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彼にとって、恋人のカレンは何よりも大切な存在であった。
シュタインヴァルト皇国の平民として生まれ、貧しいながらも仲の良い家族や、何かと気にかけてくれる優しい近所の人々も、もちろん大切な存在だ。
けれど彼女のためであれば、きっとどんな事でも出来るような、そんな根拠の無い自信があった。
カレンはシュタインヴァルト皇国の貴族であり、子爵令嬢であった。
初めて出会ったのは、彼女がお忍びで街に出かけた時のこと。
護衛たちの目をくぐり抜けてひとり歩き回り、慣れぬ街で迷子になってしまった彼女を助けたことがきっかけだった。
一目見たときから彼女に惹かれ、そして後に知ることとなったが、それは彼女も同じであった。
何よりも、誰よりも、愛おしい人。
元々平民にしては高い魔力を保有していた彼は、少しでも彼女に釣り合うように、身分差など覆せるように、魔術の習得に力を入れた。
困難とされる氷の魔術を積極的に学ぼうとしたのは、実にくだらない理由である。
彼女の姓が、“アイスヴェルグ”だから。
彼女の姓に含まれる、アイスの魔術を使えば、彼女をそばに感じられるような、そんな気がしたから。
カレンのことを思えば、どれだけ苦しく悔しい思いをしても、耐えることが出来た。
何度も何度も魔術の習得に失敗し、傷だらけになった手を彼女がそっと撫でて、認めてくれたからかもしれない。
彼女のために──そう思えば思うほど、体の奥底から力がみなぎるような気がした。
まるでおとぎ話に出てくる、女神ヴァルヴァイアの加護を授かったような気になって、少し嬉しく思う。
特別に女神を信仰しているというわけではないけれど、愛と力を司る女神の加護を授かれば、永久の愛と愛する人を護りきるだけの力を手に入れられるという。
彼にとって、カレンはきっと生涯唯一愛することの出来る、特別な女性なのだ。
カレンにその話をすれば、花が咲くような笑顔で「きっとそうよ」と肯定してくれた。
何よりも、愛していた。
誰よりも、愛してくれた。
だから、信じて疑わなかった。
これから先も、彼女と、ずっと──。
それがただの都合の良い妄想だと、現実を突きつけられるのは早かったけれど。
忘れていたわけではなかった。
自分は平民で、彼女は貴族で。
同じく平民出身であったり、下級貴族で平民と同じような生活水準の使用人たちには認められたこの愛は。
それでもカレンの家族には認められることは無かった。
カレンの婚約が決まったのだ。
相手は侯爵家の子息で、花のように可愛らしい笑顔のカレンに惚れ込み、婚約を申し込んだらしい。
それをカレンの家族は受け入れ、そして、最終警告として、カレンとは二度と会わないようにときつく言われた。
カレンを最後にひと目見ることも許されず、言葉を交わすことはおろか、手紙を渡すことも出来なかった。
愛していた。
愛している。
愛されていた。
愛されている。
ふたりの気持ちはこんなにも繋がっているのに。
しかし身分という、ただ生まれた家の違いだけで、結ばれることが出来ない。
絶望した。
いっそ、カレンの家に忍び込んで、彼女とともに逃げ出してしまおうかと、本気で考えたこともある。
しかし、本当に愛しているからこそ──身を引くべきなのかもしれないと、思ったことは確かだった。
自分のように貧しく、彼女に今まで通りの生活をさせてあげられないのならば。
せめて彼女にひもじい思いをさせることのない男と一緒になる方が、幸せなのではないかと。
それが間違いであったことに気づいた時には、もう、全てが遅かったのだけれど。
カレンが死んだ。
19歳の誕生日を迎えて、数ヶ月もしないうちだった。
自分と別れて、侯爵家の子息と婚約した直後から、体調を崩しがちになったらしい。
最期に「彼に会いたい」と涙をこぼして、そのまま、息を引き取ったそうだ。
訃報を届けてくれたアイスヴェルグ家の使用人は、カレンとの仲を応援してくれていたメイドであった。
メイドは「お嬢様から預かったものです。もう筆をとる気力もなく、私が代筆したものですが」と手紙を差し出してきた。
そこには彼女の思いが綴られていて──どうして、彼女を連れて逃げ出さなかったのだろうと、ひどく後悔した。
カレンは、例え貧しくとも、苦しくとも、一緒に生きたいと思ってくれていたのだ。
好きだから。愛しているから。
侯爵子息は自分にはもったいないくらいの好青年だと書かれていた。
それでも、あなたが良いのだと。
より良い家柄も、贅沢できるだけのお金も、爽やかで整った顔もいらないから。
ただ、あなたと生きたかったと。
けれどそれは叶わないから。
せめて自分には生きて欲しいと。
あなたなりに精一杯生きて、頑張って、そうして寿命を全うして、会いに来て欲しいのだと。
最後には茶目っ気たっぷりに、「わたしのことが大好きだからって、わたしのあとを追ってきてはダメですからね。あなたには、わたしが生きられなかった分生きて、どんなことを経験したか、いっぱいお話してもらうんだから」とたしなめられていた。
ありがとう、さようなら、大好きです。
そう締めくくられた手紙をかき抱いて、何度泣いただろう。
何度も何度も後悔して、何度も何度も泣き叫んだ。
どうして彼女が。
どうして、どうして。
そうして何日も何日も泣き崩れて、そして、はたと気がついた。
彼女は、望んでもいない相手と結婚を強いられて、そして心を病み、そのまま闇の中で死んでいったのだ。
彼女を殺したのは、病でも何でもなく、彼女との結婚を強いた、あの男と、その家族なのではないか?
