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(H30.5.31修正)避けそう→裂けそう
瞬きをする間に、少々みすぼらしい宿から、見慣れた黒騎士の鍛錬場へと転移する。
鍛錬場には何人もの騎士たちがおり、彼らは突然現れた人影に思わず剣を向け──すぐにその人影が団長や第一王子たちであることに気がついた。
慌てて剣をおろし、その場に膝をつく騎士たち。
転移に慣れていない、団長を含めた黒騎士たちはしばしその場に固まり、すぐに氷の亡霊の遺体を動かすようにと指示を始めた。
騎士団の中では氷の亡霊の案件については、現在における最重要事項。
突然の団長の指示に、騎士たちは声を荒らげ、ドタドタと騒がしく動いた。
「……さて、あとのことはお願いします。私たちはリリィの部屋へ行くので、用事があればそちらに」
「あ、ああ」
レオンハルトは軽くジークベルトに頭を下げると、ニコラスとともに姿を消した。
ここで、身体を休めるために部屋に戻る……と言い出さないあたり、やっぱりレオだな、と小さく呟き、ジークベルトは苦笑を漏らした。
「リリィ!」
「……っレオン!」
もうすっかり見慣れた、寮の部屋。
部屋に用意されたテーブルには、もう随分前から冷えきっている紅茶の入ったティーカップが置かれており、椅子にはリリアとミリアが座っていた。
数時間ぶりのリリアを見つめ、レオンハルトの口元はだらしなく緩む。
突然部屋に現れたレオンハルトとニコラスに最初は気づいていなかったリリアとミリアだが、レオンハルトがリリアの名前を呼べば、弾かれたように椅子から立ち上がった。
「おかえりなさい……っ!」
「ただいま、リリィ。心配をかけたね、すまなかった」
レオンハルトの胸元に飛び込み、ぎゅう、と背中に腕を回すリリア。
勢いよく飛び込んだリリアを難なく受け止めると、レオンハルトはリリアの背中と頭に腕を回して抱きしめる。
リリアの目尻に薄らと涙が浮かんでいることに気づき、ちゅ、と唇を寄せて彼女の涙を舐めとった。
「起きている時に、こんなにレオンと離れるのは久しぶりだわ。すごく、すごく不安になったの……」
レオンハルトが転移を使えるようになってから、リリアとレオンハルトは就寝時間以外は常にそばにいたと言っても過言ではない。
例えレオンハルトが冒険者としての任務で彼女のそばを離れたとしても、せいぜい長くて一時間以内。
数時間も離れているのは、それこそ、婚約してしばらくの間だけだった。
「リリィ……!私も、リリィとこんなにも離れて、身が裂けそうな程に辛かったよ……。だが、リリィが魔法で声をかけてくれて、本当に嬉しかったんだ。ああ、でも、やはりリリィの可愛らしい声は直接聞くに限るな。さあリリィ、もっとその可愛らしい声で、私の名前を呼んでおくれ」
「うん……。レオン、レオン……!」
レオンハルトは僅かに身体を離し、リリアの頬に手を添える。
優しくその頬の輪郭をなぞるように撫で、くすぐったそうに小さく開いたリリアの唇を、食むように重ね合わせた。
「ミリー、ミリー。ああ、やっとミリーに会えました。寂しかったでしょう、僕もですよ」
「ニック様……。本当に、ニック様がご無事でよかった……!もし、もしもニック様の御身に何かあればと思うだけで、わたくしの心は張り裂けそうでしたわ!」
ニコラスに抱きしめられ、ミリアは嬉しそうにはにかむ。
ミリアとてニコラスが弱いと疑っているわけではないが、彼に何かあったらと思うだけで不安だったのだ。
胸元に顔を寄せるミリアは、笑ってこそいるものの、その目元はほんのり潤んでいる。
彼の無事を確認して安心し、緊張感がほぐれたのだろう。
「ええ、僕のことはレオが護ってくれました。何もありませんでしたよ。……ミリーこそ、本当に何もありませんでしたか?」
「はい。リリアと、お茶を飲もうと用意して……。けれどニック様が心配で、全く喉を通りませんでしたわ。それはリリアも同じでしたけれど……」
テーブルの冷めきった紅茶は、随分前に用意されたものであることがわかる。
リリアとミリアは、レオンハルトとニコラスが部屋を出てすぐに紅茶を用意して心を落ち着けようとしたものの、結局二人が心配で、数度しか口をつけていないのだ。
