第八話
アリスは全てを言い終えると、涙を拭うこともなく俺に背を向けた。
もう二度と会うこともないだろう。
旅立っていく。わずか数分後の死に向けて。本当の終わりに向けて。
「行かせるか!」
俺は飛びつくようにして彼女の背中を抱きしめた。その体は一瞬だけこわばったが、やがて静かに力を抜いた。それでも、いつでも俺のことを突き放そうとしている。俺を守るためだと言った。事実なら、それを受け容れるほど俺は薄情であるつもりもない。
……そうじゃない。そんな言葉じゃ、お互いに後悔するだけだ。俺は覚悟を決めた。腹の底が冷えたように凝り固まって、喉が焼けるようにひりついていた。乾ききっていた唇を無理矢理押し開いて、感情を爆発させた。
「やめろ、行くなアリス! 俺もその……お前のことが好きだ。大好きなんだ! 俺のそばにいてくれ……!」
一度口に出したら止まらなかった。告白なんて簡単だった。最初の一回さえ口に出せば、あとは相手がどう思おうが関係なんてない。言葉と、そして彼女を繋ぎ止める両腕に力を込めて。
「もしかしてこれって、両想いというものですか?」
「ああそうだ。両想いってやつだ。俺もお前と同じでお前がいないと生きている意味なんてないんだ。だから死ぬなんて言うな、お願いだから……」
「先輩、ちょっと痛いです」
「死ぬことに比べたら痛くないだろ」
「だからです。このまま先輩の腕の中で、痛い思いをしていたくなっちゃうじゃないですか……だからダメなんです」
「なんでだよ! なんでアリスが死ぬんだ! ふざけんなよ! 許せるわけないだろ! 不死身の能力なんじゃなかったのかよ! だから俺は神様だの運命だの信じたくなかったんだ!」
「先輩っ、もう、本当に時間が」
「俺も一緒に死のう」
アリスが息を飲むのを感じた。怒っているように感じた。事実、怒っているのだろう。時間が無い。俺だって言いたいことは言わせてもらう。
「誤解するなよ。俺は無駄死にするつもりはない。お前の話では、俺だって死んだら何秒か巻き戻って、やり直すチャンスがあるんだ」
「何言ってるんですか! 普通の人は巻き戻るとしても本当に数秒なんです! 無理に決まってます!」
「やってみなけりゃわからないさ」
「やってみなくたってわかります」
「アリスの意思なんか関係ないね! どうせ死ぬつもりなんだったらおとなしくしてろ! 俺は絶対にお前を離さないぞ。何百回でも何千回でもやってやる。俺が未来を変えるんだ」
「先輩が死んでいったい何になるって……」
「俺が背負うんだ! 俺がアリスの人生を全部背負ってやる! お前は運命なんていうクソくだらないモノなんかじゃなくて、俺を恨め! 俺なんかに関わったせいで静かに死ねなくなったってな!」
力加減なんかできそうにない。もう二度とこの体を離したらダメだ。指先が真っ白になるほど力を込めた。ずっと後ろから抱きすくめているせいで、アリスの表情は確認できなかった。ただ彼女の息づかいだけが、しかし表情なんかよりももっと正確に彼女の感情を伝えてきている気がする。
そんなアリスの体から、ふいに力が抜けた。俺に体を預けるように、窓際で二人寄り添う形になる。時計の針を見た。ふたつの影は、俺達のように重なり合おうとしていた。アリスにはもう、俺を振り切って逃げるだけの時間はない。
アリスは拗ねたように言う。
「私、もう一回だけやり直します。そして先輩なんか無視して一人で死にます」
「無理だね。お前は死ねない。俺が生かすから」
「……先輩って、馬鹿なんですね」笑っているようだった。
「俺が馬鹿ならお前はアホだ」それならばと、俺も笑い飛ばした。
「私にそんなこと言ったの、先輩が初めてです」
「またひとつ、アリスの初めてをもらったな」
「その調子で、私の初めてをいくつ奪うつもりですか」
「今後のアリスの初めては、全部俺がもらうつもりだけど?」
「っ……今のは、ちょっとぐっときました。先輩もやればできるじゃないですか」
「何言ってんだ、こいつめ」
顔を見てやろう。何気なくそう思って、顎を掴んでこちらに向けた。
アリスは笑ってなんかいなかった。
ずっとずっと、涙を流し続けていた。
「私の初めてって、まだまだたくさんあるんですよ?」
「そうでなきゃ困る」
「初めて一緒に旅行に行ったり、初めて私の手料理を食べてもらったり、あとそれから、初めて私が風邪で寝込んだときの看病したり。あとね、はじめて……」
そこからは声になっていなかった。俺はただアリスの言葉に合わせて何度も頷いた。初めて彼女の髪を撫でた男になれたらいいな、とそんなことを考えながら。
「どうして私は先輩と一緒にいられないの? どうして先輩と一緒の人生を歩んじゃいけないの? 教えてよ、先輩」
「アリス。生きたいんだろ」
「……生きたい」
「まだ死にたくないよな」
「死にたくないです。助けて……私を助けてください!」
アリスの言葉を聞いたとき、俺の心臓が直接掴まれたかのように引き攣った気がした。
この感覚はなんだ。何かが引っかかっている。そう、何か非常に大切なことを忘れてしまっているような、涙が出るほど懐かしい感覚が、頭の中の深くを行ったり来たりしている……
「あたりまえだ!」
胸の痛みを気取られぬように叫んだ。
「神だの、運命だの、クソ食らえだ。よし、やる気出てきたぜ。無事に帰れたらお前の初めてのキスをもらうからな!」
勢いで叫んじゃったけど……初めて、でいいんだよね?