そう一瞬でも思ってしまえば、もう、黙っていることは出来なかった。
幸いにも自分には、一般的には習得困難とされる氷魔術を使うことが出来る。
魔力は多い方だ。
氷魔術以外にも、使える魔術は色々ある。
「死んでしまえ」
彼女を奪った男など。
彼女を殺した家族など。
彼女を絶望へ追いやった全てのものが、ただただ憎かった。
残念ながら、さすがは侯爵家というか、男を殺すことは出来なかったが。
それでも二度と動けない身体にすることは出来たし、彼女の家族を苦しめることも出来た。
本当は彼女の家族であっても殺してしまいたかったが、直前に、彼女が「家族のことが大好きなの」と笑っていた時のことを思い出して、思いと止まった。
せめて恐怖に怯えろと、家族が留守中に何度か自宅を荒らしてやれば、いつの間にか屋敷を手放し、知らない場所へと転居してしまった。
心に抱いた復讐心のままに行動しても、気持ちは晴れないし、彼女は戻ってこない。
せめて彼女と似た思いをするものを、自分と似た境遇のものを救ってやりたいと、依頼を受けるようになった。
何度も何度も人を殺した。
彼女の名にある氷の魔術で、何度も人を貫いた。
貫かれた者達は、依頼主の想い人を奪ったり、依頼主の恋人を寝取ったり、殺されて当然の者達ばかりだった。
──とはいえ、その依頼が嘘か誠かはどうでもよかった。
途中でその依頼が嘘であると知った時は、反対に依頼主を貫いたけれど、本当かどうかなんて関係がないのだ。
単純に、彼女の家族を殺せなかったぶんの憂さ晴らしがしたかった。
きっとこんなことをカレンが望まないことを知っているし、彼女が悲しむだろうけれど。
それでも、構わなかった。
氷の魔術ばかりを使っていたからか、いつしか氷の亡霊と呼ばれるようになった。
まるで亡霊のように姿を捉えられないかららしい。
彼女の名を持つことが出来た気がして、少しだけ嬉しかったのは事実だ。
そして、氷の亡霊として何度も何度も人を殺して。
初めて、出会った。
自分と同じように、一人の女性を盲目的に愛して──それが周囲に認められている存在を。
羨ましかった。
自分は認められなかったのにと、悔しくもあった。
けれど彼は自分など足元に及ばないくらいに強くて、だから思った。
きっと彼は自分のことをひと思いに殺してくれると。
カレンとの約束である「寿命を全うして」という言葉通り、自分の命を自分で絶つことは出来なかったのだ。
犯罪という手段に走ったのも、手っ取り早く、自分の命を終わらせてもらうため。
そうして彼と戦って、あっという間に追い詰められて。
命を散らす直前に、心の底から歓喜した。
きっと彼女には怒られるだろう。
悲しませるだろうし、傷つけただろう。
けれどそれよりも、もうこれから先、ずっと彼女と共にいられることが、何よりも嬉しかった。
『カレン!』
ふわり、と身体が軽くなった。
名前を叫べば、最後に見た時と同じ、可愛いカレンが振り向いた。
『アルト──!』
その目元には薄らと涙が浮かんでいて。
いつからか呼ばれたことの無い、自分の名前が、とても眩しいものに思えた。
氷の亡霊こと、アルト=プロジェスト。
彼は歴史に名を残す大罪人である。
彼がかつて愛し、死ぬ直前まで想っていた女性と。
死を持って、ようやく“永久の愛”を手に入れたことを、知るものはいない。