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氷の亡霊の腕の中に、リリアがいた。
リリアの首元には氷の亡霊の構えたナイフが添えられており、少しでも動けば、その柔肌に突き刺さってしまうだろう。
氷の亡霊に捕まっているリリアは、ひどく怯えた表情をしていた。
──なぜ、リリア嬢がここに!?
反射的にレオンハルトを見やったニコラスは、明らかに動揺していた。
当然だ、リリアは今、学園の寮にいるはずなのだから。
部屋を出る前にしっかりと結界は張ったし、レオンハルトとの別れを惜しんでいたのも横目に確認していた。
実際に自分も結界を張るのを手伝ったし──そもそもリリアがここにいるということは。
まさか、同室である、ミリアにまで、何かあったのでは?
「氷の亡霊……貴殿は、よほど死に急いでいるらしい」
先程まで、小さく浮かべられていたレオンハルトの笑みは、すっかり消えている。
氷の亡霊を見やる瞳は実に冷ややかで、自分が向けられているわけでもないのに、つい冷や汗を流してしまうほどだ。
しかしそれも仕方ないのかもしれない。
ニコラスとて、愛するミリアが人質に取られたと知れば、きっと平静ではいられない。
「だが、まあ、まずはその気味の悪い偽物を始末することから始めようか」
「……は?」
ニコラスが勢いよくレオンハルトを見やる。
今、彼の爽やかな声は、確かに“偽物”と言葉を紡がなかったか?
まさか──まさか、氷の亡霊の腕の中にいるリリアは、偽物?
ニコラスは驚いたような表情を隠さず、レオンハルトのいう偽物のリリアを見つめる。
「レオン……!どうして、そんなこと言うの!?助けて……っ」
悲痛に顔を歪め、震える声でレオンハルトに助けを求める彼女は。
ニコラスが何度じっくり観察しても、本物のリリアにしか見えない。
しかし、リリアを心から愛するレオンハルトが、リリアを見間違えるとは、思えない。
やはり、偽物なのだろうか?
「えー、なんでそんな事言うのさ?もちろん本物のリリアちゃんだよー。……まあ偽物だと言い張るならそれでもいいけど?」
氷の亡霊の構えるナイフが、リリアの首を少し撫でる。
つぷ、と皮膚が僅かに裂け、流れ出す赤。
「っレオ!?」
もう、彼女が偽物だとは思えなかった。
同じく愛する女性のいるニコラスにとって、心から愛する女性を傷つけられると想像するだけで身が裂けそうなほどに辛い。
咎めるようなニコラスの声に、レオンハルトは仕方がなさそうに溜息を吐く。
「……まず髪が3ミリ長い。リリィの髪の色はもう少し明るいし、目の色なんて似ても似つかない。まつ毛の長さも違うし、リリィの肌はもっと白く滑らかだ。リリィの唇はもっとかぶりつきたくなるほど艶かしいし、そもそも私の贈った紅ではないだろう。リリィを飾る化粧品は吟味に吟味を重ねて贈ったものだ、見間違えることはない。決定的なのはリリィの耳だ。普段は髪に隠れているのでリリィ本人も知らないが、リリィの耳介にはホクロがあるんだよ。その偽物にはないだろう」
レオンハルトが魔術を放ったのか、リリアと氷の亡霊に強い風が吹きつける。
バタバタと揺れる髪の隙間から見えた耳には、レオンハルトが指摘したホクロは、見当たらない。
「……さっすがー。まさか一瞬で見破られるとは思わなかったよ」
氷の亡霊は苦笑を浮かべ、リリアを──リリアの偽物を手放す。
持っていたナイフを振り下ろし、偽のリリアの頭を突き刺した。
次の瞬間には、まるで氷が割れるかのように偽のリリアにヒビが入り、粉々に砕け散る。
偽のリリアは、氷の亡霊の魔術により作り出されていたのだ。
それこそ、レオンハルト以外には分からないであろうほど、精巧に。
「うーん、今まではみーんな騙されたんだけどなぁ……」
氷の亡霊は軽い口振りで溜息混じりに呟くが、その額には薄らと汗が滲んでいる。
愛する女性が人質に取られたと思えば、多少は狼狽えてくれると思ったのだが──どうやら火に油を注ぐような行為だったらしい。
偽のリリアを一目見た瞬間からふつふつと感じていた、レオンハルトの殺気。
