CASE13「- スレンダー - 痩せぎすた契り その5」
信じようと、信じまいと-。
スレンダーマンによる連続拉致事件により、「夜」を奪われた街。ハラエド。
原種の「渡」とトカゲ種の人間「スクアーマ」、そしてカワウソ種の「オッター」は
それぞれ違う推理からも、同じ答えへと辿り着き、スレンダーマンの根城である
廃墟の終末医療センターへと足を踏み入れていった。そこで彼らが目にした光景は、
スレンダーマンによるおぞましい選別の瞬間であった。
信じまいと、信じまいと-。
無貌の長身、スレンダーマン。
彼の腕に締め上げられていたのは、オッターとスクアーマが食事を取った
ファミレスの従業員だった。従業員であるゴールデンレトリバーの青年は
罵詈雑言をスレンダーマンに浴びせ続けるも、無理な体勢もあって
青息吐息の有様だった。格好を見るに、帰宅中を襲われたようだと
オッターは推測した。必死に走って逃げたのだろう。
靴紐は解け、片方の靴は脱げ、毛並みもボロボロだった。
「(助けに行かなきゃ!)」
状況を見るや否や、スクアーマは後先考えずに表へ飛び出そうとした。
オッターは慌てて彼の尻尾を掴み、静かに踏みとどまらせた。
スレンダーマンは得物に夢中なのか、幸いにも騒ぎに気づく様子は無かった。
「(痛""ッッッ!!何すんの!!)」
「(馬鹿か君は?!策もなく飛び出してどうする!!)」
「(でもあの人が!!)」
「(スーちゃん。気持ちは分かるが、まずはヤツが何をどうする気
なのかが大事だ……)」
スクアーマは涙目で2人をにらみつけるも、静観するという点においては
オッターと渡の間に見解の相違はないようだった。渡もまた慎重だった。
現状では誘拐して連れ去った先が判明したに過ぎない。
スレンダーマンが呼ぶ「カレン」という存在が一体どういったものなのかが
重要だったからだ。二人に言葉で諭されなくとも、
スクアーマはすぐに自身を顧み、不満げなため息をつきつつも、
同様に静観に徹することにした。
「『カレン』……出てきてくれ、カレェェエ~~ン……」
「チクショウ……俺を、どうするつもりだぁ……」
「……カレンのお婿さんに……お前は選ばれた……
だから、結婚、するぅ・・・・・・」
「は!?誰がだよ!!大体俺は純血種としか付き合わねー主義……」
か細く、多少のビブラートの掛かった幻惑的な声で
スレンダーマンはゴールデンレトリバーの青年にノーモーションで
顔を近づけた。青年の態度が気に食わなかったようだった。
彼はあくまでも反骨の精神を忘れることはなかった。
しかし今や青年は、尻尾や足を狂ったようにバタつかせ、
声にならないギギギという声を上げ続けるほかなく、
あまりにも無力だった。
「あ……あああ!!!ごぼぼぼぼっ!!!」
白目を剥き、血の泡が耳や目、口角から石鹸を泡立てたように
噴出していく。例えそれが新月の廃墟の中、全く見えない状況だとしても
顔を突き合わせるという事実が、邪視を引き起こすのだ。
「(ダメだ。助からねえ……)」
「(どうして!?渡は助かったじゃない!!)」
「(彼は怪異慣れしているといえば良いかな。邪視への耐性は
人によって差が大きく開く……残念だが彼の耐性はゼロだ……)」
「ア、あぁああぁか、か°っ、か……ごぼぼ……」
「カレェェ~~~ン。彼はどうだぁ……?」
まるで高圧電流に身を焦がされたように、青年は痙攣を繰り返したまま
死んでいるとも生きているともつかない手遅れの状態へと変わり果てていった。
全身の筋肉は弛緩し、先程までの威勢も夢の中の話だったように消え去った。
そして彼が死の世界に足を踏み入れた直後のことだった。
新月にも関わらず、異様なほどの月光が天井の穴から降り注ぎ始めた。
月の光が朧気に、しかしはっきりと差し込み始めると
決してARなどではない、この世のものではない存在が姿を表した。
繰り返される狂気の連続と怪異のリフレインに、スクアーマは
思わず口に手を当てて小さく声を漏らしてしまった。
「カレン……待たせた……。彼こそ婿にふさわしいと思わないか……。
う……脇腹が……。あのカワウソめ……」
スレンダーマンは脇腹をたまにさすりながら、痛みに耐えるように
顕現した少女の幽霊へ問いを投げかけた。
少女はおよそ4,5歳といったところで、桃色のパジャマ姿をしていた。
「カレン」、それはオッターの推測上のスレンダーマンの亡き娘であり、
彼が怪異に変容した原因である存在。渡にとっては、
スレンダーマンの抑止力になるキーパーソンだった。
彼女の正当な意志さえ示せれば、スレンダーマンの暴走を止められるであろうと
渡は考えていた。
「あーかいとーりー、こーとーりー、なーぜ、なーぜ、あーかーい?
