魔法手帖七十頁 貴族名鑑第十二巻
サルト=バルトニア王国 執務室。
「…おや。」
「どうした?」
「"貴族名鑑第十二巻"が持っていかれましたね。」
少年の指差す先には一冊分の書籍があった空間がぽっかり空いている。
「一瞬、精霊の気配がしましたからあの方でしょう。」
「間違いないのか?」
「知っているのは私達とあの方だけですから。
貴方の父上の記憶も五年前の事件以降随分と曖昧になっているようですし。」
「ということは、正しい所有者に戻ったということか。
仮の所有者となって、十年。重いものを背負わされたと思ったが、いざ手元から無くなってみると寂しいものだな。」
「私と出会う前からの、一番古い付き合いですからね。しかも私が側近となった瞬間、詳細も言わないままに、擬装しろだの、追跡出来る魔紋様を付与しろだのなんのことかと思いましたが。王家の鎖を授かった際に事情を聞かされて頭が真っ白になりましたよ。」
「下手に守護結界など掛けられないからな。事件の後にはバレるんじゃないかと気が気ではなかった。」
「あの時は早々にあの方が干渉してくださいましたからね。」
アンドリーニの脳裏に鮮やかな記憶がよみがえる。
あれは忘れようとも忘れられない衝撃的な出来事だった。
それはまだ、オリビアが管理者となる前の話。
呼び出されてダンジョンに赴くと事情の説明もなくいきなり術をかけられた。
そして主様に言われた台詞。
「汝を、仮の所有者に指定した。このまま城へ戻り、魔法手帖を回収しろ。」
ご丁寧に代わりとなる書籍まで渡された。
頁をめくれば細部まで詳細に写した偽物。
あれは兄上が受け継ぐもの。
当然のように反発すると見せられたのは、初代女王が干渉する前の未来。
そこでは、異世界から来た少女にいいように扱われ、魔法手帖を見せる兄の姿があった。
後日、魔法手帖を本体ごと全て模写し、持ち出した彼女は内通者に唆されるままにアントリム帝国へと渡る。
そしてその魔法手帖を駆使し、王国を蹂躙する彼女と協力者達の姿。
呆然と佇む彼に主様は言った。
我には、初代女王に受けた恩義がある。
この場所がダンジョンとなった折には主となる約束を交わしたのもそのため。
だが一方で、そろそろ我も自由となってよい頃合いか、とも思っておる。
新たな主となるべき精霊が生まれたらしい。
主様は続ける。
覚えておけ。
此度の件は序章にすぎぬ。
初代女王の予言した一連の厄災が終わるまで、ダンジョンの主として手を貸そう。
これを対価に我はダンジョンを新たな主に引き継ぐことにしようと思う。
「はじめは信用していなかった。とはいえ、力ある精霊の言葉だ。だから一時的に預かっていることにすればいい。何事も起きず時期が来たら兄上に返そう、そんな気持ちで魔法手帖を回収した。そうしたら…。」
「例の事件が起こった。」
「異世界の少女に囚われる、兄上の姿は尋常ではなかった。あの優しく、思慮深い兄が傲慢で人が変わったようになったのだから。あの方に慌てて聞いたところ眷属にそんな力を持つものがいた、と。だが医師に確認させても闇の力の痕跡は感じないというし、彼女は異世界から呼ばれた人。排除すればどのような不幸が訪れるかしれない。私だけですめばまだいい。だが国全体にその不幸が及んだらと思うと…。」
誰も手が出せなかった。
「唯一の救いは、あの件で異世界から呼ばれた人に対する加護が働かない時もある、ということがわかったことでしょうか。」
彼女を第一王子と共に国から追放すと決めた際、厚かましくも本人はこの国に残ることを希望し相当抵抗したようだが、誰も不幸にはならなかった。
