一の章 団栗のかみさま
この物語は、『古事記・上巻』の神々や時代をモデルとしており、神々の名前や地名、エピソードなどをモチーフとしている場面がありますが、実際の『古事記』とは一切の関係を持ちません。
―― 一の章 団栗のかみさま
「ああ、いけない……」
寄せ合う屋根に茅を葺いた集落から、少しばかり離れた山の中。
まだ幼い少女が顔を歪めた。
「これでは帰れない――あぁ、橋が……」
木の実を一杯に詰めた土器をしっかりと抱きしめる腕に力を込める。切なそうに、その木の実を見つめた。
つい先刻、彼女がそれらを拾っているとき、さっと雨雲が通り過ぎのを思い出す。
恵みをくれる大木に身を寄せていたらすぐに去って行ったから濡れることは免れたのだが、ずいぶん勢いよく降っていた。こちらの方か、それとももっと上流のほうでは、結構な量が降ったのだろう。
沢に丸太を搔けただけの簡単な橋は、どうどうと川へと変化した水によって流されていた。
「いけない。今日は大切なおまつりがあるのに」
「――ツムや」
少女が小さくつぶやくのと同時かその刹那にか、透けるような美しい男の声が頬を凪いだ。
雨上がりの湿気を帯びた土臭い風に乗り、まるでその風の一部であるかのような、それでいて嫌な感じのひとつもない声。
少女に名前はなかったが、その声が自分を呼んでいるのだというのはすぐに分かった。
その風が、声が流れてくるもとを探るように、少女は振り向いた。
「ツムグリ拾いのツムや。そなたは何故、そのように切ない顔をしているのだ」
そこにいるのは、見目麗しい男であった。
不思議と、彼の方から暖かい風が吹いて少女の髪を梳く。
「ええと、橋が、なくなってしまって……」
本当に不思議だ、と思った。
まずは男の服装である。
少女や集落の大人たちの纏う布とは違う、さらりと優しい光沢のある絹。これを、少女はまだ知らない。
長い髪を横で結わえたみづらもそこに挿した象牙の櫛も、少女には初めて見るものだった。
男は少女の目線を追い、勢いよく流れる川を一瞥した。
「そうか、橋が架かっていたのか……」
長い睫毛を静かに伏せると、憂いを帯びた瞳に影がかかる。
「済まない事をしてしまったね。ツムや、水が引くのを一緒に待とうか」
男のしぐさ、言葉、すべてがあまりに滑らかで、まるで夢の中にいるような感覚になる。
考えるより先に頷いて、手を差し出す男に歩み寄ろうと土を踏みしめた筈の足は雲を噛むようにふわりと濡れた草に受け止められた。
「不思議。夢を見ているみたい」
「そうだな。夢のようなものかもしれないね」
そっと受け取った男の手のひらは、まるで熱が出たときのように温かい手のひらだった。
「そのツムグリは、何に使うのだい?」
「ツムグリ」
傍らで雨にぬれた草が太陽にきらきらと輝く。
偶然にも乾いていた石に腰かけて、きょとんと首を傾げて返す少女に男は優しく笑いかける。
「その、コナラの実だよ。ツムグリという。ドングリという者もいるな」
「コナラ。ツムグリ……」
「そなたは、たくさんツムグリを拾っていたから、ツム。ツムたちはまだ名を持たぬのだな」
ツム、と呼ばれ、少女は籠の中の木の実をじっと見つめた。
コナラもツムグリもドングリも、どれも聞いたことのない名前であったが、おそらくこの木の実をあるいはそれらを恵む、大木を示すのだろう。
何度か目を瞬いてから、はっと顔を上げる。
「ムラの大人には、名前のある人も多いの」
特に必要を感じていたわけでもないが、名を持たない少女に初めての名前は嬉しい。
「ツム、と初めて呼ばれて、嫌な感じはしなかったわ。嬉しかった。私の名前だって思ったの」
頬に朱を昇らせ、興奮したように笑う少女に男は目を細める。
「真名、というものがあるのだ。ツムや。それがそなたの真名だよ。大切になさい」
「真名。あなたにもある?」
「もちろん、あるさ。でも真名は魂だからね。容易に人に教えてはいけないんだ。これも覚えておきなさい」
「難しいのね」
「簡単な話さ。まだムラで名前が必要でないのなら、私がそなたを呼ぼう。そうしたらそなたが忘れることもないし、悪い大人や呪術師に知られることもない」
男は優しく少女の髪を撫でる。
ふわり、と、また暖かい風が凪いだ。
「ああそうだ、あのコナラの大木にも二柱の夫婦が住んでいてね。かの方たちにも、この心美しい巫女の名を伝えておかなければいけないな」
「巫女?」