あーかい実を、たーべーたー……あーおいとーりーこーとーりー……」
「カレン……『また』だめかい……。じゃあ、彼はお客さんにしよう……」
スレンダーマンは歌い続ける少女へ自問自答を寂しげに繰り返すと
獲物であったゴールデンレトリバーの青年の遺体を左端の最後列へと座らせた。
「(謎が解けたぜ……こいつぁ『冥婚』だ。
薄々そうかもとは思っていたが、よもや違う伝承が融合しているたぁな……)」
「(冥婚?渡、それは一体……)」
「(死者と結婚することだ。もちろん普通は相手を殺したりしないが、
ごく一部のほんの過激な習俗では、婿か嫁、あるいは両方が
殺される。3000年前だって、名前でしか残っていない習俗だけどよぉ……。
それがどうしてスレンダーマンが知っている?)」
「(誰かがそれを教えた。それしかないだろう?渡クン。
考えてもみたまえ!幼い子を亡くした親なんてたくさんいる。
このやすらぎセンターならもっといるはずだ。
君は、3000年前に忘れ去られたはずの
冥婚の儀を奴に教えた『誰か』がいる。
そう考えてるんじゃあ……ないのかい?さもなければ、
世界中で子を亡くした親が怪物化しているはずだ)」
オッターの言うその「誰か」について、渡はある一つの存在しか
頭に浮かばなかった。冥婚という忘れ去られた行いを知っている人間は
ごく限られる。夏樹と自身を除けば「あの連中」しかいない。
まるでこの現象も、ゴールに辿り着いたと思ったら、
ただの中継ポイントに過ぎなかったようなものだと、
彼は乾いた笑いを禁じ得なかった。
いずれにせよ、それについて詳しく語るには場所が悪すぎた。
オッターは隠れ場所に月の光という高原の存在を考慮に入れていなかった。
真っ暗闇というアドバンテージに背中を預けていたため、
策にボロが見え始めた。スレンダーマンは、月の光にきらめく
こちらの何かに気がついてしまった。靴の金具か、闇夜にもたらされた
光源によってスクアーマの目が反射してしまったのかは誰にも
分からなかった。しかし気づかれたという事実が重要だった。
「誰だ!!」
スレンダーマンは今までの間延びした口調ではなく、
娘の前なのか気の引き締まった立派な男性の声で、影に一喝した。
しかしあくまでも渡たちはシラを切り続ける。
邪視は単数でも複数でも、誰を見るかを自身が決めない限り
効果がない性質を持つ。また盲目相手にも効果がない。
3人の頬をぬらりと汗が滴り落ちる。呼吸が段々浅くなる。
「まずい。まずいぞ……あの女に言われた期限が近い……。
参列者で席が埋まってしまったら、娘の病気が治らなくなってしまう……
こんな場所に誰も近づくはずがないのに、急かされている気分だ……。
気が立って判断が鈍っている……」
スレンダーマンは頭を抱え、神父が立つ講壇の近くをうろうろしながら
狼藉していた。何かに気が取られるのも、自分が焦っているからだと
自らを省みる様は、とても人間的だった。
渡にとってそれは憂慮していた事態でもあった。
スレンダーマンは確かに都市伝説ではあるが、生身の人間が変貌した、
いわゆるアフレイデッドだったからだ。
それはオッターの推測どおりの事実だった。
彼は実態のない単なるエネルギー体としての都市伝説を倒す行為には、
なんら抵抗感を持たない。同時に彼は今まで一度たりとも、殺人を犯した
経験はない。そう彼は自分を信じていた。
今後、一体どうすべきか。渡の脳内はそれでいっぱいになっていた。
参列者で席が埋まる。その言葉に渡達はおぞましいものを