「まったく、僕のミリーは、どうしてこんなにも可愛らしいのでしょうね……」
愛する人を心配させてしまったのは、反省すべき点だ。
しかし同時に、彼女に愛されているのだと、嬉しくも思ってしまう。
ミリアの薄く紅の引かれた唇にしっとりと自身のそれを重ねれば、ミリアはうっとりと目を細めてニコラスにしなだれかかった。
ちゅ、ちゅ、と何度も触れるだけの口付けを落とし、レオンハルトはようやく満足気な笑みを浮かべて顔を離す。
リリアの頬はすっかり真っ赤に染まっており、しかし、安堵したことにより浮かんだ涙はすっかり止まっている。
口付けを交わしながら、レオンハルトはおそらくリリアがここ数時間まともに水分を取っていないのだと想像していた。
いつもはもっと艶やかな唇が、ほんの少しだけ乾燥していたからだ。
心配のしすぎで唇でも噛み締めたのか、小さな傷だって出来ている。
「さあリリィ、すぐに美味しい紅茶を淹れようね」
「……ええ、ありがとうレオン。やっぱり、私が淹れるより、レオンの淹れてくれる紅茶の方が好きだわ」
「リリィ好みの味を淹れられているようで嬉しいよ!……その前に、その唇の傷だけは先に治そうね」
レオンハルトが、人差し指でリリアの唇の傷に触れる。
傷のことは気がついていないのか、リリアは不思議そうな表情を浮かべていたが。
にっこりとレオンハルトが微笑めば、リリアの口元を温かく明るい光が包む。
レオンハルトが治癒の魔術をかけたのだ。
すぐにリリアの小さな傷はなくなり、レオンハルトは「これでさらに可愛くなったね」とうっとりとリリアの唇に口付けを落とした。
「さて、リリィの好きな甘いミルクティーを用意するから、座って。……ニコル殿下とミリア嬢もいかがです?」
口付けを交わしたあとにニコニコと微笑みながらお互いを見つめあっていた、ミリアとニコラス。
レオンハルトが声をかければ、数時間ぶりにお互いに会えたのが嬉しかったのか、そのままの嬉しそうな笑顔で振り返った。
「では、ぜひお願いします」
「わかりました」
ニコラスの言葉に頷くと、慣れた手つきで用意を始める。
レオンハルトが得意とするのはリリアの好む紅茶の淹れ方なので、もちろん甘さやミルクの量などもリリアの好みに合わせたものだ。
しかしリリアの好みに合わせた紅茶やお菓子をレオンハルトが用意する、というのはミリアやニコラスにとっても当たり前になっているので、文句はないだろう。
もっとも、リリアの味覚は壊滅的……というわけではないので、リリアの好みに合わせたところで美味しいものであることに変わりはないのだが。
「甘いお菓子でも作っておくべきだったな……。リリィ、すまない、茶請けが市販のものしかないようだ……」
ティーポットで茶葉を蒸らしている間に、ティーカップをお湯で温める。
蒸らす時間は茶葉や飲み方によっても異なるが、この茶葉でミルクティーを作る場合は、ストレートで飲むよりも少し長めに蒸らした方がリリアの好みである。
蒸らしている間にお茶請けを用意するが、ここ最近、リリアに送られる手紙の差出人を探るのに奔走していたため、すっかりレオンハルトの作ったお茶請けは切れていた。
レオンハルトとしては出来る限り市販のものなど食べてもらいたくはないのだが、仕方が無い。
「そんな、気にしないで。ありがとう、レオン」
「……帰ったら、リリィの好きなお菓子や料理をたくさん作るから、もう少しだけ我慢しておくれ」
「うん。楽しみにしてるね」
ちなみに部屋に用意されている市販のお茶請けというのは、王都でも人気の、王室御用達のお菓子専門店で購入出来るお菓子である。
アーデルハイドに訪れて初めて口にしたミリアのお気に入りで、ミリアが「美味しいですわ!」と言った瞬間にはニコラスが購入手続きを始めたものだ。
「──よし。さぁリリィ、召し上がれ」
「ありがとうレオン」
お茶請けをテーブルの真ん中に用意し、紅茶のカップを三人の前に置く。
ふわりとリリアの鼻をくすぐる美味しそうな匂いに、リリアは嬉しそうに頬を緩めた。
そのリリアの表情を見られるだけで、レオンハルトにとっては幸せなのである。
早速口に含み、「美味しい。やっぱり、レオンの紅茶が一番好きだわ」と微笑むリリアに、レオンハルトは「私もリリィが一番好きだよ」と微笑み返した。