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TRUE WORLD   作者: 猫岸夏目
第一章 牙を剥く過去
23/24

CASE21「牙を剥く過去その3」

「蕎麦屋……まあ出雲だもんな。蕎麦、有名だし。 年越しくらいでしか食わねえけど」

「カップ麺もいいが、本場はレベルが違う。気の滅入る話ばかりしていたんだ。

 昼ぐらいばっちりキメてもバチは当たらん。」

「下手に名店とかで高いと困るぞ。学生と大社長とじゃ、財布の厚みは違うんだから……」


  企業は若者に金を出さない。こうした常識は2040年代にも色濃く引き継がれていて、

 渡はその常識に従い嫌な顔をした。しかし彼女は目を丸くして一瞬立ち止まり、

 そしてため息をついた。


「まさか! 奢りだよ。この程度の出資は君に不可欠なものだ。 

 嘆かわしいな……貧乏くさい発想が染みついてしまっていて」


  本社ビルを飛び出して向かった先は敵の本丸ではなく、

 蕎麦屋だった。夏樹の「昼にしよう」という提案を受けて向かったのは地元のソウルフード。

 日本三大そば処のひとつは、中つ国にあった。

 強い日差しのなか夏樹はサングラスだけを携帯し、悠々と突き進む。

 へばりもせず、うわっと声も漏らさず、まるで自宅の中を移動するかのように。


 渡はその様子を見て、この女には会話の掴みに『暑いですね』と言っても、

 日焼け止めを渡してきそうだなと、その豪胆たる佇まいに感服した。

 自分は特殊体質で暑さを知らないが、彼女のそのポーカーフェイスっぷりはなんなのだろうと、

 渡は横目で彼女をチラチラと追いながら並走した。


「そば処……ソバージュ。まあ……なんとも……うん……」

「ここの主人は大の蛙好きでな。特にソバージュネコメガエルという

 舐めまわすと違法な物質を分泌するカエルが好きなんだ」

「その情報蕎麦と関係なくない? カエルを舐めまわす人いる?」

「それと、出雲の蕎麦は黒っぽいのが特徴だ。コシと風味が良い」

「後付けの情報の方が大事じゃない? そっち重要じゃない?」


  彼女との会話はまるでうなぎを掴みとるかのように難しいものだった

 渡は関西の文化圏にいるからか、ツッコミに舌を働かせることに苦はなかった。

 店の入り口にはカエルが逆立ちした珍妙な像が2体、対になって来客を迎えている。

 その軒先にはひらがなで気の抜けるフォントで店名が掲げられていた。


「かえ、カエルが……逆、えー、あれか、帰らないか! けっこうシャレたジョークじゃん……へー。

 あれ? これ大昔に流行った安全確認をする……いやカエルじゃん!」


  夏樹の言う通り、店の前にはカエルグッズが数多く並んでいて、

 さながらファンシーショップの様であった。どこかで見た安全確認をする猫の像が、

 緑色に塗られてむりやりカエルにされているのを見て、渡は妙に笑いが込み上げてきた。

 しかしかつての流行りものに無理やり迎合してアイデンティティを失った哀れな像を見ると、

 同情すら禁じ得なかった。渡はカメラアプリを起動しSNSに投稿した。

 それはある種、ネットミームに対する供養に近いものだった。


「何をしてる。中で決めるぞ。こんなバカ暑いなか突っ立ってどうする。 」

 ひとしきり笑った後で、渡は夏樹に「見ろよこれ」と指をさしたがもう遅かった。

 彼女は迷惑そうに自動ドアの内側から首を出して、早く来いと手招きして催促した。


「くっ……お前に世間並みの正論吐かれると妙にむかつくな…… 

 大体カエルのネタを振ったのはそっちだろうが……」


  不満を飯を奢られるという事実で押し殺し、渡は店内へ入った。

 彼には湿度の快不快くらいにしか気温の差は関係なかったが、

 店内が心地よい環境であることは肌感覚で理解できた。


「まだ残ってるんだな。食券を買うタイプ」