想像せずにはいられなかった。そしてそのおぞましい空想は
事実だった。月明かりがより一層廃墟を照らすと、
なぜ今まで気付かなかったのかと彼らが思うほどの恐ろしい光景が、
彼らの眼前に広がった。
それはパイプオルガン側に近い、右端最前列の端から、
入口側に近い左端最後列の長椅子にまで、
びっしりと「参列」する被害者たちだった。古いものは既に砕け散り、
椅子の周りにおびただしい数の骨が散在している。
それ以外の比較的新しい、あるいはミイラ化しているものはどれも
恐怖の顔に歪んだまま、脳のショートの末に
死亡したことを思わせるものだった。あるいは、
腐敗して虫の湧く尊厳のないものだった。
彼らは皆、スレンダーマンの何らかのテストに落ち、オーディエンスとして
端役を演じさせられている。
海外ドラマでもこのような惨状は見たことがない。渡はそう感じ、
湧き上がる胃の内のものに抗えずにいた。
同じくスクアーマもオッターも、流石の事態に絶句し不意に
襲いかかる吐き気の洗礼を受けていた。
「(わ、渡!我慢して……!
僕も吐きそうだけど、帰ったら一緒にゲロ吐こ?ね?
だから落ち着いて……)」
「(連れションはともかく連れゲロはどうなんだ……
何れにせよスーちゃんの言う通りだ……でも……)」
「(君が極端にグロに耐性がないのは、過去のトラウマからだろうね……。
しかしこれは……誰でもキツい。なんて酷い……
教会をモルグにするとは、相手への尊厳を全く感じられない行為だ)」
えずくことすら許されない緊迫した空気のなか、
皆の精神的な動揺は爆発寸前だった。
「カレン……君の病は医者にも治せなかった。
小鳥のような僕のカレン。どうか、どうかパパを許してくれ。
次こそ君の気に入る結婚相手を……探してあげるから」
スレンダーマンは、呼吸も構わず(幽霊だが)歌い続ける
少女の霊に対し、許しを請うように跪いていた。
おおよそ、おどろおどろしいイメージのスレンダーマンには
似つかない懺悔の光景だった。
だがそんなことは3人には関係なかった。
手段と目的が理解できた以上、長居は無用だった。
「(現状打破は可能だ。壁はどこも脆い。
100%見つかるが、ヤブの中全力でサヨナラすれば
スレンダーマンを撒けるだろう。そのためには
スクアーマクン、君が頼りだ)」
「(ぼ、僕は確かに枯死も操れるけど……
そんな難しいこと……)」
「(僕らは全員プロだ。僕は物体の弱点を見るプロ。
渡クンは都市伝説へのアプローチのプロ。そして君は
植物のプロだ。今必要なプロ、それは君なんだ。
勇気を出して。夏樹さんへこの情報を持ち帰るんだ)」
オッターの励ましが効いたのか、ショッキングな光景に
震えが止まらなかったスクアーマの目に光が戻った。
彼は目を数刻の間閉じると、闇夜に適応した大きな瞳で
自分たちの背後の壁を見つめ決心をつけた。
「(分かった。渡、オッター……行こう!)」
「(そういうことなら、手伝うぜスーちゃん。
既に最短で人里に降りられるルートを構築済みだ。
オッター。お前の力、頼りにしてるぜ)」
息の上がる渡だが、それでも信の置ける友と共にいる
という事実は彼の心から恐怖を拭い去った。
たとえ鼻先の見えない闇夜でも、怪異がもたらす不正な光の下でも、
自分は一人ではないということが、彼にとって何よりも重要だった。
決意に満ちた表情で彼も呼吸をどんどん整えていった。
「さて……この教会の『弱点』は既に見抜いている……!
