春。これら事業で莫大な金を手にし、彼らの影響力はもはや地下社会に止まらぬ。
法国租界は青幇の縄張り、そこでは非合法活動のみならず、行政、軍事、警察、銀行、果ては慈善事業まで。ありとあらゆる場所に手が伸びるのだ。
杜月笙は果物屋の丁稚から青幇へと入会し、頭角を現した人物であり、40を過ぎた今や青幇を統べる三大頭目の一人にのし上がった暗黒街の顔役である。
大世界の高級餐庁を貸し切り、別の男と差し向かいで酒を飲む。無論、壁際には双方の護衛が並んでいるが。
彼は縦長で脚のついたグラスの台座を持ち、注がれた赤い液体を枝形吊燈にかざす。
「シャトー・オー・ブリオンという法国の葡萄酒だそうだ。先の世界大戦前の当たり年という貴重なものらしい。
新任の警察署長からの付け届けだ。一緒に飲もうじゃないか」
「は。い、いただきます」
向かいの男から返事が返る。
杜月笙は豊潤な香りを楽しみつつ葡萄酒を口にしてグラスを机に戻すと、改めて向かいに座る男に視線を向けた。
「さて、王東風よ。申し開きはあるか」
向かいに座る一回り年上の男は、暑くもないのに額から汗を垂らしながら答える。肉の肥えた男であり背広が内より膨れ上がっている。しかし汗の原因は肥満体によるものではあるまい。
「いえ……そもそも何故呼び出されたのか……」
しどろもどろの言葉を遮るように杜月笙の言葉が継がれる。
「しらを切るか。まあいい。今のところお前はまだ何もしていない。
ただ、しばらく前に河岸のお前の倉庫で火災があったな」
「は、はい。幸い死者は出ず、延焼もせず、小火で済みました」
「そうだな。幸いだった。その割には、その後、随分と荒れていたみたいじゃないか?
酒家と娼館の手代から苦情があがっていたぞ。火事で大切なものでも壊れたのかね?」
杜月笙の言葉に王東風の身体が僅かに震える。
「い、いえ……」
「小型蒸汽船」
さらに身体が大きく揺れる。
「金三角の阿片を法属印度支那を経由して南海に。
新型の蒸汽船で秘密裏に輸送して上海で捌くつもりだったか?」
額より流れ落ちる汗が背広に染みを作っていく。手巾を取ろうとして懐に手を入れた刹那、壁際の護衛たちが一糸乱れぬ動きで手槍を抜き、黒く輝く銃口を王東風に向けた。
手にする手槍はモーゼルC96、徳意志国の有名な手槍であるが、上海においてはその意味が異なる。青幇の息のかかった軍事工場で模造品が大量に生産され、組織に横流しされているのだ。
王東風はゆっくりと懐から手巾を取り出して額の汗を拭う。
杜月笙が手を上げると、護衛たちは手槍をおろした。
「誤解です、頭目。そのようなことは……」
「お前はこの杜月笙が裏付けも取らずに話していると思ってるのか!」
覇気に満ちた一喝が空気を揺らす。
けひゅ、っと王東風の喉から空気の漏れるような悲鳴が上がる。
「俺はまだ餓鬼の時分にお前の親父の世話になった。そしてその借りを返す前にお前の親父さんは死んでしまった。
借りは王東風、お前に返すしかない」
顔面を蒼白にした男の顔に血の気が戻る。
「組織の裏切り者、つまり幇規・十戒を破った者には死を以て償って貰うしか無い。
そのために俺が懐刀を抜いてお前の倉庫を襲撃させたのよ。誰にも、他の頭目にも気付かれないようにな。お前の裏切りを知ってるのは俺と俺の腹心とその懐刀だけだ」
こくこくと壊れた玩具のように男は頷く。
「身の振り方を考えな。大人しくしてりゃあ、水に流してやるよ。……だが、次はねえぞ。分かったな」
這々の体で王東風は餐庁を後にし、下りのエレベーターの中で呟く。
「クソっ」
大世界を出て最新の自動車、黒塗りのプジョー201の後部座席に乗り込み叫ぶ。
「クソっ、クソっ!、クソっ!!」
「王大哥落ち着いて下さい」
部下が諫めるが、王東風は止まらない。
「何が裏切り者だ!俺が俺の金で造らせた船で稼いで何が悪いってんだ!
クソっ!張!てめえやっぱりあの火事、事故じゃ無かったじゃねえか!
懐刀にやらせただと?クソっ!何処の何奴だ!」
張と呼ばれた男は王東風に叩かれながらも答える。
「杜頭目が懐刀と呼ばれる中で、警備の誰にも気付かれずに侵入し、船を壊し、火をつけて帰れる方。
……十三爺老師しかおられますまい」
「徐十三爺か。ヨボヨボのジジイじゃねぇか!
あんなのとっととぶち殺してこい!」
「無理です、大哥!それに杜頭目に大人しくしてろと言われたばかりじゃねえですかい!」
「うるせえ!俺がやれといったらやれ!」
上海の夜に男の罵声と悲鳴が響いた。