「人に寄り添ってこそのテクノロジーだ。さ、好きなものを押すんだ」


  玄関の入ってすぐには券売機が2台並んでいる。

 とうの昔に部品もなく、サポートも終了しているはずのそれは、

 ピン札の1万円を栄養に全ての押しボタンを光らせている。

 紙幣を飲み込んだとき、その軋むローラーの音が微かに券売機から聞こえ、

 老体に鞭打ち働いているのがそこはかとなく感じられた。


「せっかく地元のグルメだし……カレー蕎麦とかはやめとこう」

「決めたか? ああ、そうだ。ここは揚げ物も美味い」

「へえ~。ってことは意外と知られてる下町の穴場なんだなって…… 

 おいなんだそのボタン。蕎麦のかき揚げってなんだ。

 かき揚げ蕎麦の間違いだよな?」


  渡は並ぶボタンの一部に、異様なメニューが並んでいることに気付いた。

 目を凝らせばどこかおかしいのだ。

 かき揚げ蕎麦の隣に、「蕎麦」のかき揚げが擬態するように並んでいて、

 夏樹は海老天を頼むかのように平然とそのボタンを押した。

 他には「カルソバーラ」や「ソバネーゼ」など、

 容易に内容が想像が出来てしまうイロモノが並んでいる。


  渡は目の前の選択肢に混乱し始めていた。2人は行儀よく盆を取り、

 列に並び、目の前に並ぶ揚げ物を事前に用意した皿に乗せていく。

 さしたる特徴のない繰り返しに、今度は夏樹が渡の行為に疑問を抱く番だった。


「妙な場所の揚げ物を取るんだな」

「妙? いや、なんとなくですけど」

「ふうん……そうか」


  彼はドーナツ屋のように並ぶ揚げ物の段にさしかかると、手前でも一番奥でもなく、

 一見ランダムに見える箇所からそれぞれ揚げ物を取っていた。

 ごぼ天にせよ、ゲソ天にせよ、その取る順番に規則性は無いように見える。

 あるいは好みでないのか、全く取らないものまであった。

 そうして席に着き、先に質問を投げかけたのは夏樹の方だった。


「いつから見えるんだ」

「え?」


  渡は質問のタイミングでよそ見をしたため、割り箸を割るのに失敗してしまった。

 彼は変に折れた割りばしで熱々のぶっかけ蕎麦を一度も冷まさずに啜った。

 その光景を見て夏樹は何かの確信を得たようだった。


「君は温度が見えるんだろ」

「もごっ? ……んっ!」

「そして温度に対して耐性がある。いつからなんだ? その『特技』を身につけたのは」


  夏樹は整然と割りばしを完璧に割り、かき揚げのように揚げられた

 蕎麦を火傷しないように少しずつ齧っていった。

 突然の看破に渡は噎せ返り、鼻の奥にめんつゆの香りが押し寄せて痛い思いをした。

 落ち着きを取り戻したあと、ひととおり啜り終えると、彼は数秒の間をおいて告白した。


「流石研究者というか、なんていうか……はぁ」

「その様子からして見るに、隠し通して生きていたようだな。

 さっきの揚げ物の選び方。あれは熱すぎず冷えてもない、

 君好みの温度になったものだけを選んでいたんだな」

「まあ、そうっすね……。バレないように適当に上手い具合のを選んでました……」


  渡は観念したようにため息を吐くと、種明かしのためお冷の入った半透明のコップを握った。

 ただでさえ小さな氷の粒が入って冷え切っているお冷は、みるみるうちに凍り付き、

 コップの周りには霜と外気に触れた氷から生じる水蒸気がうねりを見せていた。

 夏樹はまるで北極のオーロラを直接見た人のように、小さな歓喜の声を漏らしていた。

 渡はそういう表情をされるのが嫌だから見せなかったんだと、より小さな声でぼやいた。


「本物の超能力者……よもや存在しているとは」

「俺には小さいころ……小中学生んときの記憶が無いんですよ。

 ぼんやりと何が流行ってたとか、担任の先生の名前とかは憶えてるけど、

 クラスの皆と何をしたとか、人間関係とか誰が好きとか、

 成績が良かったのか 悪かったのかとか……

 起きてすぐに夢の内容を思い出そうとする感じ? 

