CASE22「死搦-シガラミ-」
「おねがい早く助けに来て」
渡が言い終わらないうちに、電話越しの彼女は切迫していた。
喘鳴がノイズに入交り、鼻をすする音も聞こえてくる。
渡は脊髄反射で飛び起きると、頬と肩にスマホを挟み込んだまま最低限の身支度をする。
コップ一杯の水を飲んだ彼は、続けて庵に質問した。
「……物取りか? 警察は呼んだか?」
「ちがう!! いま、今家にいるの……け、警備の人が死んじゃって……やばい来てる……」
冗談ではない彼女のひっ迫ぶりに、渡は全身の寒イボが逆立つ感覚に襲われた。
また日常に異常が入り込もうとしている。まるで間男かゴキブリのように。
ひとしきり話した彼女は、渡の質問に答えずに一方的に通話を切った。
どこの誰ともしらない、あるいは「誰」ですらないものに、
平和を脅かされることへの強烈な拒否反応が全身にアドレナリンを送り込む。
許せない。背中を駆け上る煮えたぎる血潮が彼の怒りを
トップスピードへ誘う。彼は鍵も掛けず、着の身着のまま半袖のジャージ姿でサンダルに
足をねじ込み、アパートを飛び出した。
「アイツの親父さん、相当有名だしな。
美術品泥棒なら最低でも作者は殺さないはず……。
映画の『ミザリー』でも拉致監禁しただけし……」
渡は道路に出ると夜空を見上げた。空は月がない。新月だった。
なのに、街頭の有無を除いても異様に明るい。すでに怪奇現象は街を包みこんでいた。
「でも『ミザリー』は人間の話だ……。
相手が人間ですらなかったら叔父さんはどうなる……?」
彼はそのサンダルに氷を纏わせ、即興のスケート靴を生み出した。
彼の生成する氷のスピードスケートは普通乗用車程度の速度が出せる。
住宅街の深夜にそんな速度を出すのは自殺行為だが、
唯一無二の親友の危険に比べれば屁でもない。
さらにスマホを開き、電話をかける。彼は一瞬夏樹に掛けようか悩んだが、
警察を選んだ。その判断に、我ながら子供っぽいとも彼は思いつつも、
日常での当たり前の判断を優先した。
「事故ですか、事件ですか」
警察に電話がつながると社会が機能していることを再確認できるようで
安心する。渡はそう思いながら、焦る気持ちを抑え事情を説明した。胸に手を当てて
頬を膨らませ、長めにフゥーと息を吐き呼吸を整える。
「多分……両方です。親友んちに泥棒が入ったらしいんすけど……さっき電話が来て。
住所言うんで、向かってもらって」
「事故ですか、事件ですか」
「あ~~、事件ですね……! で、何分位で着きます?
連絡を入れたいんすよ。彼女を安心させたい」
「事故ですか、事件ですか」
「え、だから言ってるじゃないです……」
渡はちらっとスマホを見て、その異様さに短い悲鳴を上げて反射的にそれを振り落とした。
慣性から手放され、スマホの画面は粉微塵になった。彼は急ブレーキを掛け、
長い制動距離を小走りで戻り、画面を確認した。通話はまだ続いている。
「な、何だこの110番通報は……い、イカれてやがる……!!」
「事故ですか、事件ですか。事故ですか、事件ですか。
事故ですか、事件ですか。事故ですか、事件ですか」
牛乳を拭いた雑巾でも持ち上げるように、スマホの端をつまみ上げ、画面を見る。
「なんなんだこれは……ッ?!!
