閑話 魔法手帖の外側で①
遅くなりました。
申し訳ございません!
吸い込まれるようにしてエマの意識が落ちた。
彼女の手から女王陛下の魔法手帖が滑り落ちる。
受け止める手に握り込んだ灰色の表紙は、わずかに鈍い光を放っていた。
ここから先の世界には、関与できない。
リアン=フォーサイスはベッドに身を横たえるエマに近づき、呼気を確かめる。
穏やかに繰り返される呼吸、表情も同じ様に穏やかだ。
少しずつ減ってゆく魔力だけが、彼女がただ眠っているわけではないことを物語る。
さて、どうするか。
彼女と自分は魔力という糸で繋がっている。
不思議なことに、彼女の肉体や精神状態が魔力の増減という形で感じ取ることができた。
魔力の急激な増加は肉体に負担をかけ、低下は精神を擦り減らす。
それを補い、調整するのが今の自分に与えられた役目。
「…結局、保護者的な立ち位置か。」
深々とため息をついた。
『ダンジョンに限れば問題なしです!!』なんてエマは自信たっぷりに言っていたが読みが甘い。
警戒心が強く慎重派なのかと思えば、野生の勘とやらで突然思いもよらない行動をとる。
そしてそれに付随する残務処理は、いつの間にか彼の仕事になっていた。
制御しようとしても、手に負えない。
これは生来の気質に由来するもので、矯正しても治らない類のものだ。
洗いざらい吐かせるか、それが嫌なら計画書でも作らせようか。
そうは思ったものの、本人の言うように巻き込まれ体質が原因だとすれば巻き込まれてしまえば同じこと。
国同士の確執に手持ちの札の一つとして巻き込んだのは、こちらだからな。
巻き込まれてくれたのはエマ自身の選択だとしても、だ。
だから面倒だ、厄介だと思いつつ、結局手を貸してしまう。
それは盾として最前線で彼女を守るべき自分が、個人的な事情を優先している負い目か。
それとも国にとって有用な人材だからか。
いや、巻き込んだという因縁はそれよりももっと昔。
だって彼女は、僕の…。
「手に余るようなら引き受けるよ、フォーサイス。精霊界は間違いなくエマを歓迎する。」
彼女の眠る寝台の上。
横たえた彼女の身体を挟んで向かい合うように座るのは、白い毛を持つ、犬に似た生き物。
背後には、侍女服を身に着けた女性を従えている。
白いこじんまりとした身体からは常人であれば卒倒するくらいの魔力が溢れていた。
「それを私に提案するのか、光の大精霊よ。」
「…さすが精霊の丘を管理する友だけあるね!!姿を偽っていても、察してくれる。」
「警戒心ゆえだよ。また餌にされてはたまらない。」
「あれは確かに悲劇的な出来事だったね。だけど君は都合よく忘れているよ?」
精霊の道は、誘う相手の同意なくしては完全に開かれぬもの。
あの時、俺はなぜアレについていく事を選択したのか。
「異世界では、好奇心は容易に死なないはずの猫すら殺すと言われているらしいね。創造神は扱いの難しい性を人に与えたものだ。」
憐憫を含んだ言葉とは裏腹に、光の大精霊の瞳は何も映してはいなかった。
その何も映さない瞳は雄弁に語る。
彼は俺にも落ち度がある、と言いたいのだろう。
"力が弱く、器も脆弱。
そのくせ好奇心だけは強く後先考えずに行動する。
自分だけは大丈夫。
自分本位の思考を持つ、醜く愚かな生き物"、と。
王城に迷い込んだ精霊を揶揄した台詞は、かつての自分に向けたもの。
俺は精霊が嫌いだ。
そして精霊に騙された愚かな自分が憎い。
あれで幼少期の自分は少なくない代償を支払う羽目になったのだから。
「とはいえフォーサイス家に危害を加えることは精霊界の法で禁じている。それを先に破ったのはこちら側。そしてまだ幼く経験の浅い君に精霊の残酷さを警戒すべきだったというのは酷な話だ思うよ。だから我は君に手を貸そうと思う。対価と引き換えに、ね。」
「何を言っているんだ?」
「利害の一致が素晴らしい友人関係を育むこともある。我ら光の精霊はエマの身を守りたい。彼女がこの世界にいる間はずっとね。だが残念なことに我らの世界は広いけれど、とても浅いんだ。全般的に気まぐれな質の者が多いからね、突き詰めて深く分け入るのが苦手なのだよ。一方で、君達人間は違う。」
光の大精霊はそこで言葉を切る。
ああ、なんとなく彼の言いたいことが理解できてしまった。
「つまり私に君達の苦手とする領分でエマを守れと?」
「そう。君だって気付いているでしょう?君の能力と地位は彼女を守るために与えられたものだと。」