この事にもっと早く気が付いていたら違う未来が望めたのだろうか。
「異世界から呼ばれた人の存在はこの世界にとって何なんでしょうね。」
少年の脳裏にエマの姿が映る。
同じ稀有な存在にして、全く逆の生き方の選択をした二人の少女。
神は加護まで与えて彼女達に何を成すことを期待しているのだろうか。
「…彼女に聞いたんだ。『奇跡を起こすことが出来るかと』。」
ポツリとアンドリーニがこぼした言葉を少年の耳が拾う。
「貴方が抽象的なことを言うのは珍しいですね。」
「同じことを兄上がミノリに問うているのを、偶然聞いたからね。」
あの時まで兄上が何かを思い悩む様子は伺えなかった、と思う。
だからずっと記憶に残っていた。
自分がもっと早く兄の持つ闇に気が付いていたら、兄は彼女に傾倒することもなく違う結末になったのだろうか、と。
「ミノリはなんと答えたのですか?」
「『本人の努力次第で奇跡は起こせるのです!私が側にいて運命を変えるお手伝いをしますから!』だったか。妙に自信に満ち溢れていて違和感しか感じなかったが。」
「それはまた、なんとも…。」
少年は不快感に顔をしかめる。
さすがにアンドリーニの気持ちを思ってそれ以上は言わなかったが、そんな思慮の浅い言葉に惑わされるなど第一王子は所詮王の器ではなかった、ということか。
少年は自分の熱を持たない片手を見下ろす。
本人の努力で奇跡が起こせるというなら、この手を失ったのは何でだというのか?
忘れようとも忘れられない怒りが再びよみがえる。
「貴方が。」
「ん?」
「忠誠を捧げたのが貴方で良かったと、心底そう思いましたよ。」
その程度の甘言で心揺るがすような上司では、関係が破綻するのも時間の問題であったかもしれない。
「…ちなみにエマはなんと言ったのですか?」
「ああ、彼女はそんな傲慢なことはしないとさ。『奇跡は、願う人の心の中にあるもの。それを叶えるか決めるのは神様の領域』だったか。自分は『欲望に忠実な普通の人間で、自分の欲望を叶えるように魔紋様を紡ぐ。それを奇跡とは呼ばない』とも言っていたな。」
それを聞いて、思わず少年は口元を緩める。
表面だけ受けとれば自分勝手で冷たいようにも響く言葉は。
少なくとも、ミノリのように何を根拠にしているのかわからないような励ましよりはずっと誠実な言葉に聞こえた。
「彼女は魔法手帖をどのように使うのだろうな。」
言外に若干の不安をにじませて、アンドリーニは呟く。
「少なくとも、政治には興味がないと思いますよ。彼女の言葉を借りて言うところの、『自分の欲望を叶えるために』使うというなら。」
関係者から得た情報によれば、エマの欲は"食"に関することへ一直線だそうだ。
「…健全なことだな。」
「全くです。暫くダンジョンに籠りきりになるそうですから、食事の面で飽きさせないよう知り合いの商人を通じて好みの食材が手に入るよう手配しました。
出来れば長く我が国に滞在してもらいたいですから。」
少年の言葉に、思わず微妙な表情になったアンドリーニ。
「お前、親鳥みたいだな。」
雛にせっせと餌を運ぶ、親鳥と。
「…想像力が拒絶するなど、滅多に味わえない貴重な経験ですね。それに私がどうこうしなくとも、彼女の面倒を見ようとする手はいくつもありますよ。」
「まあ、そういうことにしておこう。」
見たことのない少年の渋い顔に思わずアンドリーニが破顔した。
それからおもむろに呼び鈴を手に持ち鳴らす。
「お呼びでしょうか?」
「少し休憩する。お茶の用意をしてくれ。あと、収穫祭の出店場所を確認したい。そう担当者に伝えて資料を持ってくるように伝えてくれ。」
新たに側付きとなった平民の少年に指示を出す。