テレビのホラー特番じゃねえんだ……。
こっちは『リアル』の非常事態なんだぞッ!!?」
四四四四四四四四四四四四四
スマホの通話画面にはそれだけが表示されている。しかも圏外で、
通話時間は666時間666秒と、子供でも考えないような不吉な数字がびっしり並んでいる。
「俺は確かに110をタップした……何かの間違いだ。こんなのイかれてる!!」
住宅街が圏外。ひどいデジャブだ。口裂け女と出会ったときと同じ謎の電波障害。
電話越しの声は男性とも女性ともつかない、気味の悪い声だ。
「ふざけんなよ!!」
彼は近所迷惑も顧みず、大声を上げて電話の相手を罵倒した。
スマホを掴み、振り上げ、地面に叩きつけると、それはガチャと音を立て木っ端微塵になり、
スクリーンの破片が側溝の蓋にキラキラと散らばっていった。
そして髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱すと、スケート靴を生み出すことも忘れ、
彼はただひたすらに走った。脂汗をかくなんて何年ぶりだろうか。
彼はその低温を操る超能力で汗知らずだが、本当にパニックを起こすと
その力を使うことすら忘れてしまい、ただの「人」になるのだ。
――徒歩で40分。自転車で10分。庵家までの距離だ。
しかし能力を使えば一体何分の時短になるのだろうか。
それともこうやって走るのは無駄な行為だったのか。
どのみちそんなことを考える余裕は彼にはなかった。息を切らせ、シャツの襟は汗だくだ。
たまに住宅街に見かけるような、「一体いつまで塀が続くんだ?」という金持ちの屋敷。
庵邸はその中の一つだった。芸術家が住むからと言って特段変わった見た目はしておらず、
モダンで四角い印象が強い、400ないし500坪程度の面積の大豪邸。
漢字の「回」のような構造をしており、中央に芝生のきれいな庭がある。
ぴったり半分が来客を招く小美術館。もう半分がアトリエ兼自宅のエリア。
特に広めに取られた倉庫部分は、彫像とイーゼルに安置されたキャンバス画が佇んでいる。
渡は子供の頃から、夜中にその部屋のドアを覗き込むのが少し苦手だった。
彫刻たちがいつか、ぎょろりと目を合わせてくるのではないかと思っていたからだ。
玄関も2つあり、来館者用の大きな両開きの玄関と、
裏手にある家族用の一般家庭サイズの玄関がある。
作品発表の近い時期になると、その両方の門扉に一人ずつ警備員が立っていることが恒例だった。
だが、今日の警備員はプッシュパペットめいて力なく死んでいた。
「……オエッ……!! な、なんで……。
し、しっかりしてください!!」
渡はただ絶句する他なかった。当たり前だが、
彼は路傍の生き絶えた人間を見るのは初めてだった。ゆすり起こそうとしたが
その瞳孔は開ききっており、口元からはてらてらと光る絵の具のような
液体が流れ出ている。その液体は脂ぎっていて、セミの腹を潰したときの汁のようだった。
渡は、こみ上げる吐き気を必死になだめ、去年のお盆ぶりに裏口の方の玄関の鍵を開けた。
まさか警備員の死体を跨ぎ越えることが今年の盆帰りになろうとは、
彼は歯を食いしばり、声にならない声をあげながら、鼻に付く絵の具の匂いを嗅いだ。
渡はサンダルを脱いですぐに、壁の電気のスイッチを探した。慣れた手付きで暗がりに手を伸ばし、
硬い感触を感じ、それを操作する。しかし、何度パチパチと弾いても反応がなかった。
「なんで点かないんだ……?」
渡は次の候補として、傘立てのそばにある非常用持ち出し袋を弄った。
泰安はマメな性格だったため、そうした用意は欠かさないようにしていた。
もちろんそれらは模範的な市民の備えなのだが、今にして思えば
彼は異様なほどに何かに気をかけていたような気がしてならなかった。
渡はぎっしり詰まった持ち出し袋を漁った。
そこには案の定、非常に高性能なフラッシュライトが用意されていた。
スライド式の電源を入れると、その照り返しに驚くほどの光量を放つ。
渡はそれを手に握り、なんとなく玄関の上がりまちの方を照らした。
玄関の上がりまちに鎮座する小高い正方形のコンソールデスクに
いくつもの帽子が積み重なっているのに気づいた。
泰安は帽子が好きで、そのいずれの種類や形においても渡は見覚えがあった。
しかしその置いている場所には見覚えがなかった。
「叔父さんは几帳面なのに…。帽子でこんな積み木なんかしない…」
その時、渡はちょうど真上から不快な音が聞こえることに気付いた。実家に帰り
わずかに気が緩んだおかげか、ようやく落ち着いたから気付いたざわめきだった。
だが渡はその雑音の正体を照らしたことを酷く後悔した。
「うっ、な……なんだこいつは…?!」
デスクの真上に首をもたげた、牡鹿のハンターズトロフィー。物言わぬリアルさが恐ろしく、
夕暮れ時に、玄関から入る西日がその影を伸ばすたびに、