やはり、そうなのか。
運命の糸は複雑に編まれたようで至極単純にできていることもある。
他の時代では、国の運命を紡ぐ糸は王に集まる。
だが今の情勢で、糸巻きの糸が伸びる先にいるのはエマだった。
「どこからどこまでが彼女の差配なのかはわからないけどね。結果から推測するに初代女王は君と君の主を残すことを選んだ。君達に充分な権力を与えるために彼らを救わなかった。異世界の少女を中心とした乙女げーむ…だったかな?、その茶番劇を終わらせる機会や、女王として培った政治に関する知識もあったはずなのに手助けをしなかったことがいい証拠だろう。」
その白い毛に覆われた小さな身体を添わせるようにして横たえていた光の大精霊がわずかに首を回し、控えていた侍女に何事かを囁くと彼女は礼の姿勢をとり、別室へと姿を消した。
光の精霊達はエマを可愛がっているようだが、彼らは基本、自身の感性に従い動く奔放な生き物。
その彼らが進んで彼女の側にいる理由があるはず。
それはたぶん、彼らの琴線にエマの持つ資質の何かが触れたということ。
「エマは、精霊達の"愛し子"ということなのか?」
「ん、違うよ?"愛し子"は君だ。」
躊躇うことなく光の大精霊は断じた。
再び湧き上がる、怒り。
そんな馬鹿なことがあるか。
愛し子を慈しみ守るはずの精霊が俺に何をしたのか知らぬ訳ではないだろうに。
怒りを抑えるために唇を歪めた。
それが他人からは極上の笑顔に見えるらしい。
知りもしないで、知ったような事を偉そうに語る生き物が大嫌いだ。
「なるほど。甘言を囁き精霊界に連れ込んだ愛し子を、気のおかしくなるような虚無の闇に鎖で繋ぎ、魔力を喰うための餌として扱うのが、お前達の愛情表現というわけだな。」
光の大精霊は無言のままに視線を逸らす。
眷属から聞いているのだろうに、あの惨状を今更思い出したとでもいうところか。
痛みを与えた方は忘れても、与えられた方には痛みが記憶としていつまでもつきまとう。
「それどころか、精霊界から家に戻るための対価としてこの腕を奪われたのだ。掟だからとな!!」
義手が軋み、微かな音を立てる。
"精霊界に留まった人間が再び人間界に戻るためには、対価として自身の一部を支払う。"
知らなかったと言い訳をする間も与えられなかった。
確かに精霊界へと足を踏み入れたのは自身の選択。
見返りを求められるなど考えもしないで、人ならざるものの善意を信じた自分の愚かさ。
だが好奇心を満たす対価として身体の一部を奪うという理不尽が精霊ならば許されるというのか。
あの時の怒りが蘇る。
駄目だ、全く癒やされてなどいない。
俺はこんなにも激しく彼らを憎んでいる。
「自ら法を破った側の精霊が掟に従い愛し子の身体の一部を奪う。しかも魔力のほとんどを失い、意識のないうちに奪って残った身体を精霊の丘に捨てるとは。確かに精霊の血を濃く引く頑強なこの身体なら簡単には死なないだろう。だが傷が深すぎて、長い期間、生死の境を彷徨う羽目になった。」
そして、精霊は自身の知らないところで家人をも深く傷つけていた。
ある日を堺に突然豹変した俺が、言葉と魔法を駆使し誰彼かまわず家人を虐めて回る。
不在を誤魔化すために存在した自身の姿をした何者かが、兄弟や使用人を虐げていた。
後から聞いた話によると、あまりにも凄惨な虐めに首を括ろうとした使用人までいたらしい。
期間にしておよそ数週間ほどの事だが、そんな短期間にも関わらず俺を騙る何者かは、圧倒的な力でもって家内を蹂躙し、家人から寄せられていた自身への信頼や愛情は全て失われてしまったのだ。
そして精霊界から俺が放逐されると同時に、入れ替わるようにして何者かは姿を消した。
後に残されたのは魔力のほとんどを奪われ、片腕を失った、今にも息絶えそうな俺。
それは数週間に渡り、人々を苛め抜いた報いとして集団で暴行を受けた後のような姿にも見えたという。
誰から見ても自業自得と思える結末。
家族にすら見捨てられそうなその状況で、よく無事でいられたものだと自分でも思う。
眷属からの連絡で事情を知った水の大精霊が傷ついた俺の傷を出来るだけ癒やし、精霊が俺を捕らえて餌にしていた事を両親に教えていなければ、治療すらされずそのまま幽閉にされていただろう。
もし兄達や使用人が先に見つけていたら、嬉々として見殺しにされていたかも知れない。
それほどに俺を騙る存在は深く恨まれていたのだ。
