05
ぽろぽろとレオンの白い肌を伝う透明な雫は、まぎれもなく涙である。
それほど深く考えずに発した“嫌い”という言葉であったが、レオンには深く突き刺さってしまったようだ。
……でも、だって、レオンが、自分のことを大事にしてくれないから……!
「リリィに、きらわれた……。もう、死ぬしか……」
「どうしてそうなるの!?」
レオンの極端すぎる思考に、思わず叫んでしまった。
レオンは流れる涙を拭いもせずに、ただ、私のことを見つめてくる。
涙で潤んだ、レオンのアイスブルーの瞳。
気まずくなって目をそらすと、レオンが「ああ……」と言葉を漏らした。
「死のう……リリィに、嫌われた、私なんて。リリィが、嫌うものは、この世から、消すしか……」
「ごめんなさい私が悪かったわ!」
目をそらす、という行動にたいした意味はなかったのに。
レオンにとっては、嫌われたことの証明のように思えたらしい。
腰にぶらさがっている剣のサヤを握り抜刀しようとする姿に、慌てて謝罪を口にした。
レオンなら、もしかすると本当にこのまま自害してしまうかもしれない!
「違うの、嫌いになったわけじゃないの!ただ、レオンに、自分のことを大事にして欲しかったのよ!」
慌てて抜刀しようとするレオンの腕をつかめば、力の差はあるだろうに、レオンの手が止まる。
僅かに抜かれた刀が、ぬらりと光っていた。
レオンは剣術を学ぶ身として、刀そのものを大切にしている。
手入れのしっかり行き届いた刀は、魔物をあっさりと切り捨てられるほど。
魔力で身体強化のされた魔物を切り捨てられる刀で、生身の体を切りつけることなど。
細い木の枝を折るよりも簡単だろう。
「……だが、私はリリィのためなら、私の命などどうでもいいと、思ってしまう。………リリィの意に反するなど……。やはり死のう」
ゆらゆらと揺れる、虚ろな瞳。
抜刀しないように抑えていたレオンの手は、私の抑えなどないかのようにあっさり動き始める。
「レオン!」
ひときわ大きな声で名前を呼べば、レオンははっ、と動きを止める。
溢れる涙はそのままに、レオンは小さく「……リリィ?」と名前を呼んだ。
「レオン。……私のこと、好き?」
こんなことを聞くのは、心底恥ずかしい。
それでもレオンが私のことを“政略的な婚約者”とみていないことは、わかる。
……そもそも公爵家と伯爵家では身分差もあるのだから政略的なのかどうかも疑問だが、それはひとまず置いておこう。
ことあるごとに贈り物をしたり、怪我をした私のために親身になってくれたり、私を守るためにと自分を傷つけたり。
それがレオンの愛情表現なのだろうということも、なんとなく、わかる。
でも。
「も、もちろんだ!私は初めて会った時から、ずっと、リリィだけを愛している!リリィのためなら、何だってする!」
「──なら、私のそばにいて」
私だって、レオンのことはちゃんと好きだ。
レオンが私にくれる愛情ほどのお返しはできないけど。
でも、レオンのことは、好き。
だから傷ついて欲しくないし、自分を大事にして欲しい。
「──」
「私のことを愛しているというのなら、私のために、私と生きて。……私だって、レオンのこと好きよ」
刀にかけていたレオンの手が、ゆっくりと離れる。
レオンの手に触れていた手を解き、レオンに向って両腕を広げる。
レオンはくしゃりと顔を歪めて、がば、と勢いよく抱きついてきた。
……勢いがよすぎて正直背中が痛むのだが、黙っていた方がいいのだろう。
そういえば、家庭教師はまだそばにいた。
ぎゅうぎゅうと私のことを抱きしめるレオンの腕の中で体をよじり、目を向けてみれば、家庭教師は我関せずといった様子で魔術書に目を向けていた。
そのあとレオンが離してくれることはなく、結局迎えが来てもそのままだった。
移動する時は、レオンに後ろから抱きつかれながら、という状態。
移動中にすれ違う執事や侍女には微笑ましそうに見られるし、その状態を聞きつけたらしいお義父様とお義母様も見に来るし。
恥ずかしいを通り越して、もう好きにしてくれと諦めることにした。
家庭教師は「この状況で授業を進める気にはならないので、二、三日は中止にしましょう」と言い残すとさっさと帰っていってしまった。
