第一話
20××年12月21日
「高槻アリスって君のことだろ?」
これはない。
初対面のしかも女性相手にこの台詞はないと思いつつも、俺にはこぼれたミルクをグラスに戻す術を持ち合わせていない。
目の前の席で、物憂げな表情でA定食を口にしていた女性──高槻アリスは、そんな俺を見た瞬間、その目を見開いた。目に見えて狼狽していたようだった。その後、なぜか突然無表情になると、俺などまるで目に入っていないかのように、食べかけの盆を持って椅子を引いた。長い髪が肩から腕に流れ落ちるのを見て、俺は慌てて腰を浮かせた。
「ちょっと待ってって、あのほら、別に邪魔をしたいわけじゃないんだ。俺は理工学部3年の竹下ユウキ。実は君と少しだけ話をしたいなーとか思ったりして。あ、ほら、森岡って知ってる? 君と同じ文学部2年の少年系? みたいな? アイツから君のこと紹介されたんだ、いやほんとアポもなくて不躾でごめんね。ほらアイツ一浪だから俺とタメなわけで」
「ナンパですか、就活もせずにお暇でうらやましいですね」
冷たい声が俺のハートの一番深い部分に深々と突き刺さった。
高槻アリスは、俺の目どころか体の一部分さえも見ようとせずに立ち上がった。前髪から覗くその顔に、やはり表情はない。おそらく強烈な敵意を皮肉とともに向けられていることはわかる。だが、俺にはそれよりナンパと間違えられたことが心外であった。断じて違う、ナンパなどではないのだ。俺の好みは背が低くてショートボブの健康的な妹系なのだ。そういう点から言えば背も高くてロングヘアーでどっちかっていうと高嶺の花? 的他な君はぶっちゃけアウトオブ眼中なんだよなあ。ホントこれがナンパだとかちょっと有り得ないんで。
「あの、そういうカミングアウト要りません、迷惑」
うわ……声に出てたのかよ、恥ずかしすぎる。「いやまいったなあ。あ、わかるわかる、いきなり声をかけてくるやつなんてナンパか宗教の勧誘しかないもんね? そんなんじゃないから。ていうかさ行っちゃうにしてもさ、せめて食べてからにしない? 鰤の照り焼きなんて滅多に出ないんだしさ」
「後で森岡君にはよく言っておきます、二度と私に人を紹介しないで欲しいと」
「いやその」
「それと」
高槻アリスは冷たい表情で俺の目をちらりと見た。何故だろう、俺はその冷たい瞳の中に、一瞬の影を見た気がした。その影が何かの感情なのか、それを確かめようとする前に、彼女はそれまでとは打って変わった低い声でこう言った。
「これ以上つきまとわないでください。私、三日後に死ぬと思いますから」
失礼します、と言葉を残して高槻アリスは踵を返し、俺の前から去って行った。その様があまりにも洗練されていて……まるで芝居の一幕であるかのようで、俺は彼女の背に声をかけることもできずに中腰で立ち尽くしてしまっていた。
接触失敗。玉砕ともいう。
こんな結果はわかっていたさ、占い師でなくたって予言できる。
高槻アリスに言ってやりたい、どこをどう見れば俺がナンパ慣れしてるように見えたというのだ。生まれてこの方、知らない女性に声をかけたことなんかあるわけがない。ここ一週間で唯一した女性との会話は「温めてください。あとマルボロメンソールライト。あ、それじゃなくて隣のBOXのやつ」だ。そんな俺にだ、森岡の野郎はよりにもよって違う学部の、しかもあんな難度最高エクストリームレベルの女子に声をかけろと言ってきたわけだ。もちろん結果は最悪。何なの、今の女子ってあんなエグい断り方すんの? 罰ゲーム? もうこれ罰ゲームだよね?
気恥ずかしさから来る火照りを鎮めようと、少し冷めてしまった照り焼きに箸を付け始めると、俺の目の前の机に遠慮がちにA定食が置かれたのが見えた。まさかと思って顔を上げると、今一番この世で殴り飛ばしたいツラがそこに現れた。今一番この世で殴り飛ばしたいニヤニヤ笑いを貼り付けながら。
「森岡ぁ! お前、さては隠れて見てただろ」
「いや、隠れてはいないよ、ホントだよ。でもまさかあんな完璧に拒絶されるなんて、よほどマズい声のかけ方したんだろうね」大きなお世話だ。
「なぁにが『的中率百パーの占い師がウチの学部にいるから声かけてみなよ』だ。お前のせいで俺がナンパしてフラれたみたいな感じになってんじゃねーか」
「でも一回フラれておくと、次から度胸が付いて成功率が上がるらしいよ?」
「何言ってんだお前」
「何って、ナンパの話だろ?」
「死ね、二股がバレて塚原に刺されて死ね」
「二股なんかしてないしユカリが僕のこと刺すわけないだろ~」
味噌汁をガシガシとかき混ぜると、中から黒々としたワカメが浮き上がる。俺の頭の中もガシガシして今日のことは全部忘れたい。そもそもなんでこんなアホヅラにあんなかわいい妹系の彼女がいるのか理解に苦しむ。世の中不平等だ。ああもう今すぐこのニヤケ面にこの中身をぶっかけてやりたい。アツアツの黒ワカメでジャパニーズ・トラディショナル・ブッカケじゃボケナス!