渡は嫌な気持ちになっていたことを思い出す。それが今や、牡鹿の首から上だけの剥製は、
苦しそうに蠢いている。ゾンビのようにハエを集らせ、生き絶えたかと思えば、グリッチ様に
逆再生し、同じ苦しみを繰り返している。苦痛に顔を歪ませ、
目がフライパンの上のバターのように溶け落ち、ハエが集り、骨になる。
実際に飾られたものは骨のものではないのに、何度も何度も、
牡鹿は地獄にいるかのように泣き叫ぶ。
渡はもはや恐怖を通り越し唖然とし、その場にへたり込んでしまった。
脂汗がぽかんと開けた口に垂れていく。
「……このリアルさは……あの時と……」
その異様な雰囲気は、かつて口裂け女と出くわしたときと同じだと
渡は直感した。そして、彼はこれから対峙する異常なものはすべて、
非現実からの来訪であることを覚悟した。そしてすっくと立ち上がろうと、
デスクの縁をつかもうとした時、なにか帽子の下にあることに気付いた。
それは分厚い封筒だった。請求書とかがよく入っている、長方形で
プラ面から中が見え、そこから名前だけ表に見えているタイプの封筒だ。
渡は頭上のハンターズトロフィーから最大限に離れつつ、適当な封筒を1枚引っこ抜いた。
手触りと重さから何枚もあるようだと分かる。
帽子が軽い音を立ててコロコロと崩れ落ちていく。
渡はフラッシュライトで封筒の表側を見た。その毒々しいデザインの表紙は、
あたかもスズメバチの腹か、鬼のパンツかのようにどぎつい色をしている。
表紙には「庵 泰安 様 大至急開封願います」
という超極太ゴシック体の文字が叩きつけるように印字されている。
「督促状……? こ……国民年金の? 俺もたまに何かの支払いを忘れるけど、
こんな禍々しいデザインの封筒は見たことない。本当にうちの市のデザインなのか?
また怪異のアレじゃないだろうな?」
しかし右上にある消印は確かに本物だ。渡は思い出のなかの泰安の行動と、
今目の前にあるものとの乖離に、頭がハテナで覆い尽くされそうになった。
だがメリアの無事とは今は関係がない。渡は督促状を床に置き、
軋む床の音を感じながら立ち上がった。
廊下を進むたびに、素足にベタついた感触が吸い付く。掃除をしていない床の感触だ。
彼はその感触を知っているのは、汚部屋で有名だった大学の先輩の家の
フローリングを歩いたことがあるからだ。
「メリア……掃除も出来ねえレベルの悩みがあったのか?」
豪邸であることが、こんな形で嫌な側面を表すとは渡は思いもよらなかった。
埃の玉が巾木の隅で徹夜組の行列の様にぎっしりと詰まっている。
渡はさっきの異常な牡鹿の剥製より、卑近な異常性に冷や汗を欠かずにはいられなかった。
壁に手を当てながら、慎重に歩みを進める。どうして自分にとって一番安心できるこの家で、
脅威を警戒しないといけないのだろうと、渡は何度も舌打ちをした。
廊下を出ると見慣れた大きなリビングがある。
そこには家電量販店で花形役者を務めているような超大型テレビと、
海外ドラマでしかみないような大きなL字の大型ソファー、
そしてステンレスの機能美に優れたアイランド型のキッチンがある。
しかし、そのどれもが役目をまるで果たさず、黄昏に枕を敷いている。シンクには汚染され、
不法投棄に埋め尽くされた河川敷のように食器が山のようになっていて、
ソファーにはいつ着たのかも分からない衣類が積まれている。
ソファー前の大きなのオーク材のリビングテーブルには、汁の残ったカップ麺が重なっていて、
ハエとゴキブリがバビロンを築き上げている途中だった。
もちろん皆でインスタントも食べないことは無かったが、こんな場末のワンルームのような
ひどい始末をしたことはない。
どれもこれも、懐中電灯で照らすたびに渡の良い思い出のメッキが剥げていくようだった。
「な、なんでこんな……うっ!!」
渡は気が動転し、吐き気をこらえてキッチンに近寄り、水道の蛇口を捻った。
水道の水でも良い、とにかく日常を認識したかった。
「す、水道まで止まってやがる……」
水道が止まっている。汚れや詰まりのせいではないのは手に伝わる感触から分かる。
だとしたらいつから断水している? 渡は恐れ慄き、声にならない声を上げた。
「こんな状態で創作なんて出来るはずがない。
そもそも明日、発表会なんじゃないのか? おかしい……何もかも辻褄が合わない……」
つづいて冷蔵庫を開けると……空だ。
渡の知る庵家は家庭料理が盛んだった。彼がたまに帰れば、
父子家庭にもかかわらず、トムとジェリーに出てくる冷蔵庫のように、
その中はまるで宝石箱のようだった。しかし目前に迫る現実は、
ダムに沈んだ故郷を見るがごとく、ただひたすらの虚無に満ちていた。
彼にとってそれは、メリアを探す気力を奪わんほどに強烈なものだった。
「……そもそもあの電話。本当にメリアからの電話だったのか?