 そんな感じで、まあ、ざっくりとしか覚えてない。

 それがこの温度を操る能力と関係するかは分からないですけどね。

 ただ、この力を気にして、ナイーヴな人生を送ってきたのは確かでしょうけど」


 その独白の態度は供述調書を取られる犯人の様だった。


「まるで自分が本当にこの世にいるのか分からない、みたいな顔をしているな。

 全部他人事のように思えて、頭では理解しても心まで動くことがないような。

 まあ、当然だ。アイデンティティは経験と時間で培われる。

 いたずらに時だけが過ぎていれば、寝ているのと何ら変わりはしないのだから」


  渡はバレたら仕方ないと言わんばかりに、熱い蕎麦も啜り、出汁も飲んだ。

 冷やしそうめんでも啜るかのような遠慮のない食べ方に、夏樹は改めて

 静かに「ほう……」と声を漏らした。


「ま、そう顔をしかめながら食ったら、美味いものもまずくなるぞ。

 どうだ。ユニークながらに素材の足場はしっかりしてる店だろう?」

「そうっすね……。まあ、普段食ってる麺類の5億倍は美味い。

 本当に美味い。マズかったらいくら平気だからって熱いもん一気食いしないですし」

「だったらもうちょっと反応したらどうだ。

 私は食べ慣れてるから、いまさらどうってことはないが……」


  渡は時間が経つにつれて、どんどん言葉の歯切れが悪くなっていた。

 想像以上に不味いものを指摘してしまったのかと夏樹は考えあぐね、

 深く唸り始めた。先ほどまで雑に敬語ともつかない陽気な口調だったのに、

 途端にですます口調を思い出すほどの意気消沈ぶりをみて、

 彼女は悪いことしたなと胸がチクリと痛んだ。


「君は確かに陽気で明るいし、私の10倍は朗らかだが、

 どうにも不安要素があるんだな。『俺は別に良い』みたいな、

 そういう慎ましさを超えた過度の遠慮がちな部分がある。

 普通の学生なら、私がうちに来てくれと言ったが最後、

『あのSTソリューションズの社長に声を掛けられた!』と言ってもないのに

 履歴書と職務経歴書を私宛に送り付けていただろう。

 だが君は、一度も返事をくれなかった。したくなかったが、

 金で釣るしかないくらい君は全く見向きもしてくれなかった」


  彼女は普段は絶対にしない、作り笑いと愛想笑いでフォローを始めた。

 それこそ、人の隠しごとをばらした者としてのケジメのように。

 身振り手振りが嘘っぽいなと渡は思ったが、

 謝罪の意が含まれているのだと解釈し、そのぎこちなさを無視することにした。


「そ、それは悪いと思ってますよ……。まさかあんな重大な物に

 関連する仕事を任せようって思ってるとは知らなくて。

 それに……俺よりすごい奴なんか星の数ほどいる。仮に超能力が役に立つとしても、

 STソリューションズにふさわしいのは、東大の首席とか、経営学部の首席とか、

 そういう実践的な奴だろうって。物を冷やしたり温めたり出来たところで、

 営業成績にはつながらない。そうだろ?」


  実のところ夏樹は彼の事を、超能力以外の殆どのことを知っていた。しかし彼の言う通り、

 小中学生時代の彼の公的な記録は不自然なほどに曖昧で

 意図的にぼかされているとすら思うほどだった。

 出生記録もなく、住民票は児童養護施設にあり、

 高校卒業証明書だけが、彼が大学生であることを逆説的に証明していた。

 そこで彼女は、困り顔で親指を組み下を向き続ける彼にさらに言葉を重ねた。


「だが君は……そうでなくとも非常に優れた技術と身体能力を持っている。

 悪いがある程度は調べさせてもらったよ。

 世界規模のVRガンシューティングイベントでは万年一位。

 大学でのサークルはパルクール部に属し、バイトはしていないが

 学内のボランティアには度々参加している。

 成績は普通で趣味は都市伝説の動画を見ること。

 君のSNS……欠かさず日曜の朝に投稿が集中している。特撮が好きなんだな」


  夏樹は丁寧に拭かれた机をARスクリーンに使い、

 まるで取り調べを行う刑事のように来歴を読み上げ始めた。


「き、急になんだよ。俺の個人情報をあらかた知ってそうだとは思ってたけど……。

 ていうか趣味の部分まで読み上げる必要なんか……」


 夏樹は×ボタンを押し、ARスクリーンを解除した。そして不敵に微笑みかけた。


「ライトノベルの主人公じゃないんだ。

 なんの理由もなしに君を選ぶ私じゃあない。裏打ちされた君の素質が、

 今後の我々の活動に少しのアドバンテージを与えることになるのだから」


「俺の……素質……ってぇ言われてもなあ」


  渡は、学業や趣味の活動以外で、自身の根本に繋がることを

 褒められたことがない寂しい人生を送っていた。

 楽しい学生生活であることには違いなくても、

 自分自身そのものを肯定してくれるような相手に出会ったことが無かったのだ。


 普通はその学業や素質、2つに対しての功績が褒められること自体が光栄であり、

 その栄誉を得られることすらなく凡庸に甘んじている人がいるのだ。その事実は理解してはいても、

 あくまで彼の主観として、自分は無味乾燥な人生を歩んでいると考えていた。

 それは彼の幼馴染である庵に対してすら例外ではなかった。

 渡はこそばゆいものを胸に感じ、はにかみながらどうもと言った。


「……な、何……。急に怖い顔しないで下さいよ」


 しかし、彼女は何の前触れもなしに普段の険しい表情に戻った。

 目線は渡より向こう側にある俯き気味の古いテレビに向けられていた。


「見ろ、我々の敵がCMに出ている」



 -明るい未来を繋ぐため、故きを温ねて新しきを知る。 

 我々は過去を尊びその歴史を次の世代に託します。

 SAVE OF PAST。我々は、過去を礼賛するもの-



「あれが……」

「そう。表向きこそNGO法人として、かつて破壊された文化財や、

 これからの技の継承に苦しむ技術職など、文化的な行い全般に金銭的な援助を施す集団だが……」


  突然手元でなるクラック音に渡は驚いた。

 見ると、夏樹は割りばしを一本、親指でへし折っていたのだ。

 分かりやすい感情の出し方をあまりしないと思っていたので、彼は少し動揺した。

 唾棄すべき存在をみるかのような視線に、その怒りのルーツを聞くことは出来なかった。


「私のネットワークに何らかの細工を施し、君に見せたあの現象を引き起こしている張本人だ」

「夏樹さんでも分からないなんて、相当なハッカー集団なんだな」

 彼女は丁寧に折った割りばしを盆に整列させると、ため息をついた。


「ハッキングではない。その痕跡もアクセスの集中もない。

 だが仮にそうした行為だとして、それでどうやってバケモノが生まれる?

 何をどうしたら言い伝えが実体化する? 

 どう記者会見で言えばいい。何の声明を発表すればいいのか……?