収穫祭の、といった瞬間に、少年の表情がぱあっと輝く。
「出店予定図、お前も横から見てみるか?」
「は、はい!!ありがとうございます!」
少年は勢いよく返事をすると静かに扉を閉め、控えめに廊下を走っていく音が聞こえる。
「また担当者の仕事を増やして…しかし、良いのですか?」
「ん?ああ、確かにあいつの実家は商家だが、すでに例の事件でとり潰されている。義理があって情報を漏らすにしても出店場所についてはすでに公表済みだ。今回見せる情報に価値はない。…それに俺と同じように事件の後始末で要らぬ苦労をした身だ。そういった行動の怖さを知っている。」
「そうかも知れませんね。」
「それにな。」
そう言ってアンドリーニは少年にだけ向ける笑顔を見せる。
昔と変わらぬ、輝くような笑顔を。
この笑顔を取り戻すために、少年は王家の鎖を自ら志願して身に付けた。
そうでなければこの人は今でも心を開いてくれなかっただろう。
「こういうことは、何度話し合っても楽しいじゃないか。ワクワクする。」
「…全く。休憩時間の間だけですよ。」
部屋にノックの音が響く。
お茶の準備を調え、側付きの少年が戻ってきたようだ。
「では、私は書庫で貴族名鑑に替わる書籍を見繕ってきますよ。」
「もとから存在しない十二巻と同じ装丁の書籍を探してくるのは大変だぞ。後回しにして、お前も話し合いに参加すればいい。」
「私はやることが他にもありますので、どうぞごゆっくり。」
「つれないな。」
少年は自ら扉をあけ、茶器の乗ったワゴンと資料を持った担当者を招き入れると、結界を確認してから扉を閉める。
この部屋に張られた結界は特別。
少年が視認して許したものしか入室出来ない。
「一つ、肩の荷が下りたな。魔法手帖は正しい所有者の元へ戻された。
それにしても…魔法手帖を二冊持つ、魔法紡ぎなど伝承にも存在しない。」
あの少女がそれを知れば心底嫌な顔をするだろう。
どう考えても、我が身が危険にさらされる度合が増したからな。
それでも彼女は多くの人の手を借りて、たぶん乗り越えていくのだろう。
強さと、したたかさと…同じくらいの弱さと孤独を抱えた彼女。
そしてそれはミノリも同じ。
ただ彼女の場合は、負の部分をうめるために闇の力を引き寄せた。
エマはどんな選択をするのだろうな。
こうなるかもしれないと予想はしていた。
いつか不信感を持った彼女に拒絶されるかもしれないことは。
それでも実際にそうされてみると自分に与えた衝撃の強さは想像以上だった。
その感情が、"女王"と"盾"としての繋がりからくるものなのか、それとも…。
「…まあ、いい。手は打った。あとそれに乗るかは彼女次第。それよりも帝国の皇帝陛下への牽制、聖国の古狸と聖女の監視の強化、というか阻止だな。あと収穫祭とそれに伴う祝典の準備と。何でこう、エマの回りに政治的な問題が集まるんだ?どう考えても王城の中の方が平和だぞ。はあ、仕方ない…久々にあの方の手を借りるか。」
きっと今、執務室は収穫祭の打ち合わせで無駄に盛り上がっていることだろう。
もう暫くそのままでいいか。
書庫に向けていた足取りを、地下へ向けて進路を変える。
「また色々お小言をくらいそうだ。」
とはいえ、アンドリーニの側で政治に関わると決めた自分を導いたのは彼だ。
どんな立場になろうとも、それは変わらない。
夕方に差し掛かった頃合いの誰も通らぬ暗い廊下に。
地下へと降りる少年の足音だけがいつまでも長く、細く響いていた。
前のお話と対になる章です。
並んで一気に読ませたら面白いかも、と思ったのですが、あんまりにも長くなりそうだったのでぶったぎりました。
遅くなりました。