そもそも、俺に電話をかけたのは本物のメリアだったのか?」
渡はよろめきながら、再びソファーに近づく。
するとまたもや、封書の束があることに気づく。
電気代、ガス代、水道代、国民健康保険代、何もかもが支払われていない。渡は目を疑った。
「おじさんはお金持ちだ。だから俺もメリアも、
奨学金のことも考えずに大学にまで行けたんだ!
俺なんか……俺なんか血も繋がってすらないのに!!」
一枚封書を持ち上げるだけで、なだれ落ちる衣類と書類。自分の落ち着いた平和な大学生活が、
その実、砂上の楼閣どころか、トランプタワーの上に成り立っていたことに気づいた渡は、
行き場のない罵倒を、誰もいない部屋に叩きつけるしかなかった。
うずくまるその姿は、見る人がもしいれば、彼こそが怪異に見えるだろう。
自分は一体何に育てられたのか?アイデンティティへ忍び寄る影が、
渡の耳にレゾンデートルの是非を問う。
「……でも生きてるはずだ。生きてなきゃ……そもそも滞納のしようがない!!
そうだ、生きてる。生きてるはずだ!!
もし救えるなら……夏樹さんになんとかして貰えるはずだ……!」
おそらくこうなるまでに、何度か市役所の人間が庵家を訪れているはず。
現代日本が著名な芸術家を放っておくはずがない。ただの独居老人ならともかく、
自分の知る「庵泰安」という男は日本史に刻まれるべき偉大な芸術家だ。
渡は必死に負の感情を抑え込み、
立ち上がった。ゆっくり深呼吸し、まだ立ち入っていない部屋の方へ手をかざす。
そして仇敵を睨むかのように目を細め眼輪筋に力を込める。
「俺の思い出を穢す野郎は、たとえ閻魔大王だろうが容赦しねえ……。
絶対に見つけだして……報いを受けさせてやる!!」
やがて視野がみるみる内に青と紫の極彩色に彩られていく。
彼はこのとき人生で初めて、温度を色で見るその力を人助けのために使った。
熱が特に籠る衣類の山以外は、夏の半ばらしい不快な色を示している。
日本らしい湿気を伴う澱んだ空気。ホコリと皮脂のすえた匂いの立ち昇る様が可視化され、
不快感はさらに上がる。だが何よりも渡にとって不快なのは、
人様の平和を土足で踏み躙った有象無象の悪鬼羅刹たちだった。
今のところそれらしいモンスターの姿は見えないが、何らかの
手品であの庵家から豊かさという光を奪ったのには違いない。
「いない……」
リビングを後にし、更に奥の廊下を進む。そして彫刻の部屋を一瞥する。
引き戸に習作の裸婦像が、ドアのガラスにベッタリと張り付いて
こちらを観察しているのが見えていた。だが開けない。いないのは分かっていた。
「いない……」
さらに進むと、浴室につながる曲がり角が見えた。
どうせ悍ましいヘドロの煮込みしか風呂には残ってないだろう。
渡は近づきもしなかった。しかし、チラリと見えるイヤに華美なエンボス加工のされた紙切れ。
それは脱衣所のすぐそばに落ちている。
まるで小学生高学年がこっそり受け渡しをする手紙のようだ。
それが渡の関心を引いてやまない。彼は床板を軋ませながら、恐々とそれを摘み上げた。
♡天使No.65534♡
それは名刺サイズの厚紙で出来たカードだった。
裏には謎の乱数らしき文字列が並んでいて、すぐとなりに二次元コードがある。
角は丸まって毛羽立っており、そのカードはくたびれていた。
「なんだこれ……」
はじめ、渡はそのカードの意味が理解できなかった。
だが、すぐ奥に散らばるものを見た瞬間、渡は絶叫した。
「め、メリア……嘘だ……おじさんがこんな事させるはずがない……!!」
散らばっているのはアフターピルと使い捨てられた避妊具だった。
そしておおよそ彼女の趣味では無い、淫靡な肌着たち。享楽的で肉欲的で、悍ましいもの――
「わかんねえ……わかんねえ……」
まるでゴキブリを見つけたときのように、
ソレに気付いた渡は飛び退き、ドアの角に背中をぶつけてうずくまった。
「もう嫌だ……。警察だ……。公衆電話探して警察を呼ぼう。