「そなたがもう五つばかり大きくなってからの話だけれどね。それまで、その名を大切にするのだよ」
「やっぱり、不思議」
男の言葉は問うこともままならないほど遠い世界の話のようで、本当に夢なのかしら、と思うほどふわふわと意識のうわべを撫でる。
ほとんど理解できない中で、ふとひとつだけ浮かんだ疑問。
「そういえば、あなたには、真名を知られてもいいの?」
真っ直ぐに向けられた瞳に、ああそれは、と男は笑った。
「私は、人ではないからね」
※
時が経ち、団栗の大木が山より見守る麓のムラに一人の巫女が立った。
齢、数えでわずか十ばかりの幼い巫女は、それでいて凛とした顔つきで山を見上げた。
「じじさま」
彼女を巫女に、と勧めたのは一人の年寄りだった。
ムラはまだ長を持たず、人々が身を寄せ合って暮らす集落であったが、神々は年寄りに話しかけることが多い。昨晩、五年ほど前にこの地を訪れた神がこの年寄りの寝所に現れた。
「神様というのは、どんなお姿をしておられたのですか?」
少女の問いに、老人は首を傾げる。
「はて。お声は聞こえたのじゃが……」
「人の形をしていて、御髪を耳の上で結わえて不思議な石で飾って。お召し物はこの世のものと思えないほど美しく滑らかな布で、それで……」
「……まさか。お姿を拝見するなど畏れ多いことよ。強いて表すなら、白い靄のようなものであったと言えるかの」
巡る神や万物に宿る神々が人と交わることは少なくないが、人の姿で現れることは滅多にないと、少女も聞いたことがある。
「この地を気に入ったから、山の入口に社を建てよと。そして以前の祭りで木の実を拾ってきた娘を巫女として遣わせよとのことじゃった。山を愛するおぬしの気持ちを、気に入っていただけたのかのう。――して、先ほどおぬしの言っていたお姿は?」
「……なんでもありませぬ。幼きころに見た夢の話です」
切なそうに少女が目を伏せると、山のほうから「おおい」と若い男集が走り寄ってきた。
「一日かけて社を組んだが、娘っこ一人で暮らすには心許ない。いつかの巡り神様が仰っていたが、これが贄を取る神様なのかねぇ……」
平和で安穏としたムラへの突然の要求に、男は不安の色を見せる。
明るく快活で、木の実や魚を取るのが得意な山に愛された少女を送るのは、ムラの人々の胸を締め付けた。
もうすぐ山は葉を落とし、白雪が降り積もる。
「これ。このムラにはもう貴い御方がお見えなのだ。滅多な事を言うでない」
男の言葉を叱咤した老人は、今一度少女に向き直した。
「いいかね。おぬしも不安はあろうが、想像で気を病むでないぞ。ムラから離れることになるが、このムラの神様は貴い方じゃ。きっと良くしてくださる」
少女は恵みを得ることに関しては誰よりも長けている。
火の扱いも覚えたし、土器や石もムラの人々から贈られた。山の近くでは獣が心配であるが、それがなければ冬も越えられるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、むしろ自分自身の不安や罪悪感を消し去るようにしながら見つめる老人に、少女は困ったように笑った。
「じじさま。私は、なにも不安などとは思っておりませぬ」
その言葉に偽りはない。
「ひとつだけ聞かせてくださいませ。じじさまが貴いお声を聞いたのは夜だと言いました。日が山のあちらに行ってしまえば、火を焚いていてももう寒うございましょう。その瞬間も、お寒うございましたか?」
迷いなく問う少女に老人は一度だけ目を見開き、不思議そうに少々考えてから頷いた。
「いいや、あたたかい、しかし春とも夏とも違う風が吹いておった。吹く、というより、流れるような、不思議な感じじゃったの」
その言葉に、少女は幼子のように屈託なく笑う。
「では、大丈夫でございましょう。私の大好きなムラを守っていただけるよう、おつとめを果たして参ります」
少女には確信があった。
幼いころ、木の実の大木からの帰り道、沢の近くの木の下でなぜか居眠りをしていた話。その時に見た夢と、いつの間にか得た、大切なものの話。
誰にも話さなかった、きらきらとした宝物のような思い出が、夢ではなかったのだと胸を熱くする。
「行って参ります」
また、優しく名を呼んでもらえるだろうか。
少女が巫女となった日は、雲ひとつない秋晴れであった。
fin.
初めのかたりごとは、人々が肩を寄せ合って形成したムラの少女と、やがて土地神となる巡り神との出会い。
彼女たちのお話は、今後もまた紡げたらいいな。