そしてこの一件を境に、フォーサイス家は精霊との接触を断った。
だがそれで全てが解決されたわけではなかった。
それだけ残された問題の根は深かったということだろう。
ひとつは、姿形を模した何者かが家族の一人に成り代わっていたという、おぞましいあの状況。
それは目の前にいる人物が容姿だけ同じ別人かも知れないという新たな恐怖を生み出した。
父と母は再び奪われる事を恐れ、リアンの全てを目の届く範囲に置こうとした。
常に両親か護衛の監視がある状態は、脱出してなお、檻に繋がれたかのようだった。
そして、それとは逆に兄達は放置されていたという。
精霊に奪われる心配のない存在として、父と母は彼らに必要以上関わることなかった。
彼らも救いが欲しいと手を伸べた時もあっただろうに後回しとされる。
親しい者が見れば、まるで精霊の血を濃く引く俺に父母が囚われているようにも見えたのだろう。
フォーサイス家の三男は精霊の取り替え子。
その呪われた力で両親を操っている。
そう噂されるようになるまで、たいした時間は掛からなかった。
常に兄達からは憎しみを向けられ、使用人からは得体の知れない何者かを見るような視線を向けられる。
自身も被害者なのだと弁明する言葉が彼らの心に届くことはなかった。
なぜならば悪しき精霊に付け入る隙を与えたリアンは彼らにとって加害者だったから。
混沌と混乱が収まれば、今度は一連の騒動を起こした責任を負わせる存在が必要となる。
彼らにとってリアンがそれだったのだ。
信じていた精霊に裏切られ憔悴していた心が、さらに深く傷を負っていく。
さすがにここまで俺を取り巻く状況が悪化すれば、両親も俺と兄弟の不和に気が付き、仲を取り持つように手を尽くしたり、使用人を替えるなど手を打ったが、それすら彼らからすると俺に唆された両親がさせられている事と思われていた。
捻れた感情が、さらなる疑惑を生む悪循環。
領地に帰ることなく城に留まり続けるのは、隠すことなく憎しみの感情を向けてくる兄達や、遠巻きにして距離を置く使用人から逃げたい気持ちが心のどこかにあるからだろう。
そして両親からの帰省を促す催促が途切れないことから推測すれば、兄達の受けた傷は今だに癒やされていないに違いない。
その状況で俺が次期当主と決まったと知れば、彼らは精霊の取り替え子が呪われた力で当主の座を手に入れたと思い、今度こそ本気で兄達に殺されるかも知れないな。
精霊という異質な存在が人の世界に与える影響力は有益でありながら、決して無害ではない。
それを知りながら、なお精霊との関係を結び続ける必要があるのか。
頭では国に益があることと理解はしていても、気持ちは今だに割り切れていないのが良い証拠だ。
怒りと悲しみ、そして困惑。
複雑な感情が混在する俺の表情を受け止める精霊の瞳が初めて揺らぐ。
「そんな状況になっていたとは知らなかった。フォーサイス家から一方的に接触を禁じられた時、状況が状況だっただけに、こちらもそれ以上は深入りしないほうが良いだろうと、大精霊同士で話し合い、受け入れた。それが裏目に出たのかも知れないね。」
光の大精霊は深々とため息をついた。
「"愛も過ぎれば光を失う"、その言葉を教えてくれた者がいたんだ。過ぎた愛は呪いや憎しみに近いものという意味らしいけど、事実、君は精霊界でそのとおりの状況になった。」
愛も過ぎれば光を失う。
その言葉に、なぜか両親の顔が浮かんだ。
彼らは自身への深い愛情故に、彼を世界から切り離し、閉じ込め、行動を監視した。
だがそれはもはや愛とは呼ばれないものだったのかも知れないと、今更そのことに気付かされるとは。
「かの精霊は君を愛し過ぎていた。精霊の愛し子である君の全てを自分のものにしたくて、君を閉じ込め、他人に取られないよう傷付けた。許されることではないし、簡単に許せることではないことは理解しているつもりだ。」
「ならばどうして取引などと?」
「君の見た目を餌に仕立てあげ精霊達に襲わせた存在が、まだ野放しになっているからだ。君を愛し子であるフォーサイスの三男から、容姿を魔獣に偽装し、精霊達に餌だという偽りを本当だと信じ込ませた邪悪な存在がいただろう?」
リアンの背筋を冷たいものが駆け抜ける。
怒り、それは幼い頃に植え付けられた恐怖の裏返しであることは本人が一番よく知っていた。
精霊の禍々しい側面を煮詰めて凝縮したような存在。
アレが、野放しになっていると?
