第一話:老爺と孫娘
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上海蒸汽朋克姑娘
――1930、上海
精緻な螺鈿細工の施された煙管から、老爺は深く息を吸い、吐く。
ルネ・ラリックの意匠による硝子製の常夜灯のみが灯る暗い部屋の中、老爺の窄められた口から吐かれた紫煙が空間を染め、闇へと融ける。
老爺の名前は徐 十三爺。
柱時計の歯車の音と、彼の呼吸音のみが静寂に木霊する。
「爺爺、入るよー」
その静寂を破るは胡桃材の扉を叩く軽やかな音と、扉の向こうでくぐもって聞こえる若い少女の声だった。少女は返事も待たず気さくな様子で扉を開け、部屋に踏み込むやいなや、部屋が煙っているのに大きく噎せこんだ。
「もー、また朝から阿片なんて吸って。死んじゃうよ?」
「おはよう、阿蘭」
「おはよう、爺爺。窓開けるよ」
そう言う少女、徐 美蘭は十三爺の一番下の息子の娘である。歳は十六。
彼女ががたがたと雨戸を開けると朝の陽射しが闇を払い、老爺は目を細めた。そのまま開け放った窓からは爽やかな風が吹き込み、部屋に篭った阿片と老人独特の臭いを吹き飛ばしていく。
「今日はずいぶんと可愛い服を着ているね」
「えへへ、ありがと」
美蘭が着ているのは青く染められた絹地の衣装、全体に彼女の名を示すかのように精緻な白い蘭の刺繍がなされている。
首元は詰襟、布地は肩の真下でばっさりと落とされ、すらっと健康的な白い二の腕を晒している。生地は身体に密着し、この年頃の少女にしては肉感的な隆起と括れを大胆に表現していた。
連衣裙の衣装は足元へと伸びて踝付近までを覆っているが、側面では大きく切れ込みが入り太腿を覗かせていた。
「ふむ、新式旗袍というやつかね?」
美蘭は窓際に立ち、くるりと回転して見せた。
彼女の長い黒髪と新式旗袍の裾がふわりと持ち上がって元に戻った。十三爺はベッド脇の灰皿に煙管を置いて言う。
「最近の流行りじゃな。大世界あたりに行けば、よく見かけるがね。
それにしても……ずいぶんと切れ込みが深いじゃぁないか」
十三爺は瞠目してみせる。通常の新式旗袍の切れ込みは膝上の辺りまでだが、美蘭の着ているそれは腰元まで切れ込みがある。初めて見る意匠だ。
彼女はふふんと得意げな笑みを浮かべると、
「哈っ!」
と気息を上げて右脚を蹴り上げ、爪先を右手で受け止めて快音を響かせた。
剥き出しの脚が朝日に照らされて白く輝く半円を描く。
今度はゆっくりと右脚一本で立ち、左脚の腿が胸に付くまで上げてから左足裏を見せるように横に伸ばす、転身左等脚。そして脚を下ろし右脚に重心を載せた状態から身体を沈め、左脚を伸脚運動するように左下勢独立。
太極拳の套路から大きく開脚するところのみを抜き出して行う。
「いざという時にちゃんと蹴打ができるように注文したのよ!」
「くかか、お転婆め」
十三爺は歯を見せて笑った。
「でも爸爸ったらこの服がはしたないとか言うのよ!」
信じられない!と続けながら、彼女は父親の顔を思い出したのか不機嫌を露わにする。
「かかか、そりゃあ奴としては阿蘭に悪い虫が付いて欲しくないのよ」
「爺爺もこんなの着ちゃダメって言う?」
美蘭の瞳が一瞬不安げに揺れる。
十三爺はそれに答えず、美蘭に向けてゆっくりと左手を伸ばす。掌を上に、中指と親指で摘むような形を作ると、大きく指を鳴らした。
入り口脇の帽子掛けから灰色の中折れ帽が宙を舞い、美蘭の頭にすぽりと収まる。
「わしが道教の道士でありながら、洋装を着ているのを美蘭はダメと言うかね?」
「……!ううん!」
美蘭は嬉しそうに微笑み、首を横に振った。
「よっこらしょ……、じゃあ着替えるから外で待ってなさい。
朝食はまだなんだろう?屋台で食事でもしてから公共花園に行こうかね」
十三爺がゆっくりとベッドから立ち上がりながらそう言うと、美蘭は、はーいと元気に答えながら、中折れ帽を胸に抱えてぱたぱたと扉に向かう。
「わたし楊おばさんの油条がいい!」
彼女はそう叫んで扉を閉じた。十三爺は笑みを浮かべて頷くと、寝間着を脱ぎ、白のシャツに袖を通していく。
「ごほっ……がっ……!」
着替えの最中、大きく咳き込むと枕元にあった毛巾を掴み口元にあてる。
咳が収まるまで暫し。口元から離したそれは紅に染まっていた。
十三爺は屑籠にそれを投げ捨てると、水差しから直接水を口にし、漱いでから飲み下す。
「やれやれ、間に合うと良いんだがな」
そう呟くと、ドーメルのスポーテックス、法国製のジャケットを羽織って新たな毛巾を手にし、部屋を出た。