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既にこと切れた氷の亡霊を見下ろし、レオンハルトは小さく鼻を鳴らす。
氷の亡霊の表情はひどく穏やかで、あたりに飛び散る血液がなければ、眠っているようだというどこぞの三文小説の一文が似合いそうだ。
剣を軽く振れば、剣についていた氷の亡霊の血が飛び、地面を汚す。
そのまま地面に剣を落とせば、剣は空間収納の中に消えていった。
「ニコル殿下、ご無事ですか?」
「……ええ、問題ありません。レオは?」
ニコラスには間違えても傷を負わないように、しっかりと結界を張っていた。
しかし“もしも”があれば困るので念の為に確認をとるが、やはり彼は無傷のようだ。
そのことに少しだけ安心する。
もしも彼が傷つけば、きっとリリアは心配するだろうし、今回の依頼が失敗だと烙印を押されればリリアを贅沢させられるだけの報酬が手に入らないかもしれない。
それに彼は、レオンハルトのリリアの愛情を当たり前のように肯定してくれる、数少ない相手なのだ。
寮の同室で、ついつい婚約者自慢が始まり、ついうっかり日をまたいでしまう……というのは珍しくも何ともなかった。
結局「リリィが一番です」「ミリーが一番です」という言い争いに決着がつくことはなかったけれど、やはりレオンハルトにとってはリリアが一番なので譲る気は一切ない。
「ひとまずコレと町の掃除、住民の目を覚まさせることをしなければなりませんね。……ああ、ついでに、氷の亡霊に依頼をしたという依頼人も」
「……目を覚まさせる?」
面倒くさい、と言わんばかりのレオンハルトに、ニコラスが訝しむように眉を寄せる。
コレ、というのは氷の亡霊のことだろう。
レオンハルトは一瞬不思議そうな表情を浮かべ、すぐに「ああ……」と納得したように声を漏らした。
「この町には眠りの魔術がかけられているんですよ。おそらく私たちがここに来る前に。実際、これだけ派手に動き回ったのに、誰も出てこないでしょう?」
レオンハルトの言葉に、ニコラスは確かにと頷く。
いくらレオンハルトが力を抑えていたとはいえ──もし本気を出せばきっとこの規模程度の町は跡形もない──地面はバキバキに砕けているし、血は飛び散っているし、魔術の行使で建物の一部は破壊されている。
それなのに住民がただの一人も様子を見に来ないというのは、言われてみれば確かに不自然極まりない。
言ってしまえば殺人現場となったこの場を一般人に見られなくて面倒が避けられた……と思っていたのだが、どうやら氷の亡霊による仕業だったらしい。
さすがの彼も、関係のない一般人を巻き込むのは気が引けたのか、単純に邪魔されることを嫌ったのかは、もう分からないけれど。
「ひとまずは町を元通りに──」
不自然にレオンハルトの言葉が止まる。
ニコラスが何事かとレオンハルトを見やった次の瞬間には、彼はまるで蕩けそうに甘ったるい笑みを浮かべ、耳元に指を添えた。
「──ああ、私の愛しいリリィ!リリィがこの魔法を使ってくれる日が来るなんて思わなかったよ!」
『あっ、繋がったのね。よかった、初めて使うから心配だったの』
それはリリアが寮の部屋で使用した、レオンハルトの贈り物であるイヤリングが発動した魔法であった。
一応はリリアの魔力で発動してはいるのだが、魔石に付与されたものを動かしているだけなのでこの場合は魔術ではなく魔法である。
リリアの魔力をわずかでも通わせることにより、レオンハルトの身につけるイヤリングと同期し、リリアの声をレオンハルトの元へ届ける魔法。
反対にレオンハルトがイヤリングに魔力を通せば、リリアの元へ声が届くのだが、実は二人がこの魔法を使うのは初めてである。
贈り物をしたのは学園に一時入学する前なのだが、一応念の為にと贈っただけであり、実際に使うことがあるとはレオンハルトも予想はしていなかったが。
なぜならレオンハルトはいつでもどこでもリリアの声が聞こえているし、居場所は常に把握しているし、会いたければ一瞬で会いにいくことが出来るのだから。
この魔法はレオンハルトに会いたくても会いに行けないリリアが、レオンハルトと会話を出来るようにと生み出したものなのだ。
実際、リリアほど少ない魔力の持ち主でも魔法を発動出来るよう、付与した魔術には改良に改良を重ねた自信作である。
「それで、どうしたんだい?」
リリアの魔力できちんと発動するように、リリアにも協力してもらっていた為、この魔法がしっかり発動することは理解していた。
しかしイヤリングとして身につけた上で発動するのは初めてのことで、まるで耳元でリリアが喋っているように聞こえて大変耳が幸せである。
うふふと嬉しそうに笑い、耳元に指を添えるレオンハルトの姿を見るのはニコラスだけではあるが、第三者から見れば実に怪しい男だ。