 いや、そもそもそんなことを公にすれば、あの集団は必ずこちらを試そうとする」


「つまり……物理的な損害はないけど、あの現象が起きてる原因があいつらだと、

 いわゆる直感みたいなやつ? で勘ぐってるみたいな……」

「ああ、そう勘ぐるに至る恨みがある。

 私が学問の道を進むきっかけを作った……憎々しい相手だ……」


  夏樹は最後にお冷を一杯注ぐと、それを飲み干してから丁寧に口を拭いた。

 そして軽く咳払いをすると、何事もなかったかのように普通に立ち上がり、

 渡にも同じ動作をするように促した。


「だがこの話はオフレコだ。また違う機会にしてやろう」

「いや別にいいっすよ。無理に昔の腹立つこと思い出しても仕方ないし」

「……それがそうだったら、良いんだがな」

「え?」


  当時のこのことを振り返った渡は、この時の夏樹を初めて女性らしいと感じたという。

 情動的であり、とても悲しそうだったその微笑み方は、一人の人間の見せる素顔だった。


「いずれ彼らと対峙するとき、その腹の立つことを 言わねばならないことがくるだろう」



 ――



  数日振りの我が家に帰宅した渡は、まずドアポストに投函されたダイレクトメールを捨てた。

 一度来ただけなのに、馴れ馴れしくセール情報を伝えてくる洋服店のものだった。


「あいにくスーツのいらない職場なんだよ。おとといきやがれ」


  彼は何の抵抗感もなくそれをドアポストから引き抜き、自室に入ると同時にゴミ箱に投げた。

 それなりの質量のある紙束なので、ダイレクトメールは見事な放物線を描き、鈍い音を立てて入った。


「っしゃ」


  軽くガッツポーズをとると、ソファに座り、ほんの少し埃の浮いた目の前の机を見つめる。

 デジタル表記の目覚まし時計が音もなく時間を紡いでいる。

 渡は、いつぞやに終末時計が大きく巻き戻されたニュースを思い出したが、

 本当に世界が終わる時、あの時計は12時をキッチリさしているのかと疑問を感じた。

 きっと本当に世界が終わる時、人間は平和が訪れたと思うだろう。

 再び立ち上がりキッチンに向かうと、彼はコップで水を一思いに飲んだ。


「直に世界が終わる……でも俺は帰って来て普通に家にいる。

 電車もバスも何もかも、普通に動いてた。水道も……」


  この世が終わるという言葉を聞いてからというもの、

 彼は現実感が消え失せるような感覚に苛まれていた。

 人間は突拍子もない不幸なことがあると客観性を失い、

 世界で自分だけがこんな悲劇の舞台に立たされているのだと感じてしまう。


 そうした重病や大けが、社会的なトラブルに見舞われた時、

 人は逆に繋がろうとコミュニティを作るが、渡にはその権利すら与えられなかった。


  しかし、スマホのスケジュール表にコピーした大学の時間割を見て、

 日常は直ちには終わらないことを彼は悟った。ノストラダムスが予言した時を生きた人間のように、

 自暴自棄には決してなるまいと、彼は理性に箍をはめ学校へ向かうことにした。


 ――


 ――ぼっち飯とは世間で言っても、彼は自分で選んで孤食を選んでいた。

 もちろん会食も飲み会も好きだったが、学食は一人で食べるのが好みだったのだ。

 せざるを得ないか、それを選んでいるかの違いは大きい。彼は後者だった。

 心地よい雑踏の声をBGMに、黙々と450円のラーメンを啜る。


「なに、ラーメンの油合体させて巨大油つくってんの? 

 イケメンのやることとは思えないほどウザったいね……」

「お……庵」


  庵は渡の異変に気付いた。彼もまた人の子なので、

 元気のない日くらいはそれなりにはあったが、彼は引きずるタイプの人間ではなかった。

 終わったことは終わったこととして、スッと気持ちを切り替えることのできる男だった。

 彼女はそこから体調不良であることを疑ったが、体調不良ならラーメンを頼んだりせず、

 簡単なもので済ますだろうとも思った。彼女はあくまで元気よく普段通りに挨拶をした。

 もうスープからはいい匂いはしない。


「なに、いつもなら『うるせえな』とか『ほっとけ』っていうのに。

 さっきのゼミでもまるで声一つ上げなかったじゃん。どしたの? なんか具合悪い感じ?」


  人を殺したと告白するほうがまだマシかもしれないと彼は思い、

 隣に座る彼女から「別に」と目を背けた。

 彼の目的のないスマホのスワイプは、彼女の疑いはますます深めていく。

 疑いと言っても、純粋に善意としての疑問に近いもので、

 過去の彼の行動からは考えられないうなだれ様に、庵は頬が引きつる感覚を覚えた。


「アンタの悩みなんて何でも聞いてきたじゃない。

 しょぼくてもデカくても、悩みは悩みなんだから」

「……今回ばかりは、相談しても本当の本当に意味がない」


  渡の返答に、冗談めかして笑っていた庵から笑みが消えた。

 声のトーンも一段低くなり、本気度が増している。


「どういう意味よ。金の悩み? それか犯罪とか? 