もう怪異とかどうでも良い。そうだ、コンビニで電話を借りるんだ……」
渡は涙を抑えきれなくなった。
少し前まで、彼は心のどこかで自分が特撮のヒーローになれると思い込んでいた。
ピンチに駆けつけ、愛する人を守る存在。絶体絶命のピンチに駆けつけ、
敵を倒し、爽やかなエンディングが流れる様を思い描いていた。
だが彼はそれと同時に、薄々勘付いてもいた。彼の知るヒーローの家族は、
ろくなことにならないと。シナリオ上の動機づけや、ターニングポイントとして、
ヒーローの家族は凄惨な目に遭うか、さもなくば喪うか。
アレは作られた話だ。自分には耐えられない。そう渡は思った。
何分か経ったあと、渡はようやく立ち上がった。もちろん帰るためだ。
もうどうでもいい。渡の心に諦めと虚脱の悪魔が肩を回す。
そのとき、静寂をかち割るように固定電話の音が鳴り響いた。
りりりり
りりりり
「映画部屋からか……?」
それは裕福な家にならよくある、優雅な大広間のからだった。
音響もソファも完璧に誂えてあり、下手な映画館に行くより、
この部屋に留まった方がいいくらいのクオリティの場所。
だがこの状況で、その空間はきっと最悪の舞台装置。
「電気もないのに……」
渡は最後にその部屋を見て帰ろうと決めた。もちろん電話は取らない。
どうせ呻き声やロクでもない音声しか聞こえないに決まっている。
恐怖もくどいとイラつきに変わるものだ。
重い体を無理矢理に動かし、仮にその身体が機械なら、間違いなく鈍い金属音を
ギシギシと全身から出していただろうと思うほど、その動きは鈍かった。
枝垂柳のように、フラフラと壁を手で伝いながら彼はその部屋に足を踏み入れた。
「…………誰だよ」
100インチを優に超える巨大スクリーンの向かい、
適切な距離に設置された本革のブランデーカラーのカウチソファー。
ダークブラウンで艶のある、非常に高価な調度品が並ぶその部屋に
幼い頃の渡とメリアは、入室自体に泰安の許可が必要だった場所。
そこに座っていたのは見知らぬ少女。それはまるで赤ずきんを真っ黒に染めた
「黒ずきんちゃん」のような、ゴシック調の少女で、
秋葉原や大阪日本橋にいそうなキッチュさもあった。
彼女は渡の大好きな変身ヒーローの映画版を延々と観ているようで、
そのソファーすぐ前の樫のデスクにそのシリーズの
保存されたディスクケースが積み重なっている。
「誰だっつってんだよ……なあ……おい……」
りりりり
りりりり
渡はイラつきより、懇願するような声色で少女に尋ねた。
しかし少女は答えない。
「何で俺の大事なもん観てんだよ……」
りりりり
りりりり
りりりり
りりりり
電話が鳴り続ける。
そら明るいヒーローのBGMと、小気味いい変身音。倒されるためにいる敵が叫ぶ。
りりり
「うるせえ黙ってろ!!!!」
渡はハエのように耳元に纏わりつくコール音についにブチ切れた。
ハアハアと息を切らし、
途端に鳴り止むコール音に、渡は却って気味の悪さを覚えた。
電話機を眺めていると、聞き覚えのあるセリフが背後から襲いかかった。
<そうやって君は自分の事だけで精一杯になるんだ>
ハッと振り返ると、謎の少女が観ている映画――変身ヒーローの何作目かのヒロインが、
主人公を叱咤するシーンが流れていた。
どうしてそのセリフだけが耳に残ってしまったのか。
理由はわからないが、スクリーンには残念そうなヒロインの顔が映し出されていた。
「………」
<この世界はあなたの知らない間に、
終わりを迎えていた>
今度は作中の謎を握るミステリアスな男のシーンだ。
「え……?」
<分かっていたはずだ! 彼女のサインを!! >
これはヒロインと泣き別れたあとに、主人公を指摘する親友役の声。
「ならどうすればいい……今からどうすりゃいい?!」
<消えろ>
<この世界にヒーローなんて必要ないのよ>
悪役の声だ。そこで彼はようやく自身に掛けられた術の正体に気付いた。
渡は心を乱す、映像と音声のモンタージュを一旦無視し、
カウチに座る黒ずきんの少女に静かに声を掛けた。