崩れ去ってもらおう……物質崩しッ!」
まずオッターが行動を起した。彼は触診とも太極拳ともつかぬ、
奇妙な動きで彼は壁に触れ、軽くノックした。
まるでスイカの中身を確かめるような動作だったが、
それは脆い壁にとって致命的な一打だったらしく
乾いた粘土細工に乱暴をするように、壁は崩れ去っていった。
しかし無音というわけにはいかなかった。
「やはり居たかぁ……!!子ネズミどもがぁ……!!!!」
場が荒らされたせいか、結界のようなものが壊れたせいか
不正な月の光はふっと消え辺りは再び漆黒へ舞い戻った。
少女の霊も、歌も、それと同時に中断される。
壁の崩落と同時に、鳴るはずの無いパイプオルガンが
突如として演奏を始めた。それは渡の温度操作能力で生じる
副次的な気流操作によるトリックだった。
パイプオルガンは乱雑な音ではなく、スレンダーマンの気を削ぐ
特定の演奏を行っている。
「結婚行進曲……だと?
ネズミどもがぁ!!私を愚弄して………ッッ?!」
渡はラプラスからメンデルスゾーンの「結婚行進曲」を調べ上げ、
能力による自動演奏を行い続けた。彼の読みどおり、
結婚という関連に敏感に反応したスレンダーマンは、激高して
3人の隠れる場所へ猛然と突き進んできた。
だがそれは2つ目の罠だった。真っ暗闇という視界の不良さは
スレンダーマンにとっても同じであり、足元の葛のツルに彼は気づけなかった。
受身を取るスペースも無く、そのまま倒れた先はパイプオルガンの
鍵盤のフチだった。前頭葉部分を強打し、悶え苦しむスレンダーマンに
3つ目の罠が発動する。彼の頭部の強打をきっかけに、劣化により
折れたパイプオルガンの一つが完全に破断され、彼の背中目掛け
まっすぐ突き落ちていく。それは見事に彼の正中線に突き刺さり、
まるでウナギの解体するための杭のようだった。
「ギャアーーーーーッッッッ!!!!」
偶然ではない。オッターの物体の弱点を知る能力と、
スクアーマの植物を操る力、そして渡の温度操作能力による
完璧なコンビネーションによって引き起こされた災害だ。
しかし後の警察のために、現場は完璧に保存されるだろう。
オッターは物体の運動の全てを熟知しているため、
必要以上の破壊を生じさせなかった。
彼らはスレンダーマンの絶叫を背後に聞きながら、
清水寺のような高低差も物ともせずに跳躍した。
スクアーマが生成した樹木のスロープが彼らを受け止め、
可能な限りの距離を稼ぎながら滑り落ちていく。
滑り落ちた先は一切の手がかりのない闇。
しかし文明の利器は灯台の光のように彼らに光明を指し示す。
彼らの視界に示されるARマーカーは、急な窪地や滑落の危険のある
場所を全て回避してくれていた。
「ラプラス!!プレイリストの再生を実行!!
『木枯らしのエチュード』!!」
続けてスクアーマの能力により、木々を全て枯れさせていく。
彼は左腕のターンテーブル状のリストを操作し、チューニングを合わせた。
するとショパンの木枯らしのエチュードの旋律に乗せられた呪いが
木立を駆け抜け、過ぎ越しの晩の後のように死が吹きすさんだ。
サラウンドな呪文は音を左右に振ることで、ルートが変わり、
死の進む場所も変わっていった。木々は砕け散り、風に消えていく。
「待”てェエェエエーーーー!!!!!!!」
しかし作られたルートは、同時に敵の追跡を許すルートでもあった。
この作戦の欠点は、道を拓きすぎて敵も瞬時に彼らを追い詰めてしまう
というものだった。だから初動で3人は、やり過ぎとも思えるほどの
大ダメージをスレンダーマンに与えたのだ。
「やべぇもう来た!!オッちゃんの計算ミスって
オルガンのアレ刺さってなかったんじゃねえのか!??」
「誰がおっちゃんだ!!僕はまだ30だ……ごほん!!