 人込みで話せないなら、あとでチャット飛ばしてくれたら……」

「いや……違う。違うんだけどさ、まあ……時間が経てばどーってことねえよ」

「……分かった。無理には聞かない。この話はおしまい。でも課題の話に待ったは効かないからね。

 ちゃんと考えてるの? 期限明日じゃなかったっけ?」

「え?」


  渡は昼間なのに寝起きのようなうっそうとした声で、

 だらんと伸びた髪の間から目線を初めて合した。

 しっかり者の彼が課題を忘れるなんて、と彼女は唖然とした。


「出来はともかく、最期まで埋めて提出するだけでもウケは良くなる」と、

 彼は幼いころから律儀に宿題だけは期日通りに出していたからだ。

 彼が忘れていても、彼女は覚えていた。人としての個性の1つだった。


「あんた、この前言ってたじゃん。ウッキウキでさ。

 大学最後の課題、『人類が滅びた後、果たして人類は後の世界に何を遺すべきか』ってやつ。

 私、アンタがあんまりにもしつこくドヤ顔で説明してくるから課題の名前覚えちゃったのよ? 

 まあ、芸術専攻の私にも無縁のテーマじゃあないから頭に残ってるのもあるけど……」


  渡はその言葉を皮切りに、つい先日までの夏樹との会話の一切を思い出した。

 まるで動画を再生するかのように、見聞きした内容がフラッシュバックしたのだ。

 そして渡は学食の半分も食べてないラーメンを下膳しながら答えた。

 先ほどまでの緩慢な動きとは打って変わった唐突な起立と移動に、庵は恐怖すら抱き始めた。


「『餅は餅屋』だ」

「え?」

「それが俺の課題の答え。難しいことは難しい奴が考えればいいんだよ。

 素人が下手に手を入れると、もっとややこしくなる。

 何にもしてないのに壊れた~ってさ。実際はもう何かやってるのに。

 いらんことしいは被害者面で誰かに責任を押し付ける。

 世界が壊れるときも案外、そうなのかもな」


  付き纏う彼女に、周囲の人間は痴情のもつれだと思っただろう。

 だが渡にはそのような目線に関心を抱くほどの気力が残っていなかった。

 庵は言葉を失った。耳にタコができるほど特撮の話をされ、

 その度に勇敢さと他人への積極性を口にしていた彼からそのような言葉が出るとは、

 幼馴染として信じがたい行動だった。


「そんな他力本願を大学最後のレポート提出に書くつもり? マジ? 

 ありえない……出さない方がマシよ!! ホントなに? 

 聞かないって言ったけど、撤回よ。撤回!! 

 アンタ普通じゃない。いったい何に関わったのよ。

 ねえちょっとこっち見なさいよ。話聞いてんの?」

「……っっせえよ。耳元でがなんじゃねえ……」


  そのとき、庵はキレた。初めてだったのだ。彼から好意を無碍にされたのは。

 机をバンと叩き、大きく息を吸った。


「あっ、そぉ~~!! かしこまりました~!! じゃあ離れてキレます~~~!! 

 その濡れ落ち葉みたいな腐った態度、マジで無理だから! 