「ナスと言えば金曜日のA定、竹下の好きな麻婆ナスだってさ、良かったじゃん」
「お前人の心読むなよ!」
「いや、口に出してブツブツ言ってたじゃん……」
どこまで口に出してたかは恥ずかしくて聞けなかった。
「そんなことよりさ、次はもう少し普通に声かけてみなよ。なんなら僕も同席するからさ」
「それができるなら最初からしろよ!」
「そこはほら、竹下の練習にもなるじゃん?」
「何のだよ」
「何って、ナンパの話だろ?」
話が一周するとはこのことだ。もっとも、俺だけ何周も周回遅れなのは間違いないところである。
「だいたい、的中率100%だか何だか知らないけど、ちょっと態度デカくない?」
「そこは竹下の声のかけ方だろ? いきなりアレはないよ。まずはにっこり笑って挨拶、これだね」
そう言われるとぐうの音も出ない。仕方あるまい、声かけ初心者なのだ。
うん、声かけ。断じてナンパではない。
「それに、もし仲良くなれたとしても、すぐに占ってもらえるかどうかは別だし」
「は?」聞いてないよぉ~ってまさにこういう時のためにある言葉だ。
「いやあ言ってなかったっけ、高槻さん、請われても絶対自分からは占いはしてくれないんだ。でも、仲の良い人には、ある日突然、占いの結果だけ教えてくれる。だから彼女が実際にどういう占いをしてるかって、実は誰も知らないんだよね」
「お前なあ! イヴに五十嵐さんを誘ってOKかどうかわかんないんじゃ全く意味ねえんだよ!」
俺はこれ以上ないと思う憤怒の形相を作って森岡を睨んだ。それを受けた森岡の表情は変わらない。どうやら俺は「ニラミを利かせる」という才能を持たずに生まれてきたようだ。
「まあまあ。ほんと彼女の占いって突然なんだよ。連絡先さえ交換しておけば、今日の夜に連絡入るなんてこともあるかもしれない」
いけしゃあしゃあとそんなことを言う。
「そもそも俺は占いなんか1ミリも信じちゃいねー」
「えーっ? それじゃあ、なんで占ってもらおうとしてたの」
「そりゃおまえ、100パーとか言われたから、試しに聞いてみて論破してやりたくなっただけだし」
「中学生じゃないんだから……ま、あの声のかけ方じゃ占いとか関係なくダメかもしれないけど」
やっぱり聞いてたんじゃねえかおまえー!
「占いとか関係なく、もう一度あたってみた方がいいと思うよ。今日のところはさ、高槻さんも虫の居所が悪かったみたいだし」
「そういうレベルじゃねえだろ、ありゃ」
「普段はもっと気さくで明るい人なんだけど」
そんな要素はつゆほどもなかったけどな。
「あんな冗談を真顔で言うなんて、よほど嫌われたんだろうね」
「バッカお前、別に就活サボってるわけじゃないって。院試組は院試組でこれからいろいろあんだよ」
「そっちじゃないよ、最後に言ってたほう」
「ああ」
と頷きながらも、内容のインパクトだけが頭にあって、具体的な発言内容が今ひとつ思い出せないでいた。
「つきあってください、だっけ」
「つきまとわないでくださいだよ、まるっきり逆。言われてたでしょ、『私、三日後に死ぬ』って」
お前、実はけっこう近くで盗み聞きしてたよね?
確かに、冷静に思い返してみるとずいぶん悪趣味で意地の悪い冗談だった。俺の声のかけ方が良かったとはお世辞にも言えないが、いや、うん、最悪ではあったかもしれないがそれはまあ置いといてだ。向こうも向こうで、初対面の相手に対してそこまで言っちゃうかなって感じはする。そう考えるとイライラしてくる。
いや、まさか、あの一言が件の「占い」だとは言わないよな?
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三日後、高槻アリスは死んだ。