……いや、それはない!!オルガンのパイプは確実に刺さった!!
後ろの音を聞け!!」
オッターの言う通り、渡が走りながらも後ろに耳を澄ませると、
ズドドドというイノシシの大群のような音に混じって何かを引きずる
ガリガリという音も聞こえていた。致命傷は与えていたのだ。
だがスレンダーマンは、その追跡の手を止めることは無く、
むしろ怒りと執念によって存在が強固になっているようでもあった。
「じゃあなんでっ、あんな元気なのっ!!」
「……執念だ。思いの強さが、ヤツは尋常じゃねえ……!!」
スクアーマは、胴体に巨大なパイプが刺さりながらも、なお
追跡を止めないスレンダーマンに恐れをなしていた。
「このままじゃ人里に辿り着く前に追いつかれちゃうよ!!」
「……俺に任せろ。スーちゃん!!オッターを連れて
ルート通り逃げろ!!俺はヤツを一時粉砕する!!」
「な、何をする気か知らないが……君に一任するとしよう……っ!」
突然の提案に、スクアーマとオッターは動揺した。
しかし四の五の言う暇がないことは明らかであり、一秒ごとに
スレンダーマンの声が近くなっていることは誰の耳にも確かだった。
彼らは互いに会釈し合うと、ある地点を境に散開した。
渡はマーカーの示す道を無視し全く違う場所へ身を翻す。
その視界には警告を示すメッセージが
けたたましく表示される。渡の進む先には、巨大なダムがある。
彼の読み通り、スレンダーマンは別れた渡の方を追跡し始めた。
「奇数で会いに行って正解だった。知性があるというのなら!!
ヤツは必ず一人の方から狙いに行くッ!!」
渡はいつか役に立つだろうと会得していたパルクールの技能を活かし、
木々という木々を掻い潜り、岩々を躱し隙間を縫い走り去っていく。
スレンダーマンは空を泳ぐタコのように触手を使い、非常識な軌道で
彼をぐんぐん追い詰めていった。
「追い、詰めたァアァ……!!サぁ、婿ヲ……迎え入れルぞ……ォ!!」
とうとうコンクリート造りの瀑布が渡の視野にバッと広がった。
轟々と水は幾本かの束になり流れ落ちていく。毎秒何千トンという量だ。
諦めたようにダムの立入禁止部分の橋に立ち尽くす渡を、スレンダーマンは
触手をガラガラヘビの尾のように揺らめかせながらにじり寄っていく。
ライトアップされた橋には、2人の細長い影だけがあった。
「スレンダーマン。いや、『ブラックウッド』さん。
気付いているはずだ。こんなことをしても娘が帰ってこないことを」
「!」
渡は振り返らず、眺望を望みながらただ静かに言葉を続けた。
「娘さんの病気は、この世界ですら治療できない呪いのような病気だ。
合併型慢性歌唱症候群。ウイルスに侵された脳が、呼吸も無視して
患者を歌わせ続ける……皮肉なもんだな。アンタの子守唄を覚えて、
それを歌い続けるなんて。しかもこの病で歌う歌は、どれもこれも
天上のそれに親しいと言われるほどの美声だっつーんだからよ」
「アァァアァ……!!婿、婿ヲ!!娘ノ婿ニなれェエェエエ!!!!」
スレンダーマンは渡の言葉が通じているのか、堰を切ったように
目にも留まらぬ速度で触手を彼に突き刺そうとした。
しかし彼は紙一重の瞬間、飛んだ。
あまりにも高い、あまりにも激流のその中に
微笑みながら深紅色の髪の男は空を切りダイブしたのだ。
スレンダーマンは対象の突然の行為に、さすがに慄いた。
今までの獲物は皆邪視によって身を凍らせ、自殺もさせないように
慎重に運んでいたからだ。身を乗り出し、
滝壺の底を伺うスレンダーマンの次に見た光景は、
更に常識を覆す状況だった。
「アンタがこの街を襲い続けるのなら、例え……例えアンタが
人間でも!!俺は皆の笑顔を守るために、
俺が罪を背負ってやる……!!」
先程飛び降りたはずの男は、空に留まっていた。
