第五話
人はみな、死に際し、時間を巻き戻す力を持っている。
そういう衝撃的な言葉から高槻の述懐は始まった。
全ての人間は、命が失われた瞬間に、一定の時間、過去に戻ることができる。そうして、自身の死を回避するチャンスが与えられる。その時間には個人差があるが、ほとんどの人はわずか数秒しか与えられない。そして、数秒遡ったところで、例えばすでに瀕死の重体であったならば、もはや未来は変わらない。過去に戻る回数に制限はないが、死の瞬間に全てを諦めた時点で、消滅──すなわち、完全な死が訪れるのだ。
「このシステムがなければ、きっと人間はすでに絶滅していたでしょう」
母からそう聞いたのだ、というのでひとまずは信じ、話を促す。
彼女の一族に生まれた女性は、過去に戻れる時間が非常に長かった。彼女の母は最大で3時間も遡行できる。これは一族の中でも特に長い遡行時間だったようだが、高槻自身はさらに長く、最大で3日も遡行できることが判明した。その間の記憶は全て保持される。すなわち、高槻は、これまでの人生で死亡した記憶を全て持ったまま、今まで生きているのだという。
二つの疑問が生じた。
ひとつ。俺自身にそういう能力が備わっているのか。
ひとつ。俺がそれを自覚していないのはなぜか。
「先輩を含め、普通は数秒しか過去に巻き戻ることはできません。そのわずかな時間で死を免れる行動を取れれば、生き延びることができるのはお話ししたとおりです。ですが、ほとんどの人は、わずかな、それでいてあまりにも衝撃的な時間の連続を確たる記憶としてとどめることはできないと思います」
九死に一生を得た、などという状況にあるとき、実は人は何度も死を繰り返している。しかし高槻は、仮に死ぬことがあっても、最大で3日も人生を巻き戻すことができる。かなり特殊な状況に陥らない限り、不慮の死は回避できることになるだろう。何者かに拉致されて一週間も監禁された挙げ句衰弱死する。震災などで生き埋めになったまま3日が経過する。たとえば、そういった状況だ。
その不死身ともいえる彼女が、未来の記憶を保持したうえでこの場所にいる。
それはとりもなおさず、未来の死を予知し──高槻風に言えば、『厳密には違う』のだが──それを回避するためなのだろう。
そこまでは理解できる。それはそれとして、ここからが最大の問題なのだ。
「それで、お前の両親は、なんて?」
「父は私が生まれてすぐに死にました。母も3年前に」
それは……なんとも。いや、母親は高槻と同じような能力を持っていたのではなかったか。俺の疑問を察したのか、彼女は慌てて付け足した。
「敗血症でした。こういった力をもってしても、抗えなかったのです」
「それはわかった。でも、どうして俺にそれを教えようと思ったのか……」
「諦めたくないからです」
意味が分からない。
「私はまだ、死にたくないのです」
「それはそうだろう。高槻の言い分では、生きることを諦めた瞬間に、死が確定することになる。今こうして未来の記憶を持ったままのお前が存在するということは、過去の……ええと、時間軸的には未来になるのか? その時点でのお前は、まだ生きることを諦めていなかったことになる」
「さすが、先輩です。私は母に何度説明されても、実際に体験するまでほとんど理解できなかったのですが」
「嫌味ならお断りだぞ」
「嫌味ではなく、心からそう思っているのです。なぜなら、私が先輩にこの話をするのは、今回が初めてだからです」
なるほどね。
軽く返事をしようと思って、しかし、俺の口は凍りついたように動かなくなった。
繋がったような気がした。
3日前に俺と出会ったときの驚いたような態度。
その直後に飛び出した「3日後に死ぬ」という台詞。
それまでは表情豊かで快活だったと言われていた状況と、出会ってからの能面のような表情と。
まさに3日前のあの日、高槻は『戻って』来たのだ。そして昨日、食堂で話をしていた時も。彼女が予知をするということは、もれなく、未来の自分の死と等価交換によっている。当たり前のことのように聞いていたが、高槻はその分、死んでいるのだ。それを実感した瞬間、意識が遠ざかるような感覚に襲われ、慌てて首を振る。
俺の視線を真っ正面から受けた彼女は、一瞬電気が流れたように体を震わせると、再び表情を暗くした。
「私は、やはり死ぬようです」
もしかして、今、彼女は再び『戻って』きたのだろうか?
それはつまり、今一度、高槻は死んだということだった。
死ぬということはどういうことなのだろう。深く考えたことはなかった。ただ別れは悲しいのだろうと漠然と思うに過ぎなかった。残された者にとってはそれでいい。しょせん時間がすべてを解決する。だが、死にゆく者はどうなのか。どれだけの苦しい思いであっても、それは人生で一度しか経験しないはずの痛みであるはずだ。水瓶に無理矢理顔を突っ込まれ、死の寸前で引き戻される。それの繰り返し。拷問だ。それ以外に言葉は見つからなかった。
「先輩?」
答えを失う俺に、高槻が首をちょこんとひねる。そんな何気ない仕草がとても健気に感じられて、突然、頭の奥に甘い痺れが走った。涙が出そうだった。
「……高槻。俺に打ち明けたのは、初めてだと言ったよな」
「だったと思います」
「何回目だ?」
高槻は答えなかった。俺の視線から逃げるように、冷めきったコーヒーの表面を見つめていた。
「何回目で、そうしようと考えたんだ。俺に打ち明けようと」
「それは、先輩には関係の無い話です。なぜなら先輩にとっては、常に一回目なのですから」
「同じ3日間を阿呆みたいに繰り返して、頭がおかしくならないのか」
「私にとっては同じ3日間ではなく、常に異なる3日間なのです。同じなのは、私が死ぬという、その結果だけです」
それはゲームに例えると、レベル上げも離脱も許されない最後のダンジョン最奥部のセーブデータから延々とボス戦を繰り返すことに似ている。同じ戦法を取るつもりはなかろうが、普通数十回も挑んで勝てないと分かったら心が折れてしまうだろう。
「私は諦めません。3日間あれば、選択肢は無限大です。死ぬのは辛いですが、またやり直せば良いだけです」
「お前なあ、簡単にやり直せるとか言うなよ!」
思わず大声を出してしまった。高槻は肩をすくめている。気がつけば、泣きぼくろのウエイトレスがオムライスとリングイネを置いて気まずそうに去って行くところだった。
なんかもうこれ完全に別れ話だと思われてないか?
