第七話
時計を見ると愕然とする。短針はほぼ垂直に近く上を向き、楽しい時間はあとわずかであることを無表情に告げている。俺はアリスのマンションにいた。高級というほどではないが、一等地と言っても良い立地のマンションらしく、わずかにスカイツリーの頭が覗いているのが見えた。俺達は窓際に二人で向かい合って座っている。
「素敵な部屋でしょう? ちょっと奮発してるんです。使い切れないほど遺産がありますし」
納得できる話だった。ホテルのスイートルームは言い過ぎだが、ここなら東京の夜景の一部を独り占めできるような気になる。「男の人をこの家に上げるなんて初めてです」なんて言われたものだからガチガチに緊張してしまっていて、最初のうちは言葉少なくただじっと、今日一日を噛み締めるかのように窓の外を見つめていた。降り続く雨は未だ已まず、むしろその勢いを増していたが、イヴの夜らしいスカイツリーの赤と白のイルミネーションが、窓に当たる無数の雨粒の中に幻想的に滲んでいた。それを見ていると次第に心が重く、冷たく醒めていくのを感じる。
「ここにいて平気なのか」
「わかりません。この時間を先輩と過ごすのは、初めてなので」
さらっと嬉しいことを言ってくれる彼女の頬は、あえて控えめにした照明の中で赤くほてっているように見えた。暗い照明と陰のコントラストが彼女をより神秘的に、そしてよりセクシーに映し出していた。今なら肩を抱いたりしても、拒否されないような気がした。そして、なし崩し的に雰囲気でキスとかできたりしないかな……
そんな下世話なことでも考えていないと、俺の精神は持ちそうになかった。
「でも、そろそろお別れかもしれません」
まだ一杯目のワインも飲みきらないまま、アリスは俺に向き直った。彼女の言うお別れは本当の意味のお別れだと知っているから、俺は素直に頷くこともできず、二杯目を飲み干した。軽い味なのか、口の中は嫌味なほどにさっぱりとするが、これはもう、三杯目は飲めそうにない。
「俺が一緒にいれば、また違う未来になるかもしれない」
「そうかもしれませんが、そうならないかもしれません。前回、私は何らかの事故に巻き込まれて即死したようです。同じことになれば、先輩を巻き込んでしまう」
「もしそうだったら、またやり直せばいい。俺がその時どうなってるかはわからないけど、たぶん、喜んでデートするさ」
俺は何度でもデートする。アリスとだったら何度でもだ。そう思っていた。
「先輩は優しいから、きっとそう言ってくれると思いました。でも、私にとって憧れだった初デートは、もう終わってしまいました。今後、数え切れないほど先輩とデートをすることになったとしても、私は、今日のように純粋に笑える自信はありません。先輩は、そんな私とのニセモノの初デートでも、楽しんでくれますか?」
最初に会ったときの無表情なアリスを思い出した。飽くような地獄の年月は簡単に人を変えるのだ。言葉が出てこなかった。自分の独りよがりな好意の押しつけに自分で吐き気を催しそうだった。
俺は結局、彼女を何一つ理解していなかった。
「今日で最後にしようと思います」
「へっ?」
自分でも恥ずかしくなるほど間抜けな声が出た。それほどまでに彼女の言葉が理解できなかった。今日で最後とはどういう意味だろう? まるで別れ話を切り出されているカップルのようだった。いや違う。俺達は付き合ってすらいないのだ。だとしたら、彼女の最後というのは、文字通りの最後なのだ。
「思い残すことはないという意味です」
「お前、なんか重病人が死ぬ間際みたいな台詞言ってるぞ」
「なるほど……私は重病人だったのですね、納得です」
アリスは楽しそうに頷いた。今日何度も見せてくれた、彼女の本当の笑顔だった。楽しそうにする話ではないと怒鳴りたかったが、俺が怒って何が解決するというのだ。本当に怒りたいのはアリスなのだ。でも、もう彼女はそんな感情を超越して死を受け入れようとしている。
ふと思い出した。これは昔誰かが言っていた、『不治の病における死の受容プロセス』と同じではないかと。なるほど重病人だ。皮肉なまでに。
「先輩って、感情の動きが全部表情に出ますね。面白い」
からかい半分の言葉をまともに相手する気は無かった。
「諦めるのか? 今まで諦めずにやってきたんだろう?」
「本当はずっと前から、もういいんじゃないかなと思ってました」
アリスは俺から目をそらした。窓から見える世の中は幸せに満ちているように思えた。その分の不幸せを、アリスが一人で背負っている。釣り合うわけがない。
「そうだ、最後に先輩にいいことを教えてあげます。先輩と同じゼミの五十嵐先輩」
「何だよ急に……五十嵐さんと、知り合い?」
「すみません、知り合いというほどでは。ですが、五十嵐先輩は、たぶん先輩のこと悪く思ってないと思います」