 留年しても知らないんで、はい!! じゃあね!!」


  彼女は渡が先ほどまで飲んでいたコップをトレイから引っ掴み、

 ぴしゃりとひっかけた。そして彼女は肩をいきらせながら、

 凄まじい勢いで学食を後にした。彼は能力を発動せず、ただ粛然と怒りを受け止めた。

 黙って、髪をかき上げて酷いため息をつき、そして彼女とは反対の方向から出て行くことにした。

 心配させたくなかったとはいえ、あまりにも不愛想であったことに心から後悔した。


「冷て……。久しぶりだな…… 顔を洗う以外に顔に水ぶっかけんの……」


  学食のある棟から出る頃には、彼の服は乾ききっていた。

 だが淀む心から沸き立つ生臭い感情まではぬぐい切れず、

 彼はそのまま次の講義を全てさぼり、家路につくことにした。


 ――翌日、彼は商店街の植え込みにうずくまる庵を見つけた。

 日差しも強く、熱中症かもと考えた渡は声を掛けようとした。

 キャップを被りうずくまる彼女の様子は分からない。


「おい庵、そんなところで何へばってんだよ」


  しかし、庵は言い終わらないうちに立ち上がり、彼を驚かせた。


「急に立つなよ! びっくりするだろ」

「あ、渡……」


  昨日の今日で気まずい彼女は、二の句が思い浮かばなかった。

 渡もそれは同じで、しばらく2人は固まってしまった。


「庵さん、どうしました?」


 近づいてきたのは顔も知らない初老の女性だった。

不審がる初老の女性に、渡は聞かれてもいない言い訳を始めた。


「ああ、いやすいません。俺コイツの幼馴染で、偶然見かけたときにコイツうずくまってたもんで。

 熱中症かなんかかな~って……」

「あらそお~。良かった、変な人じゃなくて。

 今ね、SOFTの地域メンバーのみんなでクリーンキャンペーンしてるのよ」


  渡が庵の姿を改めてみると、彼女の両手には軍手がはめられており、

 その傍らにはいくつかのゴミが入っているゴミ袋があった。

 死角になっていて今まで気付かなかったのだ。


「SOFT……」


 渡は夏樹のあの苦々しい顔を思い出した。


「庵さん、お友達なら手伝って貰えば? 軍手と火ばさみも余ってるし」

「え……いえ私は別に……」

「いいじゃない! ほら、取ってくるから待ってて!!」


 おばちゃん特有の押しの強さに気圧されて、庵は嫌と言えずにただ口ごもるばかりだった。

 普段の彼女なら快活だが、流石に喧嘩の後に出会うとなると気まずかった。


「ボランティアねえ。

 ポイ捨てはしなくても拾いもしないタイプのお前が、しおらしいことしてんなあ」

「……ウチのパパ、SOFTのメンバーなのよ。 私たちがまだ高校生ぐらいの頃からね」


 渡の目が驚きで丸くなる。


「聞いたことなかったな」

「だって言ってもつまんないし。ここって、文化的な活動をしている人は、

 そのメンバーになることで、色んなバックアップをしてくれんのよ。

 補助金ももちろん出る。パパとしては、私のため、って感じ全然なかったけど」


  商店街の天蓋が強い日差しを遮るも、日本特有の生ぬるい温風が通路をつき走り、

 2人を撫でていく。渡はどうとも思わなかったが、庵は辛そうだった。

 会話はぎこちなく進み、2人は視線を合わそうとはしなかった。

 毒にも薬にもならない有線だけが雑踏の中にしずむ2人の感覚を捉え続けている。


「普段しない事すると、疲れるよな」

「そうねえ。私だってあんまりこういうのキャラじゃないけど、 

 パパが普段世話になってるから参加して来いってさ。

 ついでに今度やる個展の宣伝もして来いって言ってきて……。 

 マジだるいわ。今すぐ帰りたい」

「じゃあ帰ればいいだろ。ボランティアなんだし」

「アンタのそういうところ、嫌い。良いわよね。

 しがらみのない人間は。絆しになるような関係性が これっぽっちもないんだから」


  庵は胸に張り付くビビッドカラーの黄色いシャツを鬱陶しそうに引きはがし、

 ハンディファンを突っ込んだ。隣にいるのが幼馴染だから出来るはしたなさだった。

 風通しの悪さは気温のせいだけでなく、会話に潤滑油が足りないせいでもあった。


「……ごめん、言い過ぎた」

「いや、そんくらいは別に……」


 手慰みにポイ捨てされたペットボトルのラベルを読みながら、庵は言葉を続けた。


「嫌よね。人づきあいがある人にも、人づきあいが無い人にも、

 人間関係の苦労がある。あんたもそうなんでしょ。多分。言わなくても分かるわ」

「まあ、人づきあいの問題といえばそうだな。恐ろしく大規模な話にはなるけどよ」

「へえ、何それ」


 渡が隣でしゃがみ込んでから、初めて庵は興味深そうに笑みを浮かべた。


「まさか、世界を救うつもりだとか?」


 そのまさかとはとても言えない渡は、沈黙を投げ返すほかなかった。


「アンタはいつもそうよね。 自分の身の回りすらどうにもならないくせに、

 変に規模のデカい話には首を突っ込もうとする」


「そうだっけ?」

「あんたさ、小学校のころ、私鉄の駅にあるツバメの巣を守ろうとして、

『巣を壊さないで下さい』って看板を出す許可を鉄道会社に問い合わせたのよ。

 先生に相談せずにするから、後で学校に電話が来て、めちゃくちゃ先生テンパってたのよ? 