意図せず休みを手に入れたレオンは、何度離して欲しいと頼んでみても頑として首を縦に振らなかったのは、なんとも言い難い。
お義母様なんて「そのままリリアちゃんをお家まで送ってあげなさいな。いっそお泊りしていらっしゃい。あ、でも、リリアちゃんを襲ってはダメよ?レオンハルト」とニコニコ笑顔で告げてきた。
レオンはその言葉に私を抱きしめたまま頷くと、迎えの馬車に私とともに乗り込む。
一応婚約者という間柄ではあるし、お父様とお母様ははっきり言って公爵家子息であるレオンに逆らうことはない。
先触れもなくいきなり家に泊まると言い出しても断れないだろうし、お父様とお母様が断るとは思えない。
お父様とお母様はレオンのことを可愛がっているのだ。
レオンは二人の前ではとても礼儀正しいし、伯爵だからと侮ることもしない。
だからこそ二人はレオンを実の息子のように可愛がっているし、弟だって、レオンのことをお義兄様と呼び慕っている。
つまり、突然泊まらせてくれと言い出したところで、レイズ家は大歓迎、ということである。
馬車に乗り込む時はさすがに離れてもらえたが、馬車に乗ってすぐに距離をつめられた。
馬車は4人乗りだが、二人で乗る時は向かい合って座ることが多い。
しかしレオンは私の向かいの席、ではなく、私の隣に座っていた。
しかも、体が触れ合うほど、ぴったりと寄り添って。
「レオン、その……近くない?」
「愛するリリィが、私を好きだと言ってくれたんだ。こんな幸せな日くらい、リリィに触れていたい」
耳元で囁くような言葉に、思わず顔を逸らしてしまう。
きっと耳まで赤くなっているのだろう、今度は、レオンはくすくすと楽しそうに笑うだけだった。
領地までは、1時間ほど。
王都のハインヒューズ本邸からは、馬車で数日ほどかかるのだが、今はレイズ領から1時間ほどの距離にある別邸にレオンたちは住んでいるのだ。
別邸にはレオンとお義父様とお義母様、数人の使用人たちが住んでおり、お義兄様がお二人とも本邸に残られているのだ。
しかし、もう数ヶ月もすれば、お義父様とお義母様も本邸に戻られる予定だ。
今お二人が別邸に住まわれているのは、私の淑女教育のためでもあるから。
レオンに手の甲を撫でられたり、髪の毛先を弄ばれたり、口付けを落とされたり。
数刻前まで泣いていた人物と、同一とは思えないほど、今のレオンはご機嫌だ。
でもまさか、あの一言で「死のう」なんて言い出すとは、本当に思っていなかった。
聡明な方だと思っていたのだが、レオンの極端な思考は、若干人よりもズレているのかもしれない。
もし──もし、私が。
レオンの、死を、望んだとしたら。
きっと彼は、躊躇いなく、その首を刀で切り落とすのだろう。
“リリィのためなら”なんて、そんな言葉を残して。
「っ!」
「リリィ!」
思考を断つように、突如として馬車が揺れる。
咄嗟に支えてくれたレオンの腕にしがみつくと、レオンは背を撫でながら「何事だ!」と声を上げた。
「ま、魔物です!魔物が出ました!」
「何?」
ハインヒューズ別邸とレイズ領の、1時間ほどの距離。
決して遠くはないが、近くはない距離。
この道に魔物が出るのは稀で、しかし、今までに何度か魔物が現れたことは確かにある。
「リリィはここにいるんだよ」
「レオン!?」
「大丈夫、すぐに戻るから」
にっこりと優しく微笑んだレオンは、すぐに表情を引き締めすっかり停止している馬車から降りる。
ばたん、と扉が閉まった瞬間、このままレオンに会えなくなるのではという不安に襲われた。
「待って……!」
ここにいるようにと言われたけれど。
このまま、ただレオンの帰りを待つなんて、嫌だ。
レオンのあとを追い、馬車を降りた私の目に飛び込んできたのは──
「リリィとの時間を邪魔するなど!死んで詫びろ!」
魔物に怒鳴りつけ、刀で魔物を切りつけながら、別の魔物に魔法をぶつける、レオンの姿であった。
護衛である騎士たちは刀を構えたまま、ぽかんと呆けたように口を開いて、その様子を見つめるだけだった。
うん、これはもう、レオンに任せた方がいいな。