71
王都から遠く離れた、ハインヒューズ家別邸。
別邸の一室に用意されたソファに腰を落ち着けるのは、随分久しぶりだ。
このひと月余り、レオンの学園生徒護衛に始まり、シュタインヴァルト皇国の皇子殿下の護衛で学園に通い、寮生活をするだなんて、思ってもみなかった。
護衛が終わり、氷の亡霊の件が片付くと、レオンは私とともに自宅に戻った。
ニコラス殿下とミリアが帰国し、氷の亡霊についての調査をしている間は、寮を離れたハインヒューズ家本邸でお世話になっていたのだけれど。
氷の亡霊の件はもう片付いたと、優しくレオンが微笑んだのはつい昨日のことである。
なんでも氷の亡霊の本名や、事件の動機、もう亡くなってしまったらしい氷の亡霊の恋人についても調べたようだ。
ともかく今後は氷の亡霊による被害は絶対に出ないため、ここで捜査は打ち切りとなったらしい。
──正確には捜査自体は打ち切りにはなっていないけれど、もう自分は関係がないからと、あとのことはジークベルト殿下や騎士団の方にお任せしてきたそうだ。
実際にレオンが王都に招集をかけられたのは、殿下の護衛という仕事があったからで、それ以外のことに、これ以上首を突っ込む気にならなかったのだろう。
予想以上に報酬は弾まれたようで、レオンの機嫌はすこぶる良い。
「可愛いリリィ、何か欲しいものはあるかい?」
だからだろうか。
レオンは今朝から、何度も同じ質問を繰り返している。
お金が手に入ると散財しようとするのは、レオンの悪い癖だと思う。
もっと問題なのは、例えレオンがどれだけ散財したとしても、それでもかなりの金額が手元に残ることだろうか。
レオンはレイズ領の薬草栽培に対する投資も行ってくれていて、そこでもお金を使っているというのに。
「レオン、本当に何も思いつかないのよ。何かあったら、きちんと言うわ」
「……そう言って、リリィからあれが欲しいこれが欲しいと聞いたことはほとんどない。あったとしても、すぐに手に入れられるものばかりで……私はもっとリリィを甘やかしてやりたいんだ。他の誰にも出来ないようなものを」
困ったように眉を寄せ、小さく息をつくレオン。
そんなことを言われても、思いつかないものは仕方が無いだろう。
「謙虚なのはリリィの美徳のひとつだが……」と続けるレオンは、そのことが気に入らないらしい。
「私が欲しいのは、レオンと一緒にいる時間くらいだわ。今みたいに、ふたりだけで、のんびり過ごすの。素敵でしょう?」
「リリィ、あまり可愛いことを言わないでおくれ。嬉しすぎて、いっそ心の臓が潰れてしまいそうだ……」
ほんのりと頬を赤らめるレオンは、どうやら私の言葉に満足してくれたようだ。
このひと月余り、レオンはニコラス殿下とミリアの護衛であったから、二人から離れることはなかった。
特に護衛対象の本命でもあるニコラス殿下には、影のように寄り添っていて。
レオンとニコラス殿下は同じ部屋でもあったし、もしかするも──もしかしなくても、私よりもニコラス殿下の方がともに過ごす時間は長かったはずだ。
その分私とミリアもともに過ごす時間は長かったし、そのおかげで親睦を深めることは出来たけれど。
ミリアと過ごす時間は楽しかった。
地方の貴族であり、貴族間の交流があまりない私にとって、唯一と言っても良い友人となれた。
話の内容は主に婚約者について……ニコラス殿下とレオンについてのものばかりだったけれど。
あまり婚約者についての話が出来る方は少なくて、例えお茶会などでその機会があったとしても、だいたいは驚かれて終わってしまう。
嬉しいけれど恥ずかしい、というのに同意してくれたのはミリアくらいだった。
これから先もそうそう出会えることはないだろう。
理解し合える友人というものは本当に貴重だ。
「しかし、リリィに欲しいものがないとすると……何のためにニコル殿下の護衛を引き受けたのか。リリィを贅沢させられると思い多額の報酬を手に入れたのに……」
いや、ニコラス殿下の護衛を引き受けたのは国同士の関係をより円満なものにするためではなかったの?