「3日の猶予があればどんな死も回避できるだろう、いくらなんでも」
「最初はそう思いました。ですが、どのような回避行動を取っても、最後には一様に同じところで死んでしまいます」
「そんなことが……」
「心臓発作です」
病気……それは確かに難しい。当然何人もの医者に診せたというが、特に問題は無いと診断されたという。どうすれば死を回避できるのか分からない。ならば救急車を呼んでもらいやすいよう、人の多い場所に行くのはどうか、と提案したが、それは意味がないようだ。なぜなら、病院に搬送される前に即死してしまうから。
「それに、少しずつ、巻き戻る日数が少なくなっています。最初は、先輩に声をかけられた直後でした」
やはりあれは、俺の顔を見て驚いていたわけではなく、死んで戻ってきた直後だったというわけか。そんな状態で俺みたいな奴が訳の分からない口上をグダグダ言ってたら、そりゃ機嫌も悪くなる。完全に俺が悪い。というか、死に戻りを俺との出会いのタイミングに合わせるとは、神様もヒトが悪い。カミが悪い、と言うべきか?
「22日……昨日だと思いますが、先輩に死ぬ原因を聞かれた時、未来が変わったのです。それ以来、巻き戻るタイミングはその時点に設定されたようです」
つまり、2日しか巻き戻れなくなった。
「それまでは先輩は私のことを一切信用してくれませんでした。なのに、あの時、突然私の話を理解してくれて、それで未来──死因が変わりました」
「死ぬ未来は変わっていないのか」
昨日の時点では理解していたわけではない。しかし、確かになぜか高槻の話が本当であるという前提で発言をした気がする。それが元で未来が変わったというのは、数えきれぬほどの死を繰り返した彼女に対するご褒美のようなものなのだろうか。いや、結果が変わらなければそれはただの神の気まぐれでしかなかろう。
「そして今日、先輩に全てを打ち明けて、信じてもらえたことで、さらに違う未来に進むことができました。わずか1日しか戻れなくなってしまいましたが」
「それだけ未来が変わっても結局死に戻る……いったいどうなってる? そんなことが本当にあり得るのか?」
「こんな言葉を使うと、受け入れてしまうみたいで嫌なのですが。たぶん、それが【運命】というものなのでしょうね」
馬鹿馬鹿しい。俺は運命なんか信じちゃいない。運命を信じるってことは、決定論を信じるってことで、それはすなわちラプラスの悪魔を肯定することになる。冗談じゃない。俺はあくまでも、ある種のタイムリープの可能性について議論の余地があることを認めただけだ。
「ですが、はっきりしていることは、どうやら先輩と関わっていると、私の未来が変わっていくようだということなのです」
話を聞く限りでは、そういうことになるのかもしれない。俺が何をしてやれるというものでもないにせよ、このまま俺が何もせずに高槻を見捨てたら、間違いなく、明日の夜には死ぬことになる。そして、それは俺にとってはわずか一日のことであったとしても、当の高槻にとっては、何百、何千、いやもしかしたらそれ以上の悠久の時間。人の一生を遥かに超えるような、気の遠くなるような時間の果て、未来に絶望し全てを諦めた結果、死を受け入れざるを得なくなった、その結果としての死が確定する。量子論的に言えば、その時点で『高槻の死が観測される』ということになる。だが、そうなっては手遅れなのだ。
「先輩には、私の【運命】を変える可能性があるのかもしれません」
そこまで言われたら、いいじゃないか。一日や二日くらい、付き合ってやってもいい。どうせ五十嵐さんにはフラれてしまったのだから。このクソ忙しい聖なる一日に俺がフリーだったことを、運命とやらに感謝するといいさ。ああもう言っててむなしい。
「言いたいことはわかった。俺にできることなら、協力してもいい。このまま死なれても目覚めが悪いしな」
「先輩、それ毎回同じ台詞です」
可笑しそうに笑った。初めて見る自然な笑顔に癒やされる。それと同時に、すでに彼女は何度死んだのだろう、と思うと一緒に笑う気にはなれない。
「今回のお願いは、もしかしたら……嫌かもしれませんけど、そう約束していただいた以上は協力してもらいますからね」
「今回は、とか言うなって。俺にとっては常に一回目、なんだろ?」
「……ですね、甘えちゃいました」
なんだか急に可愛くなってないか。
彼女の妙な雰囲気に心臓が少しずつ早鐘を打っていくのが耳に届きそうで……
「先輩、明日一日、私とデートしてください」
そのまま飛び跳ねて砕け散るかと思った。