第十話:今こそ立ち上がれ
十三爺の身体がゆっくりと傾き、地面に仰向けに倒れた。
刀が抜かれ、胸から鮮血が吹き出しシャツが真紅に染まる。
「爺爺!」
美蘭が駆け寄ろうとするが、十三爺の視線が美蘭をそこに縫いとめる。
口が僅かに「行きなさい、阿蘭」と動いたように見えた。
美蘭は身を翻し走りだす。瞳より零れ落ちた水滴がその場に取り残されて落ちた。
衝鋒槍を撃ちマガジンを交換しようとしていた男の1人が立ち塞がろうとするが、青の新式旗袍の切れ込みから白く輝く太腿が露わとなり、夜闇を切り裂く。
分脚、爪先での蹴りが男の鳩尾へと突き刺さり、崩れ落ちる男の横を駆け抜けていった。
走り去る美蘭に法国人の警官が手槍を構えるが、背後のそれが見えているかのように街路樹と瓦斯燈を巧みに遮蔽とする。
警官は舌打ちして手槍を下ろす。
「追うぞ!」
王東風の声が響いた。
左手で涙を拭いつつ走る。手槍の射線から身を隠すように、街路樹や瓦斯燈を縫うように、曲がり角では小道に入り、追手を引き離す。
彼女の足は自然と十三爺の家へと向かう。逃げ場を求めて。
だがそれは失策であった。まだ若く、実際に組織の抗争を経験している訳でもない彼女を責めるのは酷であろうが。
「別動隊……!」
考えれば当然の話である。王東風が十三爺の鹵獲した蒸汽船を求めていたというのであれば、住居に兵を差し向けるであろう。
「ターゲットの徐美蘭が来たぞ!」
「止まれ!」
王東風の配下が気づき、彼らが手槍をこちらに向ける。身を翻そうとするが、背後からも足音。逃げ場はない。十三爺の家、玄関の前にて美蘭の足が止まった。
横手から自動車のヘッドライトが美蘭を照らす。エンジン音を響かせながら黒塗りのプジョー201が停車した。
「ははっ、しょせんは小娘。やはりここへ逃げ込もうとしたか」
周囲を囲まれる美蘭に、後部座席から窮屈そうに降りてきた王東風の声がかかる。
無数の銃口で周囲を囲いながら王東風は美蘭の首元に手をやる。
「どうする、俺の女となるか?そうすりゃ殺さずにいてやろう」
「屠殺前の豚に下げる頭はないわ」
「クソアマっ!」
美蘭の言葉に王東風は新式旗袍の詰襟を掴んで引き倒した。地面に倒れ込む際に大襟の釦が弾け飛び、形の良い胸が露わとなる。
手にしていたホワイティング・アンド・デイヴィスのメッシュバッグが落ち、ガマ口の金具が開き中身を散乱させた。財布やハンカチ、そして呪符。
「あぁ?なんだそりゃ」
美蘭はそれに飛びつくように拾い上げると、片膝をついて左手で胸を隠し、右手で王東風に呪符を突き出して構えた。
「……徐十三爺が残勁を込めた呪符よ」
奥に控えた張子豪の肩がびくりと動く。王東風はにやりと笑みを浮かべた。
「はっ、お前の爺はもう死んだ!そんなものが何の役に立つと言うのだ!
使ってみろ!だが何も起きなければどうなるかは分かっているだろうな!」
美蘭は震える声で唱えた。
「急急如律令!……助けて……爺爺」
札が青白く光り輝き、浮かび上がって舞う。そして消えた。
「く、くくく、くあっはっは!」
王東風が呵呵大笑する。
地下室。
光り1つない暗闇の中、虚空より札が現れる。
ぼんやりと発光する札に照らされて闇に浮かび上がるのは、壁に凭れ掛かる巨大な甲冑。
蒸汽機関機器人、『太極號』だ。
瞼譜のような仮面に札が近づいていく。
札がその額に触れるとそれは顔に張り付いたように固定され、太極號の眼が赤く輝く。
動かぬ仮面の口より無機質な声が響く。
『封魂魄符の設置を確認』
鋼の鎧の下、全身の骨格に、部品にと刻まれた呪文が、顔から脊髄、脊髄から全身へと光を放つ。
光は腹部、丹田に位置する蒸汽機関に至る。機関の正面には道教の象徴たる白と黒の陰陽魚太極図が刻まれていた。
『陰陽魚、陽。魂の存在を確認』
文様の左半分、白の部分が光を放つ。
『陰陽魚、陰。魄の存在を確認』
文様の右半分、黒の部分が光を放つ。
『太極機関、駆動開始』
船舶用蒸汽機関を改造して作られた、太極機関に火が入る。既に設置されていた石炭が赤熱し、水が加熱、沸騰を始めた。
『徐十三爺の再現を開始します』
全身のピストンがクランクが歯車が。金属の擦れる音を発しながら蒸気が全身を駆け巡る。首元に巻かれたマフラーのような金属管から高音と共に蒸気が噴出した。
全身が動きだす。
『封魂魄符、徐美蘭による使用。状況:緊急』
その右手が膝の上に置かれていた黄金に輝く面甲を取り、装着する。呪符と紅の仮面は隠れ、その顔は武将の顔を模したであろう、憤怒相の勇ましい髭面。
『太極號、始動』
左手は地面につけられ、ゆっくりとそれを支えに膝立ちとなる。陸上のクラウチングスタートにも似た姿勢。
『発進準備』
部屋の明かりが点灯した。
壁際にうずくまる巨体が浮かび上がる。身体は漆黒。その上を時折、呪文が鈍く光り、全身に纏う明光鎧は赤銅色。丹田の陰陽魚が蒼白く輝く。
頭部には兜、そして憤怒相をした黄金色の面甲、その奥の眼光は燃えるような紅。襟元のたなびく布のような形状の排気管からは煙と蒸気が吐かれる。
腰には柄尻に紅い飾り房の太極剣。その長さは巨体に応じたもので、2m近い。
太極號の足元の床が正方形に10cmほどせり上がり、地下室の入り口の階段が坂となる。地面と坂が割れる。
割れ目は太極號の足元から真っ直ぐ伸び、坂となった階段の中央を通り家の中へ。射出機だ。
『発進』
床から蒸気が噴出し、轟音と共に太極號が激しく撃ち出された。