レオンもニコラス殿下と楽しそうにお話していたじゃない……。
「そういえばレオン、殿下の護衛中も、魔物討伐をしていたわよね?」
「ああ、そうだよ。魔物討伐の報酬と、護衛の報酬と、氷の亡霊の件の報酬で潤沢な資金があるんだ。全額渡そうか?」
「いえそれは結構よ」
レオンの討伐する魔物は、ギルドで討伐困難に指定されているものばかり。
当然ながら討伐に対する報酬は高額で、さらに皇子殿下の護衛、氷の亡霊という2カ国を騒がせた大罪人の捕縛に対する貢献、それら全てをひっくるめると、このひと月でレオンはかなりお金を稼いでいる。
少なくともニコニコ笑顔を浮かべて私に全額を委ねる、と言える値段ではないはずだ。
「夫婦になれば、私のものはリリィのものだ。つまりこの金はリリィのものなんだよ?」
「……嬉しいけれど、まだ正式な夫婦ではないわよ?」
アーデルハイドの貴族では、10歳頃に婚約し、15歳頃に社交デビューし、18歳頃に婚姻するというのが一般的だ。
まだ15歳──もう数ヶ月以内に迫っている誕生日を迎えれば16歳だが──である私たちは、まだ婚姻を結ぶには早い。
もちろん法として定まっているわけではないし、中には15歳で婚姻を結ぶ者もいないわけではない。
「私としては、今すぐにでも婚姻を結びたいくらいなのだが……」
「まあ、ダメよ。それではお義兄様より先に婚姻式を行うことになるわ」
ラインハルトお義兄様と、その婚約者であるお義姉様の婚姻式は、半年後に執り行われる予定だ。
それをもってラインハルトお義兄様はお義姉様の国に移り住むこととなり、黒騎士団を退団という形になる。
ラインハルトお義兄様は黒騎士団でも何度となく魔物討伐で功績を残していることを讃えられ、退団式は大々的に行われるらしい。
ちなみに正式な婚姻式はお義姉様のお国で行われるそうだが、アーデルハイドでも披露宴式は行われるそうだ。
「ラインハルトお義兄様とお義姉様の婚姻式、 楽しみにしてるんだから」
「夫婦でも楽しめるとは思うけれどね」
レオンはどこか楽しそうにふふっと笑い声をもらし、口元に指を添えた。
確かにレオンの言うことは間違いではないのだけれど、少し違うというか……。
「レオンは私との婚姻を急くけれど、私はもう少し婚約者のままでいたいわ」
「……それはまた、どうしてだい?」
「だって、これから先夫婦の期間はとても長いけれど、それに比べれば、婚約者の期間はとても短いじゃない」
18歳で婚姻を結んだとして。
それから先は、この生涯を終えるまで、私とレオンはずっと夫婦になる。
……もちろん中には夫婦仲が大変悪く、夫婦という関係に終わりを告げる人たちもいるけれど、私とレオンはそれに含まれることはないだろう。
だから、きっと“夫婦”でいられる期間は、長い。
その変わり、婚約者でいられる期間は、夫婦の期間が長くなればなるほど短くなってしまうのだ。
それはほんの少し、寂しい。
「リリィ……」
「だから、ね?もう少し、婚約者でいることを楽しみましょう?」
「……そうだな、そう考えれば、リリィと夫婦になるまでの期間も、愛おしく思える」
ふふっと微笑むレオンは、そのまま私に顔を近づけてくる。
静かに目を閉じれば、ちゅ、と私の口にレオンのそれが重ねられた。