 結果として良い話だからよかったけど、アンタそういう所あるのよね……」


 渡はどう答えていいか分からず、はいともいいえともつかない、「あ~」という声を漏らした。


「あ、ごめん。忘れてるんだっけ」


 庵が手を止めて、渡の方を見た。渡の面持ちは長い髪に隠れて分からない。


「え、ああ。悪いな。そうなんだ」「そうなんだって……。まるで他人事みたいに」


  突然、渡のズボンのポケットにしまっていたスマホが唸った。

 それは夏樹からのものであり、すぐに折り返してくれというSMSまで届いていた。

 着信履歴を見ると、確かに何度か電話をかけてきた形跡が見受けられた。


「ごめん、御クライアント様だわ」「はぁ。アンタも立派に勤め人ね。

 私、どうしたらいいのかしらね……」


 渡は彼女の質問には答えず、夏樹からの電話に折り返すため、いったん離れた。 

 離れる彼を見届けると庵はうなだれ、蟻の動くさまをただ漫然と見ていた。

「もしもし? どした、隕石でも落ちてきたか?」 

「いや違う」  


  電話口から聞こえる夏樹の声は相変わらずの態度で、

 ひどく低血圧的な言葉運びだった。


「安否確認の電話だ。いま大丈夫か? 無事か?」

「いや要点まとめ過ぎて何のことで心配してくれてんのか分かんねえよ。

 なにか俺の周辺に変なことがあるのか? この辺で化け物でも出たのか? 真っ昼間に」


  夏樹は戸惑うような息を漏らし、その声はスピーカーごしにも伝わるほどだった。

 そのため息にますます渡は違和感を覚え、次第に苛立ちすら募らせていった。


庵泰安(いおりたいあん)という芸術家を知ってるか?」


 夏樹から一番聞きたくない人の名前だった。

 渡は一拍の呼吸をおき、言葉を続ける。


「……知ってるも何も、幼馴染んとこの親父さんだぞ。

 ガキの頃の俺を知ってる珍しい人の1人だけど」


「私の知る中で、最初のラプラスの暴走の被害者になるかもしれない」

 その言葉の瞬間、渡はセミが一層強く鳴いた気がした。もうため息しか出なかった。


「そう結論付けるに至ったデータがある。今送信した」


  渡のスマホにシェアされたデータには、SNSの陰気な投稿のアーカイブがぎっしり並んでいた。

 しかしあくまでも苦悩する芸術家のひとつの葛藤の範疇を超えない程度であり、

 アカウントが凍結したり、スパム報告がされていたという形跡もなかった。


「滅茶苦茶言うなよ。よりによってあのおじさんが……。 

 アンタは知らないだろうが、おじさんはいい人だ!

 馬鹿をやる人間じゃない。なんつったって……なんつったって俺の育ての親だ……!」


  夏樹はおし黙ったまま答えない。

 夏樹は彼の育ての親が泰安である事を知っていた。

 本当はこんな事で、その名を口にしたくなかった。

 もっと幸せな話題の時に言いたかった。

 彼女の方へは、渡の浅い息遣いが伝わっていく。


「第一、俺は人の裏垢をみるような趣味は無いし、

 おじさんだって人間なんだからテンション下がることくらいあるだろ」

「さっき送った投稿の日付は君が高校生くらいの時のだ。続きがまだある」


  渡は庵家の父がSNSをしていたこと自体を知らなかった。

 しかも自分たちが高校生の頃からという、年季の入ったアカウントの運用日数。

 SNSだから公にこそなってはいるものの、

 偶然開きっぱなしになっている人の日記を見ているような後ろめたさが彼を襲った。

 そして続きのデータに残されたアーカイブは、

 打って変わったような泰安氏のキラキラした投稿の数々だった。


「違和感がないか。ただアイデアが泉のように湧いて出てくるんならめでたい話だが。

 私がハイライトした文章に注目して読んでほしい」


  まるで受験生の持つ英単語帳のように、それらには赤線が引かれていた。

 その赤線の引かれた文章をつなぎ合わせて読むと、

 隠された暗号めいた異常さがにじみ出ていることが渡には理解できた。


「………世間に評価された作品を発表する前、必ずSOFTの名前が出てきてる……。

 いや、流石に考えすぎだ。さっきその幼馴染のメリアっつー女子と話してたとこだけどよ。

 ただの互助会だって言ってたぞ。芸術とか文化的な活動のアシストをしてるNGOだって。

 そんなんの仲間内にいたら、何かヒントの一つや二つあって、バーッて作品くらい出来るだろ?」


 渡は何かの冗談か考えすぎだと思い、一笑に付した。

 しかしスピーカーごしの夏樹の態度は変わらず、

「なら安心だ」とは一言も出そうにない物々しい態度だった。

 実際渡もおかしいことには気付いていたが、

 信じたくないのが本音だった。スマホを握る力が強くなる。


「100%か? 100%閃くのか? 確かに私もそういう付き合いはある。

 くだらん会合かと思ったら意外なヒントを貰って、それが経営の一助になることもあった。

 だが100%じゃない。君だって、サークルの先輩がそれっぽいこと言うだけでユリイカが発生するか? 

 電流が脳裏に走るのか?」

「100%……」


  確かに作品の大成功の前には必ずSOFTでのコミュニティ活動がしっかり残っていた。

 彼は幼馴染の父が記録魔であり、何でもかんでも貪欲に吸収しようという類の

 人間であることを知っていた。だから一人ぼっちの渡に声を掛け、衣食住をそろえて、

 大学まで金を出し、あしながおじさんを買って出たのだ。


  彼は超能力のことは泰安には伝えなかったが、芸術家としての勘が

 渡をユニークな人物というだけで腐らせておくにはもったいない人物だと、

 泰安に気づかせたのだろう。しかしだからといって泰安は、

 彼をヒントに作品を生んだとは滅多に渡には伝えなかった。

 むしろ親しい存在だからこそ、刺激には乏しかったのだろう。


「明後日、泰安氏が個展を開く。それ自体は君も知っていると思うが……」

「俺にどうしろってんだよ。おじさんは怪物になって、

 人を襲う予定があるって警察にたれ込めばいいのか?」


  渡は怒りを込めて、スピーカー越しの夏樹を糾弾した。突然電話を執拗にしてきたと思えば、

 自身の唯一といっていい肉親に根拠不明の物言いをしてきたのだから当然の反応ではあった。


「そ、それは……。すまない」

「要件はそれだけか。今度はせめて怪物が『現れてから』 電話してくれ。ったく……」


  珍しく言葉に窮する夏樹に、ほんの少し言い負かしてやったという

 勝ち誇った感情を一抹に抱き渡は電話を切った。


「どしたの。納期でもぶっちぎった?」

「あ……いや、なんでもない。 ちっとムカつく電話されたから」


  すでに作業を終わらせた庵が、爽やかに汗を拭いながら渡に話しかけてきた。

 相当長電話をしていたのか、彼が気付いた頃にはすでに

 ゴミ拾いグループは撤退の準備を始めていた。


「ってかアンタ、電話のときにめっちゃジェスチャーすんじゃん! 