彼はごく30秒程度ならジェット噴射により
姿勢の制御と空中浮遊が可能なのだ。闇の中、滝の流れによって
生じた激しい風にその赤髪はたなびき、
まるで姿は夜魔のようであった。初夏の生ぬるい風は、徐々に極北を思わせる
耐え難い寒さへと姿を変えていく。スレンダーマンはその強い執念で
なおも攻撃を試みようとする。
「ネズミが……ァア……!!」
スレンダーマンは触手を伸ばし
改めて彼を刺し貫こうと空へ器官を伸した。
それはイモガイの捕食を彷彿とさせる有機的な動きであり、
都市伝説が肉体を持って活動していることがよく分かるものだった。
しかしその触手が渡に届くことはない。スレンダーマンが気付いた頃には
触手は全て凍てつき、それどころか足元も霜でガチガチになった
冷凍庫のように氷漬けになっていた。
渡が背水の陣を選んだのは、それは捨て鉢などではなく、
潤沢な水と、絶え間なく飛沫を上げるエアロゾルを
手中に収めるためだった。一挙としての凍結は、空気の異常に気付かれ、
砕かれる恐れがあった。そしてそれは絶え間ない膨大な飛沫という
偽装を以てカバーされたのだ。
「~~~~~!?」
「元を断たない限りお前はきっと蘇るだろーよ。
お前のクライアントが死ぬことを許さないからな……。
でも今は、このダムの塵に消えてもらうぜ。
『ブラックウッド』さんよ!!」
次に自分に降りかかる現実を本能で理解したスレンダーマンは、
必死に身を捩ったり、靴を脱ごうとして脱出を試みた。
しかし、次から次へと渡の能力なしに供給される水が絶え間なく
その氷を補強し続け、ヘタな金属よりも強固なものへと姿を悪化させていった。
渡は底へ落ちる一瞬を切り取って、その膨大な水を手駒とした。
ダムはほんの2秒だけ静かになり、再び轟音を取り戻す。
彼の手で切り取られた水の塊は無数に分解され、それぞれが
前時代的なライフル銃の形を型どっていく。
本数にして何十万丁といった規模だ。
弾丸はこの場に遍く存在する「飛沫」。事実上の無限であった。
スレンダーマンの柳のように細い体に対し、ラプラスの補助によるポインターが
一点、二点、三点、やがて身体が真っ赤になるほど量が刻まれていく。
「喰らえッ!!デビルズ・マックス・ヴェール!!
一斉射撃だこの野郎!!撃ーーーーーーーーーーッッッッッッ!!!!」
氷の弾丸という存在は、かつてケネディ暗殺のときにも囁かれた
幻の存在だ。しかしそれは物理的な制約として、
射撃のときに発生する熱で瞬時に溶け空中で蒸発するという欠点があった。
しかし、銃すら氷であれば、あるいは極限まで高めた圧力によって
作られた氷と、その空気圧でなら、それは夢物語ではなくなる。
大気の何万倍の圧力によって生じる氷は、
炎と変わらない温度をその身に宿しているからだ。
スレンダーマンの身体は、そうした悪魔のイタズラとしか思えない
ゴリ押しの産物によって、凍てつきながら燃え、身を滅ぼしていった。
あまりの射撃に、その身体はかき氷のように砕け散っていく。
「ガレ"エ"ェェエエェェェン"!!!!ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!!!!」
スレンダーマンは手を伸ばし、霞む邪視の中、娘の幻を飛沫に見た。
やがて無貌の身体は霧吹きの水のようにキラキラと、
ダムの水と入り混じり、見えなくなっていった。
「次に動くのは、きっとアイツらだ。過去を礼賛する者たちめ!!
かならずアイツらの誰かが、スレンダーマンを『復活』させる……ッ!!
早く街の皆を避難させないと……全員死ぬ……ッ」
今回から、どこからでも読みやすいようにフォークロアの係り結びの体裁で
あらすじを前書きに書くことにしました。理由は前述の通りと、ややこしくなってしまった
からです。