最初は愛しい女性を人質にとられたことに対する怒りだと考えていたが、実際には氷の亡霊に対する怒りからなのだろう。
レオンハルトが、愛するリリアと偽物と見間違えると思われていた、その事に対する怒り。
まるでリリアへの愛がその程度だと思われているようで、それが何よりも、腹立たしい。
過去の人間がどれだけ氷の亡霊の術に騙されたかは知らないし興味もないが、レオンハルトがそれらと同等だと思われたことは実に許し難い。
レオンハルトにとってリリアへの愛は、至上のものだと自負しているから。
「さて、さらに貴殿を殺す理由が増えたな。私の愛しいリリィに似ても似つかないまがい物を作ったんだ百回殺す」
す、と静かに剣を構えるレオンハルト。
その目は獲物を捉えた肉食獣のようにギラギラと輝いており、先程までの戦いは茶番だったのだということが理解出来る。
もともとレオンハルトの中では氷の亡霊は死刑一択であったのだが、偽のリリアを作ったことでさらに殺意が芽生えたようだ。
「……いやいや、本当、勘弁してよー」
「残念ながらその願いは聞けないな。さて、大人しくしていれば苦しまずに逝かせてやる」
もはやレオンハルトの方が悪人のようである。
今度こそ打つ手が無くなったのだろう、氷の亡霊は僅かに唇を噛み締めた。
───レオンハルトと氷の亡霊が対峙しているのと同じ頃。
リリアとミリアの部屋を、ノックする人物がいた。
レオンハルトとニコラスに、誰か来ても無闇に招き入れないようにと日頃から口を酸っぱくして言われている二人は、眉を寄せて顔を見合わせる。
レオンハルトがリリアの為にと用意した紅茶とお茶請けで、気持ちを落ち着けようとしたのだが。
結局、二人が心配で、あまり喉を通らず、すっかり冷めてしまっている。
「……どちら様ですか?」
リリアが警戒をあらわにした声で、扉越しに問いかける。
ほんの少しでも開かれることのない扉に、しかし、ノックした人物はたいして気にしていないらしい。
「ジークベルトだ。扉越しで構わない、リリア嬢とミリア嬢に聞きたいことがあるんだが……」
ノックした人物、それはジークベルトであった。
ジークベルトの後ろには黒の団長と白の団長の姿もある。
本来であれば、女子寮に訪れることが出来るのは、婚約者に会いに来た男子生徒のみである。
確かにジークベルトにもマリアンナという婚約者こそいるが、今まで彼が女子寮に訪れたのは片手で数えられるほどだ。
「……聞きたいこと、ですか?」
扉越しで構わないという言葉に、リリアの声から警戒心が僅かにほぐれる。
ジークベルトとリリアには直接的な接点はなく──レオンハルトを介さなければ知り合うこともなかっただろう──その言葉に、不思議そうに首を傾げた。
もちろん扉に阻まれているため、ジークベルトからリリアやミリアの不思議そうな表情を伺うことは出来ないのだが。
「ああ。先程から、レオとニコラス殿下の姿が見えないんだが……そこにはいないか?」
「おりませんが……」
「何だと……?」
ジークベルトは確かに彼らに自室待機を指示したはずだ。
もちろんどちらの自室か、と決めたわけではないので、レオンハルトたちが部屋にいなかった時点で婚約者の部屋だりうと想像していたのだが──どうやらここにもいないらしい。
だが、よく考えれば、ノックに反応したのがリリアという時点で、この部屋にレオンハルトがいないのは明らかだ。
レオンハルトは基本的にリリアを甘やかせることが好きなので、来客対応も必ずレオンハルトが行っている。
過去に何度かレオンハルトとリリアのいる部屋に訪れ、ノックした時も、対応するのはいつもレオンハルトであった。
「どこに行ったんだ!?」
「ええと、詳しくはわかりませんけれど、氷の亡霊について調べると……」
「遅かったか……!今、レオたちがどこにいるか分からないか?」
ジークベルトの言葉に、リリアが「うーん」と声を漏らす。
何か考えているのだろう。
心当たりがあるのだろうか?とジークベルトが思案した次の瞬間、リリアの口からとんでもない言葉が飛び出した。
「わからないので、レオンに聞いてみますね」
「……は?」
思わず、間の抜けた声を出してしまったのジークベルトは決して悪くないはずだ。