 めっちゃおもろいんやけど、あれ普段からやってんの?」

「あ? え、ええ? そうなのか……? いや、全然無自覚だったけど」


  庵はいつも、渡が動揺していることに気づくと茶化しに来る。真正面から慰めようとすると

 彼のプライドに差し支えがあるだろうと思っての変化球だった。だが渡にもバレバレの軌道だった。

 庵は励まそうとすると、たいてい無理筋な方向で「ウケる」と言い始める特徴が

 あったので分かりやすかったのだ。


「まあ、急用の電話だよ。仕事のな。ところで……」


 渡は生唾を飲み込んだ。


「親父さん、明後日個展を開くんだっけ? なにか手伝おうか?」


  今までも彼は不定期に泰安が行う個展の設置の手伝いをしていた。

 その度に、スタッフを一人余分に雇わなくて済むと、泰安は冗談めかして有難がっていたので、

 今回もそうなるだろうと彼は考えていた。


「いや……そんな大きな展示じゃないから」

「……そうか?」


  庵の顔は明らかに曇っていた。100人中80人くらいは

 彼女の面持ちを見て何か悩みがあるんだろうと察しそうな程度の曇り具合。

 渡の中で、まさかが確信に近づいていった。


「ヌード系とか裸婦像が多いとか、そういうんじゃないよな。

 あんまり覚えてないけど、親父さんはたまにそういう展示のときは

 お前に手伝いをさせなかったよな。ハズいし、身内とは言え、

 花もはじらう乙女に見せるもんでもないし」


  しかし庵はそれは間違っていると、手振りも激しく否定した。

 いつもの動作だったが、疑念を抱いている彼には、一層訝しむ要因の一つになった。


「いやいや。流石に大学で美術やってる人間が恥ずかしがるようなもんでもないし。

 どんだけデッサンで人の素っ裸見たと思ってんのよ。

 流石にね、そんなもんでパパが遠慮する歳でも私ないから。

 ……ていうか、そんなんじゃないよ」

「ふーん……ま、課題終わってねえし。どっちみち手伝いには行けないけど」

「は?! アンタきっ、昨日、ちょ、言ったよね?! 

 卒論の提出期限!! 今日よ!? 私はもうかなり前に出したけど!!」


  何かにつけて彼女は渡の成績にやたら関心を示していた。幼い頃は渡自身も、

 貰い子である自分が馬鹿であると分かったら家から追い出されるのではないかとヒヤヒヤしていたが、

 いい歳になってくるとそれも杞憂だと気付いた。


  しかし庵は彼をいつまでも庇護の対象として見ていて、

 同い年だがまるで姉のように彼の心配をしていた。先程までの心配そうな顔に、

 驚きと怒りが小さじ程度に添加された顔で、青ざめるやらなにやら、

 複雑な面持ちで激しいツッコミを続けた。


「いいんだよ。研究対象はこれからの世間様そのものだからな」


「うわ~~……開き直り方が炎上した古株のコメンテーターみたいでキッツ~……」


「言ってろよ。ハハハ」


  ひとしきり追求をし終えると、庵はまた深い溜め息をついてすっとしゃがみ込んだ。

 まるで靴紐を直すかのようなごく自然なしゃがみ方だった。


「こんな世界、救う価値ないけどね」


 渡はそれを聞いてしまった。


「じゃ、じゃあ俺、晩飯の材料買うから」


  いままで何回言ったか分からないほどの別れの挨拶をしてその場を立ち去った。

 時々、庵は泣いていることがあった。直前に嫌なことがあったわけではなく。

 本当に脈絡のないタイミングでだ。数少ない彼の子供の頃の思い出の中に残っているのだから、

 彼にとってその行動は本当に奇妙だった。


 自分が女性心を知らないせいで、不意に傷つけてしまったせいかとも悩んだ日も彼にはあったが、

「そうではない」と彼女ははっきりと答えたので、そう思うしかなかった。

 このときもきっと、それに近いものなんだろうと思う他なかった。


「……セーブオブパスト。アブない人じゃあるまいし、

 世間様に良いことをしている団体が雑に悪の組織とか……。バカじゃねえのマジで……」



 ――明くる日の深夜。渡はベッドに横になり、

 独り言を呟きながら天井のタイルの数を数えていた。

 無音が渡を押しつぶそうとしたとき、彼のスマホに着信が入った。


「庵? なんでアイツ、アプリ通話からじゃないんだ? 

 今暇? とか聞いてくるようなキャラじゃねえし……」


 通話のアイコンをタップし、耳にあてがった。


「もしもし? なに、今から飯とかなら勘弁してくれよ。 

 例の会社の研修的なやつから帰ってきたところなんだ……」

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