第二話:功夫
十三爺がジャケットに着替えて杖を小脇に抱え部屋を出ると、美蘭もまた生成りの綿の拳法着に着替えていた。
鏡の前、先ほどは垂らしていた髪をくるりと頭の左右で団子に纏めている。
「おや、新式旗袍はいいのかい?」
「うん、これから汗かくの分かってるもの。クローゼット借りたよ?」
十三爺は頷くと、彼女が髪を整えるのを待って玄関を開ける。このあたりは中国人街に程近い法租界の閑静な高級住宅地であるが、ひょいひょいと車を避けつつ大通りを渡って中国人街に入ると、建物も人も急に雑然とした雰囲気となる。
狗や鶏の臭い、鳴き声。人々のざわめき、吐瀉物の臭い、料理の匂い。阿片や煙草の煙。
中心部へと近づくに連れて喧騒は大きくなり、市場にてそれは最大となった。
「スーサンイェ!夜そっち行くぜ!」
時計屋の店主が声を投げる。
「おはよう!スーサンイェ!メイランちゃんも!」
八百屋の店主も。
「スーサンイェ!また若いの連れて遊びに来てよ!」
仕事上がりの若い娼婦も。
街をゆくもの皆が十三爺に声をかけていく。
上海人はシーの発音が苦手だ。十三爺の名前を正確に発音できず、皆がスーサン、スーサンと呼び慕う。
老爺はそれに軽く手をあげて答えた。
「楊おばさん!油条ちょうだい!2つ!」
「はいよ!」
美蘭は恰幅の良い女店主から油条を2本手に取り、十三爺は隣の店から包子を手にする。また2人は別の店で羹を頼み、温かいもので腹を満たした。
彼らは黄浦江まで出て川沿いに北上、朝日を受けて煌めく水面を鷺が滑るように飛ぶのを横目に歩いていく。
港湾労働者たちが忙しなく働いているが、十三爺を見ると荒くれ者の連中が頭を下げて道を譲る。労働者の顔役は2・3言老爺に話しかけ、仕事が手隙で暇な連中は二人の後を追って外灘の公共花園へと向かう。
公共公園は数年前までは中国人の立ち入りが禁じられた場所であったが、今や彼らにも開かれているのである。
テニスコートや四阿の脇を抜け、川縁の芝生へと向かうと二人は気息を整えて並んだ。
美蘭が左手を開手、右手で拳を握って合わせる抱拳礼を取って十三爺と正対し、老爺もまた同じ姿勢でそれに答えた。
「では師父、お願いいたします」
「うむ」
2人はゆっくりとした動きで太極拳の套路を始める。くっついてきた連中も見様見真似で2人の動きを真似始めた。
長江の流れのように緩やかで雄大な動き。頭頂から爪先まで充実した気功。周りの者も似た様な動きをするが、見るものが見ればその動きの本質の違いは明らかであった。
美蘭には武に関して天賦の才がある。十三爺は強く感じる。それも生半可なものではない。
もう半世紀以上昔の話、学も無く喧嘩に明け暮れていた餓鬼が、道観、道教の寺院に預けられ拳法を学んでいた頃を思い出す。そしてどう考えても当時の自分より上だと十三爺は思う。後に上海最強の拳法家と言われた男がである。
套路の次は推手、互いに向かい合って左手の甲を触れあわせる。聴勁、触れている部分から相手の動きや思考、気の通りを読みとり、虚実を交えながら互いに技をかける訓練。
定められた型をなぞる套路において、美蘭の動きはすでに十三爺のそれに匹敵しかねない。もちろんそれは師父たる老爺の優秀さを示すものでもあるが。
しかし、経験の重みを要する聴勁において老爺は、まだまだ美蘭より遥か高みにいる。
美蘭の手首がぴく、と微かに動いただけで老爺はそこから起きる攻撃の流れを何手先までも読み切り、僅かに体勢を変える。
それだけで美蘭の技は無駄になり、あるいはそもそも技をかけられなくなるのだ。
故に続く散打、自由な打ち合いにおいて。美蘭の動きは風の如く速く鋭く、炎のように苛烈。対する十三爺の動きはずっと遅く弱々しい。
しかしそれは動きを極限まで突き詰めて、勁の通った動きをしているだけだ。
遅いのでは無い。速い必要が無いのだ。
弱いのでは無い。無駄な力が無いのだ。
美蘭の攻撃をすり抜けるように密着し、胴に手を当てただけで吹き飛んでいるように、いっそ素人目には美蘭が一人で攻め、一人で数米の距離を吹き飛んでいるようにすら見える。
結果、散打は三度行われ、三度とも十三爺が勝った。
地面に倒れた美蘭は座り直すと姿勢を正し、手を突いて頭を下げる。
「ありがとうございました、師父」
「うむ」
十三爺が礼に応えると、美蘭は身を起こし、そのままごろりと後ろに倒れた。汗が芝生に染み込んでいく。
一方の老爺は汗1つかいていない。
雲一つなく、吸い込まれるような蒼天に向かって彼女は叫んだ。
「また爺爺に勝てなかったーーーっ!」
周囲から笑いと拍手が沸き起こる。
「嬢ちゃん良くやった!」「頑張ったぞ!」
この1年、毎週晴れも雨も休むことなく、日曜日の午前中から昼過ぎにかけて2人で功夫を行なっている。十三爺が達人であるのはこの街の誰もが知るところであるが、美蘭の腕前がめきめきと上がっているのもまた誰の目にも明らかであった。
「あーあ、明日からまた学校だよ。嫌だなー。もっと功夫してたいのに」
「仕方あるまいよ、わしの頃とは時代が違う」
「ちぇー」
十三爺はにやりと笑みを浮かべた。
「とは言え阿蘭。学校に通ってる割には套路と筋力の鍛錬が順調すぎるんじゃぁないかね?」
びくり、と美蘭が身を震わせる。
「学校はサボらず、学問も身に付けるんじゃぞ。友とも良く遊び、良く飯を食え。じゃよ」
「はーい。じゃあ良く飯を食べたい!」
手を上げてそう言葉を放つ美蘭に十三爺の相好が崩れる。
「好。家に戻って水浴びしたら法国菜肴でも食いにいくとするかい。
せっかく新式旗袍で来てくれたんでな。正装でないと行けない店に連れて行ってやろうかね」
「やったー!楽しみっ!」