本当は言いたくなかったんですけど、と舌を出しておどけてみせた。俺はといえば、突然の告白に頭がついていかない。こんなところで五十嵐さんとの占いを聞くことになろうとは、皮肉にも程がある。
「いや、五十嵐さんは今日は予定があるって言って、断られたんだけど」
「今日と明日はバイトを入れているはずです」
言われてみれば、忙しいとしか言っていなかったような気もする。そうか、フラれたわけじゃなかったのか。アリスが言うのだからきっと本当なのだろう。今まで教えてくれなかっただけで、俺が五十嵐さんといい感じになる【未来】も、アリスは見たのかもしれない。
不意に胸が高鳴るような感じを覚えた。
頭の中で五十嵐さんと俺が手を繋ぐ。一緒に遊園地で季節外れのアイスクリームを食べて、オカルト映画を見て笑い合う……違和感。
「ちょっととらえどころのない方みたいですから、ちゃんと先輩が離さないようにしないとダメなんですよ?」
指を立て、胸を張ってそんなことを言う。そのどこか芝居がかったひょうきんな姿が、俺の中の作り物の五十嵐さんを全て吹っ飛ばしてしまった。
「五十嵐さんのことはともかく。今は、目の前で自殺を考えてる子を無視できるわけないだろ」我ながら捻くれた言い方だと思ったが、アリスは笑ってくれる。
「俺が言うのもなんだけど、時間は無限にあるんだろ? それなら……」
アリスは首を振った。
「人生には目標が必要なんです。私は困難な目標を立てて、それが達成できてなお生き残れないなら、運命に身をゆだねようと思っていました。そして今日、なんとなんと、その目標が達成されたのです」
「目標って、いったい……」
「やだなあ、先輩。女子にそこまで言わせる気ですか?」
「だって、有り得ないだろう。そんな、モテるわけでもなく、好かれるような出会いもしてない、俺なんかのこと」
「そんなこと言わないでください。先輩は、私のたった一人の理解者なんです」
「でも、出会ってまだ間もないのに」
「間もない……?」
しまった、と思ったが、手遅れだった。
アリスは激高して叫んでいた。
「私がいままで何回先輩に振られ続けたと思ってるんですかっ!!」
キンと耳の奥が痺れて全ての音が消えた。初めて聞く彼女の金切り声が、俺の鼓膜を切り裂いてしまったかのように。
土足で踏み込んでしまったことを悟る。決して踏んではならない禁断の場所へ。
「私がいったい、何十年間、片思いし続けてきたと思ってるんですか……」
アリスの怒りはすぐに収まった。そして、笑った。流れ落ちる涙を気にしようともせずに笑った。その問いに対する答えを俺は持たない。持たないのだ。
「あれ。私、まだ怒れる。まだ、泣けるんだ。なにこれ。あはは、おっかしいなぁ……」
呟くようなアリスの言葉に、俺も耐えきれなかった。両手で顔を覆った。泣き顔なんてかっこ悪くて見せる気にならなかった。アリスの顔を見ていなければならなかった。彼女の最後の姿を永遠に焼き付けなければならなかった。彼女の声を、言葉を、耳の奥で何度も再生できるようにしなければならなかった。できなかった。次々に溢れてくる涙と嗚咽を止めることができなかった。それが情けなくて、俺は顔を上げることができなかった。
「こんな感情も、【次】からはもう消えていきます。私が何かを経験するたびに、私の初めての感情は失われていって、そして最後には何も感じられない人形になってしまう。ねぇ、先輩。今、本当に何年かぶりに、私、とっても充実しているんです。私はこのまま、人間として全てを終わらせたい」
無責任なことは言えなかった。俺は部外者ではないと、そう叫びたかった。だが本当の意味で、俺は……俺ですら、他人でしかない。
「そろそろ時間です。私から離れて、どこかに行ってください。できるだけ、遠くへ」
「俺は、ここに残る」それでも俺は彼女を一人にできないと思った。エゴだ。
「そう言ってくれると思いました。私が出て行くしかないですね」
アリスは立ち上がった。今日一番の笑顔で。まっすぐに俺の顔を見つめながら。
その言葉のひとつひとつが、俺の心の深くに、赤子に触れる母親の手のように柔らかくめり込んで、そのまま突き刺さっていった。
ユウキ先輩のことが好きでした。
私のことなんか眼中にないと言っていた頃も、私のことを理解してくれた後も、ずっとずっと私のことを気にかけてくれていた先輩に惹かれていきました。
あなたにとってはたったの三日間でも、私にとっては一生を超えるほどの長い間、私を支えてくれた大切な人。
そう言っても、今なら信じてくれますよね。
先輩とは過ごす時間がちょっとだけ違っちゃってましたけど。
私はもう、先輩なしには生きていくことはできません。
だから、大好きな先輩に、【一生のお願い】をさせてください。
──どうか、私に、幸せな最期を。