アリスがそれに同意しようと首を縦に振った、かのように見えたがそれを確認することはできなかった。
足下が突然すさまじい勢いで揺れたのだ。地震か……!?
「先輩、これたぶんガス爆発です!」
「逃げ切れるか?」
「わかりません!」
悲痛なほどに喉を涸らしながらアリスは叫ぶ。
「下の12階はたぶん、もう炎でぐちゃぐちゃです! 13階から上はこのまま崩れ落ち……」
言い終わる前に、再び強烈な振動が走る。別の部屋でガスが誘爆したのか。確かめている暇はなかった。時計はすでに11時56……いや57分か? カップラーメンも煮立たないうちに、アリスの命は終わる。そしてその時はたぶん、俺の命も。
「逃げるぞ!」
「どこへ逃げるっていうんですか! 下はめちゃめちゃ、上に逃げても意味はないんですよ!」
「窓は」
「ここは14階です!」
「避難はしごはあるだろう」
「出す暇ありません!」
万事休すか。口には出せなかった。俺が彼女を生かすと断言したからには、俺が諦めるわけにはいかない。俺がクッションとなって彼女を守ることはできるだろうか。そもそも人間一人がクッションになったところで、14階もの高さからの崩落を防げるものなのか。
ついに3回目の爆発音が響いた。これが致命的だった。地響きのような音がすぐ近くで起こる。部屋全体が傾き始めているのがわかる。
「崩れる……!」
アリスの手を握った。
その時、頭の中に衝撃が走った。強烈な光が網膜を焼き、発狂しそうなほどの記憶の奔流が俺の中に流れ込んできた。アリスは即死。アリスは即死。アリスは即死。俺は即死。アリスは即死。アリスは即死。アリスは即死。アリスは即死。アリスは即死。俺は即死。アリスは即死。アリスは即死。アリスは即死。アリスは即死。アリスは即死。俺は即死。アリスは即死。アリスは即死。俺は……
わずか数秒、いや、わずかコンマ数秒の出来事だったのか。手を握られたアリスがちょうど、俺を振り返るところだった。
全てを理解した。俺は死んだ。何度も出会い、何度も死んだ。その全ての死の記憶が繋がっていく。何故覚えていなかったのか。何故思い出せなかったのか。脳容量の問題があったからだ。20年。そう、20年も遡ったら、俺は当時まだ1歳である。言語能力も記憶能力も未熟な1歳児が全てを記憶できるはずもなく、俺の死の経験と記憶は、まるで前世の記憶のように、頭の奥底に封印されることとなり、そして死の間際に蘇る……
そうだった。
俺もまた、アリスと同じ、タイム・リーパーだったのだ。
「アリス!」
「なんですか、先輩! もし先輩が私だけ助けようとしたら、自殺してでもやり直して助けますから無駄ですよ!」
「そんなことはしない。だけどひとつだけ」
アリスは声もなく頷く。
「お前の命、俺にくれ」
「そんなのもう、すでに先輩のものです」
「返事早くないか!?」
「責任はとってもらいますからねっ!」
もう言葉は要らない。俺はアリスの手を引いて部屋を飛び出した。
「どこへ?」
「エレベーターだ!」
アリスは反論しない。全てを俺に委ねると決めたのだ。その意思を告げるかのように、俺の手を強く握り返してきた。
廊下はすでに半分ほど崩れ落ちていた。躊躇している時間は全くない。エレベーターの扉は閉まっている。俺はその前で足を止めた。すでにアリスの顔に不安の色はない。ただ、疑問に思ってはいるようだった。
「時間は」
「59分ちょうど」
「オーケーだ。少しだけ待つ」
「……っ」
アリスは目を閉じた。
彼女もこのルートは模索しただろう。エレベーターが故障していることなどとうに分かっていることだ。
永遠とも思える時間。下の階からは黒煙が立ち上りつつある。すでに立っているのも難しいと思えるほど廊下は傾き、もう死は目前と思われたその時、ついにその瞬間がやってくる。
エレベーターのドアの壁が崩れた。間髪入れずに軽く引くと、ドアはそれだけで軽く開いた。もちろんそこにエレベーターはない。電源は落ちており、そこに何があるのかもわからない。
「アリス、手を離せ!」
言われたとおりにした彼女をすぐに無言で抱きかかえた。
たぶんこのルートで間違いない。他のルートは、過去20年の人生を送ってきた何人もの俺が全て試し、ダメだと結論づけてきた。他に道はない。アリスと同じように、俺も今回が最後だと、漠然とそう思っているのかもしれない。
……そう確信していても、怖いものは怖い。
だが、それで失敗することはできないのだ。
アリスの顔を見た。彼女は目を閉じていた。まるで眠るように、俺の袖を強く握りながら。
行こう。
一切の感慨を捨て去って、俺は漆黒の闇に向かって跳んだ。