魔法手帖三十六頁 エマであって、エマでないもの
静まり返る、室内。
執事さんは懐から薬瓶を取り出す。
揺れる淡い緑色の液体。
見開かれるゲイルさんとオリビアさんの瞳にそれが本物なんだということがわかる。
瓶を掴もうとしたゲイルさんの手が空を切る。
いつの間にか執事さんは私の目の前に移動していた。
魔紋様に弾かれる執事さんの手。
「美しい…これが貴女の魔紋様ですか。ああ、不躾な態度を取りましたことお許しくださいませ。確認はせねばなりませんので。」
そして恭しく私の手を握り、いつぞやディノさんが私にとったように手の甲を額に近づけた。
それから私の瞳を覗き込むように囁く。
「取引をいたしましょう、お嬢様。私の主にお会いになる、その代わりにこの回復薬を差し上げましょう。」
「断った場合は?」
「このお話は無かったことに。」
「逃がすと思うのか?」
執事さんの後ろに再び口を開ける黒い空間。
執事さんは、そう話すゲイルさんやオリビアさんの攻撃をかわして、いつの間にか私の近くに立っている。
「エマ、そいつの言うことに耳を傾けるな。その結果をディノが喜ぶと思わない!」
「そうよエマちゃん。この店の結界は特別製なのよ。…入ったとしても、うまく逃げられるとは思わないことね!」
狭い空間のなか、ディノさんに攻撃が当たらないよう手加減をしなければならない二人の旗色は悪い。
そんなこと、わかってる。
たとえこの状況でディノさんが助かったとしても喜ばないことぐらい。
ならどうするのが最良だというのか?
この助けたいという私の気持ちはどうすればいい?
私の気持ちは…、私の願いは。
「…静かになさい。病人がいるのですよ。」
はっとした三人が振り向くとそこには確かにエマがいた。
だが、まとう雰囲気が全く違う。
体にまとわりつく魔素を優雅に振り払い、それでも魔法の力の源が従う存在感。
彼女であって、彼女でないものがそこにいた。
「まさか、"女王"?」
「その呼び名は懐かしいわね。それとも初めましてとでも言うべきかしら?」
彼女は誰かの呟きを拾ったのか、わずかに口元を緩ませる。
そして、すっと腕をあげると侵入してきた男を隣に呼び寄せた。
「そこのお前、その手土産とやらを置いて、さっさと私を主の元へ案内しなさい。」
「い、いけません!御身に危険が及びます!」
「そうです、どのような目に合わされるか…!」
明らかに命じる事に慣れた様子がエマとは違う。
今、彼女の中で何が起こっているのか。
「『女王ともあろう方が己の生き筋一つ決められぬとはあまりにも脆弱』。とてもいい言葉ね。私もそう思うわ。国の礎たる王であればあなた達の言に従い、彼を見殺しにすべきでしょう。でも、今の私は民の心のよりどころ。目の前の人一人救えない女王を誰が信仰するかしらね。それにこの男の本当の主は二手三手先まで用意しているようね。今回のはただの実験。次あたりが本番でしょう?ならこの男を殺したとしても次の接触があるだけ。それならば先に元凶を叩いておくにこしたことはないわ。
…そんなことくらい、あの子達もわかっているでしょうに。」
こういうときに殿方は慎重過ぎて困るわね、そうオリビアに笑いかける。
エマの顔で、エマの見せることのない表情を浮かべる彼女。
それからゲイルへと視線を向ける。
「一字一句漏らさずに王へ伝えなさい。私の言葉の意味がわからずに貴方達二人を罰するようなら、王たる資格はないわ。それから、私の盾盾に伝えて。貴方がぐずぐずしているから、私自ら動くはめになったと。そして印は残してあげるから、この少女を自ら迎えに来るように、と。そうでなければ…」
強い意志の力を秘めた瞳。
その場にいる誰もが跪くような、強い光を宿した言葉。
エマの姿を借りた誰かが…女王が、瞬く間にその場を支配する。
「今後、女王は盾を一切助けることはしないわ。女王の役にたたぬ武器などいらぬもの。」
乱入し、場の空気を掌握したはずの男が舌打ちをする。
先程までの慇懃な態度を一変させ、エマの姿をした誰かを睨みつける。
彼女はその視線を受け止め、穏やかな表情で微笑んだ。
まるで吠え叫ぶ愛玩動物を仕方ないわねと眺めるような、そんな慈愛に満ちた表情で。
そして控える男へ軽く手を差し出した。
「案内しなさい。」
「仰せのままに。」
「…ああ、そうそう。」
表情を隠すように、男は恭しく腰を折る。
そして黒い空間へ男が軽く引き寄せたとき、面白そうに口元を緩めながら男の耳元に囁く。
「彼女には、魅了も洗脳も効かないわよ。私と同じ"目"を持っているのだから。だから、もったいぶらずに手土産を置いていきなさい。そうでないと約束を破った悪い子の首を、この場で落とすわよ?」
キンという音がして魔紋様が一瞬で発動し男の首の回りを包む。
それはゲイル達も、男も見た事のない紋様だった。
「なっ!」
初めて男が青ざめ慌てた様子を見せた。
彼女は男が取り落としかけた薬瓶を器用に受け取ってゲイルへと渡す。
「先ず瓶を開けたら匂いを嗅がせて。その匂いで本人が気がついたあと、瓶に入っている薬を飲ませるの。
その薬瓶のサイズなら、すべて飲まないと効果がないから気を付けてね。こんな特殊な飲ませ方すら伝えないなんて、どちらにしろ助ける気はなかったようね。」
「性格悪過ぎ。」
「貴方に言われたくないわ。じゃあ、ちょっと行ってくるわね。そうそう、うまく助かったのならその男に伝えなさい。この少女を案じて自分を責めるより、これから起こる厄災を凌ぐための研究をしなさい、と。それができなければ職務怠慢で私ならクビよ!」
そして躊躇うことなく黒い空間に身を投じた。
続いて男が通り抜けると空間の切れ目は姿を消す。
その瞬間、黒い空間のあった場所の床に金色に輝く魔紋様が発現した。
やがて魔紋様は収縮して金色の繭になり、そこからするするとほどけた糸が何もないはずの空間へと吸い込まれていく。
「これが、もしかして印?!」
「オリビア、繭の魔力の残量を確認しろ!足りなければ注いで維持。絶対に糸を切らすなよ!」
指示を出し、ゲイルはディノルゾへと薬を飲ませる。
匂いを嗅がせたあと、わずかに口を開いたディノルゾの喉を薬が滑り降りていく。
やがて薬瓶の中が空になったとき、ディノルゾの目がうっすらと開いた。
本日はもう一話いきます。