「お前が過去を礼賛する者たちのメンバーだな」
<君にしてはなかなか鋭い洞察力だね>
渡の知らない、存在しないシーンがスクリーンに映る。
確かにそこに映っているのは劇中のヒロイン役の女性だが、そんなセリフは存在しなかった。
マニアの彼だから分かる、圧倒的な違和感。
「自分の口も使いたくないってか?音MADみてえな喋り方しやがって。
世界の文化を守る団体のトップがこれじゃあ、キモすぎてお話にもならねえ」
渡がそう言うと、さらに固定電話が1人でに留守番電話を再生する。
電気も通らない家で、録音されるはずがない音声だ。
<私はSOFTのTOPではありません。ご用件をどうぞ。ピー>
ビープ音が句読点の意を示すかのように、黒ずきんは一度も開かれないままの口を閉ざす。
「結論から聞く。
お前を物理的に排除すればおじさんとメリアは助かるんだな?」
ゴトン、と渡のそばに本が落ちた。
偶然ではない、赤茶色のシミで示された文章が黒ずきんの返答だった。
<誰も助けられない。みんな死ぬ>
渡は鼻で笑う。首を左右に振り、ゴキゴキと首を鳴らし
さらに質問した。
「じゃあお前も含まれてるってわけだ。死に急ぎリストの上位に」
渡は意を決し、黒ずきんの肩に手を掛けようとした。
数秒にも満たないはずのその間が恐怖を駆り立てる。
しかし、その結末は彼の予想だにしていない――銃声によって破られた。
生の銃声は本当にうるさく、その音そのものが非常に攻撃的だと渡は感じた。
それは映画室の掃き出し窓を突き破り、放たれた弾丸の音。
渡は本棚のそばに隠れ、ひたすら恐怖で叫び声を上げた。VRとはお話にならないほど
リアルな匂い。想起されるグロテスクな光景に吐き気を催す。
「本当に間一髪だった。よもや君が連絡をよこさないほど
子供っぽいとは、私も迂闊だったよ」
その声の主は夏樹だった。その手にはおおよそ日本国内では
存在していいはずのない大型の自動拳銃が握られている。
一言声をかけ終わると、夏樹は執拗に黒頭巾の少女めがけ
弾丸を浴びせ続けた。ソファのスプリングが飛び出し、
内部の綿が飛び散り、一部が煤けて匂い立つ。
カチカチと弾が切れるその瞬間まで、夏樹はその行為を繰り返した。
「あ、な、な、何やってんだよお前!!
こい、コイツが万が一にも生身の人間だったら……!!」
「だとしても、私があと3秒遅れていたら君は死んでいた」
激怒にも近い狼狽を呈する渡に対し、夏樹は言葉を被せるように返事を返した。
その目線は失望とも同情ともつかない不思議なものだった。
「見たまえ、君は最初から誰とも会話をしていない」
「は? そんなわけ……」
夏樹は自前の小さくも重苦しい懐中電灯で、黒頭巾が座っていた
場所を照らす。そこにはなんの痕跡もなく、結果だけを見れば
唐突に彼女がソファを痛めつけたようにしか見えない有り様だった。
「だが存在する。それが礼賛者の上位メンバーである
四凶の一人、『ライカ』。しかし、目下の問題は彼女ではない」
「何の話だ……? なあ、分かるように言ってくれよ。おい!
おじさん家は廃墟寸前なのに警備の人はいたし、
俺、俺はつい2~3週間前に家に来たけどこんな滅茶苦茶じゃ……」
混乱から、要領を得ない質問を繰り返す渡を夏樹は一瞥し、
懐中電灯の光をソファの正面の白いスクリーンに移した。
当然――何も映っておらず、しかし本当の危機の影が確かに
映り込んでいたいた。
「お、おじさん! それにメリアも!
良かった、無事で……。ほら見ろ夏樹。
あいつらは全然なんとも……」
渡は気付いてしまった。
掃き出し窓の向こう側、ふかふかの芝の揃った庭先に響く
あり得ない足音。まるで巨大なトカゲがその足を踏みしめるような
異常に規則的なカサカサとした音。そしてその音は重く、恐竜のよう。
そこには確かに渡が探していた2人がいた。
『『わたる。わたる。おかえり。おかえり。おかえり。
おかえり。おかえり。おかえり? あ? あ? えぎ……』』




