プロローグ
「チカ、苦しくない?」
お兄ちゃんは、ベッドに横になったわたしの手をにぎってくれる。
病院のベッドも、てんじょうも、キレイすぎてコワイ。
けど、大きくてあったかいお兄ちゃんの手が、つつみこんでくれるから平気。
「ありがとう、お兄ちゃん。もう、だいじょうぶだよ」
わたしが笑うと、お兄ちゃんも笑顔になる。
それがうれしくて、もっと笑う。
あのね、わたしは病気なんだ。
心ぞうの病気なんだって。
だから、ほかの子みたいに走ったり、力いっぱい遊んだりできない。
そんなことをしたら、すぐに、むねが苦しくなっちゃうからだ。
それどころか、何もしなくても、むねが苦しくなることもある。
学校をお休みしたり、むねが苦しくなって病院に運ばれたりする。
今日だって、学校でたおれて、病院に運ばれた。
そんなわたしを、お兄ちゃんが、むかえに来てくれたの。
パパとママは、いつも家にいない。
わたしの病院のお金をかせぐために、お仕事をがんばっているからだ。
そのかわりに、お兄ちゃんが、ついていてくれる。
お兄ちゃんは、いつもわたしのことを心配して、やさしくしてくれる。
学校でたおれたわたしを、いつも病院までむかえに来てくれる。
お兄ちゃんには、小夜子さんっていうガールフレンドがいるんだ。
それなのに、いつもわたしといっしょにいてくれる。
病気は苦しいし、パパやママにあんまり会えなくて、さみしい。
けど、わがままを言うとパパやママがこまるから、言わない。
それにパパやママに会えなくても、お医者さんも、学校のみんなも、やさしくしてくれる。なにより、お兄ちゃんがいてくれる。
だから、今のくらしはぜんぜんイヤじゃない。
でもね、知ってるんだ。
わたしの病気は、治らないって。
だって、ママと先生が、わたしのいないところで暗い声で話をしていたのを聞いたことが、何度もある。
そんなとき、ママはわたしの名前をよびながら、泣いていた。
それに、お兄ちゃんも、パパもママも、学校の先生も、わたしがテストで悪い点数をとっても、おこらない。
それはいいことかもって思うけど、みんながテストで悪い点を取るとおこられるのは、勉強ができないと大人になってからこまるからだなんだよ。
でも、たぶん、わたしは大人になれないから、こまらない。
だから、だれもおこらない。
そう思うと、ちょっと悲しくなる。
わたしがいなくなって、消えちゃったら、どうなるんだろう?
みんなは、わたしのことを、わすれちゃうのかな?
わたしが楽しかった気持ちも、悲しかった気持ちも、好きだった気持ちも、みんな消えてなくなっちゃうのかな?
そう思うと、悲しくて、泣きそうになる。
そんなわたしの手を、お兄ちゃんがぎゅっとにぎってくれる。
お兄ちゃんの手は大きくて、つつみこんでくれるみたいに、あったかい。
「心配しないで、チカ。何があっても、チカにはお兄ちゃんがついているから」
お兄ちゃんは言った。
「お兄ちゃんはチカのヒーローだから、お兄ちゃんの力を全部使って、チカのことをまもってあげる」
そう言って、わたしを安心させるみたいにニッコリ笑った。
お兄ちゃんの笑顔は、太陽みたいにあったかい。
お兄ちゃんは、日曜日のテレビでやってるみたいなヒーローになりたいの。
だから、わたしだけじゃなくて、だれにでもやさしくて、みんなの人気者。
でもね、お兄ちゃんがどんなにがんばっても、わたしの病気はなおらない。
だから、お兄ちゃんには、わたしがいなくなっても幸せでいてほしい。
わたしがいなくなっても、やさしい、大好きなお兄ちゃんでいてほしい。
それから、できれば、わたしのことを、わすれないでいてほしい。だから、
「お兄ちゃんはふつうでいいよ。お兄ちゃんの力は、お兄ちゃんのために使って」
そう言ったら、お兄ちゃんの手がゆるんだ。
そのすきに、手をのばして、お兄ちゃんのほおをつねった。
お兄ちゃんはビックリした。
わたしは笑う。
わたしは、ときどき、こうやってヘンなことをする。
わたしがヘンなことをすると、お兄ちゃんはビックリして、笑ってくれる。
いつもそうしていたら、わたしがいなくなっても、わたしのことを、わすれないでいてくれる。そんな気がするからだ。
でも、そんなわたしの手を、お兄ちゃんの手が、ふたたびつつみこんだ。
「ううん、ヒーローは、自分の力を自分のためには使わないんだ。だれかをまもるために使うんだ。お兄ちゃんは、そういう人になりたいんだ」
そう言って、お兄ちゃんは笑った。
お兄ちゃんの手が、お兄ちゃんの笑顔が、あったかかった。だから、
「しょうがないな、お兄ちゃんは」
わたしも笑った。
わたしは、ただ、残り少ない時間を、お兄ちゃんと幸せにすごしたかった。
けどね、その時のわたしは、その後にどんなことがおこるかなんて、ちっとも知らなかったんだ。