「アレが…あの双子がどうして。」
「囚えていた檻から逃げ出したのだよ、そして人間界に身を隠した。どうやら各地で悪さをしているようでね、風の大精霊から見つけ次第捕獲するように依頼されている。」
「主犯なのに、わざと逃したのか?」
「主犯?…まさか、逃したなどと思われるのは心外だ。それに君に直接手を下した精霊は、自らが望んでやったことだと罪を認めている。そして双子には依頼して手伝ってもらっただけだけだと言って…。」
そこで光の大精霊が口を噤んだ。
突然、人の姿に変化した彼をリアンはただ黙って見守る。
意図せず人化した事に本人は気づいているのだろうか。
もし気付いていないとすれば別の何かに気を取られているのだろう。
精霊の表情の変化を観察しながら、人にしては整い過ぎているとも思える彼らの容姿に自身の特徴を重ねる。
血のつながりのある家族よりも彼らの方によく似ている、その事実に眉を顰めた。
先祖返り。
途方もない言葉が、しっくりと現実に馴染む。
光の大精霊の仄暗い怒りを宿した両眼がひたとリアンを見つめた。
先ほどとは反対に憐憫を宿した瞳で見つめ返すのは俺の方だ。
「光の大精霊、先程貴方が口にしたではないか。邪悪な存在の片割れは何ができるかを。」
「我々にも嘘を真実だと思い込ませていたのか。」
「そうだ。俺の前で取り繕ってはいても、どちらに主導権があるかは歴然としていたよ。」
「疑わしいとは皆思っていたのに、どうして彼らの言葉が嘘だと見破れなかったのか…。」
「アレより力が弱いからじゃないのか?」
「なっ!!」
精霊の力は同じ精霊に対しては効きにくい、その概念に彼らは囚われていたとも思える。
だがそれをひとまとめにして容赦なく切って捨てたリアンに光の大精霊は怒りの表情を向けた。
だが彼の表情と、隣に横たわるエマの無防備な姿を視界に収め、怒りをねじ伏せたらしい。
リアンは内心で自尊心の高い大精霊が不満たっぷりな表情ながらも自ら矛先を収めた事に驚いていた。
怒りをねじ伏せる理由として、どちらが勝ったのだろうな。
被害を受けた精霊の愛し子への配慮か、それとも次代の魔法紡ぎの女王への愛情か。
俺に対してはともかく、彼女の事を大切に思っているのは本当のようだな。
精霊にとって愛し子は無条件に彼らの情愛を捧げる対象であると聞いている。
だがエマを特別扱いするということは、それを凌ぐ程の何かを彼らは感じているとでもいうのか。
彼女の表情を伺えば、ただ静かに眠っている普通の少女にしか見えないというのに。
「こんな苦難がつきまとうなど、思いもしなかっただろう。」
「特別な力を与えられた者の宿命といわれたら、そこまでだけどね。それだけで全ての罪を受け入れろというのは、とても残酷だと思うよ。そこには一片の救いもないじゃないか。」
エマのことを話しているはずなのに、なぜか光の大精霊の言いたいことがわかってしまう。
結局アレが野放しになっている限り、俺だけでなく彼女にも被害が及ぶ可能性が残ると言いたいのだろう。
「それにしても嘘を真実と信じ込ませる力…これは相当厄介な力だね。」
「本当に厄介なのは、その後だ。当人が嘘ではないかと疑ううちはまだ救える。だが信じ切ってしまえば偽がその者の中で真となってしまう。そうなってからでは、多分誰も救えない。」
そうなってからではどれほど周りが不自然だと疑っても、そこに嘘の欠片も見抜くことはできないだろう。
なぜならばそれは本人にとって嘘偽りなく真実なのだから。
「では、かの精霊は…。」
「君達に捉えられた時点で、すでに彼らの傀儡だったのだろうね。かの精霊が俺を愛し過ぎていたという設定すら疑わしい。もっとも、直近で同じような事案があったから、当時の貴方達が抱いた違和感については理解できるよ。」
自国の大工が隣国の農地を禁忌の魔紋様を使い呪った。
縁故どころか利害関係すら成立しないのに、なぜ?
背後関係を探っても違和感しか感じなかった。
「第三者を主犯に仕立て、混乱に乗じて姿を消すという手口も似ている。」
「ソルの一件、背後にはあの双子がいたわけだね。ずいぶんと好き勝手してくれる。」
光の大精霊は唇の端を引き上げた。
思いの外、長くなったのでキリのいいところで切りました。
皆様、よい歳をお迎えください!!