ニコラスの元にはリリアの声が届かないので、ニコラスからすれば突然レオンハルトが独り言を喋り出したようにしか見えないのだが。
少し観察してから、レオンハルトの指先に小さな魔石があるのが見えた。
そういえば学園に通う前からレオンハルトが身につけていたものだなと思い出し、ならば魔法道具なのだろうと納得する。
ニコラスには存外理解不能な魔術をあっさり使いこなせるレオンハルトのことだ、どうせこれも彼が生み出した、実に価値のある、リリアの為にと考えたものなのだろう。
『あのね、ジークベルト殿下がお部屋の前にいらっしゃって……レオンが今、どこにいるか知りたいんですって』
「……殿下が?まさかリリィの部屋には入っていないよね?」
例え国の王子であり幼い頃は親しくしていた男とはいえ、リリアの部屋に入ったとなれば話は別だ。
ジークベルトに婚約者がいようと、部屋にミリアがいようと、逢瀬のためではないと理解していようと、気に入らないものは気に入らない。
『ええ、扉を開けてもいないから大丈夫よ』
「そうか。ならいいんだ」
さすがのジークベルトも、今ではレオンハルトの“踏み抜いてはいけないもの”を理解しているようだ。
初めてリリアと顔を合わせた時に素知らぬ顔で土足で荒らし、おそらく初めて命の危機というものを覚えてから、レオンハルトとリリアのことに関しては慎重になったのだろう。
「それで、私の居場所だったね。……氷の亡霊を捕まえたから、殿下たちに最低限の人数で来るように伝えてもらえるかい?場所は──」
すぐにでもリリアに会いに行きたいが、さすがに遺体とともに、というわけにはいかない。
とはいえ遺体を置いていくわけにはいかないし、見張りとしてニコラスを残しておくのは問題外。
かといってニコラスは転移を使えないし、ならば素直にジークベルトたちに来てもらうしかないだろう。
どうせ馬か、身体強化さえしてしまえば、そう遠いというわけではない。
『氷の亡霊を捕まえたの!?すごい!さすかレオンね』
「リリィに褒められるなんて嬉しいよ。それだけで満足だ」
正確にはただ大人しく捕まえたわけではないのだが、そこまで詳しいことをリリアに伝えることもないだろう。
ついつい口元が緩みまくってしまうことは自覚しているが、どうせだらしない表情をしたところで見ているのはニコラスだけだ。
彼も大概、ミリアに関わることではデレデレと口元を緩めまくっているので文句は言えまい。
『じゃあ、ジークベルト殿下に伝えておくわね。……その、なるべく早く帰ってきてね?』
「ぐっ」
ほんのりと頬を染めて、上目遣いで、小さく首を傾げるリリアの姿が容易に想像出来た。可愛い。
一瞬、ひとりでリリアの元へ行こうかなと考えた瞬間に『じゃあ、待ってるね!』と可愛らしいリリアの声が聞こえたので必死に抑える。
会いたくて会いたくて、それでも会えないなんて、なんてもどかしいのだろう。
そうこうしているうちに魔法によるリリアの声はぷっつり途絶えてしまった。
帰ったら、リリアの魔力が減っていないか確認しなければ。
一度だけ魔力を通せば、あとはレオンハルト側の魔力で通話が出来るようにしてはいるものの、もしうっかりということがあれば心配だ。
「……今のも魔術ですか?」
「ええ、私のイヤリングとリリィのイヤリングに魔術を付与したものです。リリィが魔石に魔力を通せば、私のイヤリングと会話が出来るようにしました」
「本当、キミはとんっでもないものをサラッと紹介してきますね?」
ニコラスの問いに、何でもないように答えるレオンハルト。
その答えはレオンハルトにとっては何でもなくても、ニコラスからすれば本当にとんでもない代物である。
もしその技術を国に売りつけるとすれば、いったい、どれだけの価値になることやら。
──やはり、レオが敵でなく、本当によかった。
もしも。
アーデルハイド王国と、シュタインヴァルト皇国が敵対関係にあったとして。
レオンハルトが積極的に戦争に参加するとは到底思えないが、もしうっかりシュタインヴァルトの誰かがリリアに傷一つでもつけようものなら、レオンハルトは嬉嬉として国に乗り込み、シュタインヴァルトをこの世から滅ぼすまで止まることはないだろう。
だが実際は友好関係にあり、こうして、交流を持つことも出来た。
シュタインヴァルトに帰国した暁には、レオンハルトとリリアにだけは絶対、何があっても手を出さないようにと言い聞かせなければ……と決意するのも当然だろう。
まずは町を元に戻してから、町民たちを覚醒させましょう。
そう言いながら氷の亡霊との戦闘跡に魔術をかけるレオンハルトに、本当にこの男の魔力は底なしだなと、何度目かの鳥肌が立ったのは、仕方がないことである。